Remembrances 〜高橋幸宏に寄せて

Remembrances〜高橋幸宏に寄せて

2023年1月11日、71歳でこの世を去った高橋幸宏。ここでは、ミュージシャンやエンジニアからお寄せいただいた追悼コメントを掲載する。生前に親交の深かった方、または音楽的な影響を受けた方ばかりなので、じっくりと読み進めていただきたい。

飯尾芳史

【Profile】YMOらの録音に携わった後、1982年に細野晴臣『PHILHARMONY』でエンジニア・デビュー。これまでに矢野顕子、THE BEATNIKS、渡辺美里、藤井フミヤ、竹内まりや、松たか子、のん、スキマスイッチ、矢沢永吉など、数多くのアーティストの作品を手掛けている。 Photo:DAISUKE OHKI

【Profile】YMOらの録音に携わった後、1982年に細野晴臣『PHILHARMONY』でエンジニア・デビュー。これまでに矢野顕子、THE BEATNIKS、渡辺美里、藤井フミヤ、竹内まりや、松たか子、のん、スキマスイッチ、矢沢永吉など、数多くのアーティストの作品を手掛けている。 Photo:DAISUKE OHKI

 僕は幸宏さんとスネアの音を探求するのが好きでした。ドラム・パターンを考えるのも好きでした。

 拍頭の分からないおかず(フィル)や、はみ出しおかずを考えること、タムのリムのかかり方やスネア・ロールの長さにこだわることも好きでした。

 16ビートのハイハットの入れ場所や、いかにシンバルをたたかないで演奏するかを談義すること、逆再生のギター・ソロを考えることも好きでした。

 モータウン・サウンドやジョージ・ハリスンの癖を追及したり、ホワイト・ノイズの音色やトニー・マンスフィールド(ニュー・ミュージック)の音を探求するのも好きでした。

 僕はこんな現実がやってくることなど、みじんも考えていなかったので全く受け入れることができません。

 テレビを見ていても街を歩いていても、目に入るものや聞こえてくる音、何もかもが必ず幸宏さんに関連づいてしまい胸が苦しくなってしまいます。

 あらゆるシチュエーションで思い出してしまう、その影響力は本当に計り知れません。

 日々淡々と仕事を続けていますが、ちょっと前のような日常に戻るにはもう少し時間がかかりそうです。

 ご生前のご厚情に深く感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。

石野卓球

石野卓球

【Profile】1989年にピエール瀧らと電気グルーヴを結成。1995年のソロ・アルバム『DOVE LOVES DUB』を皮切りにDJ活動やヨーロッパを中心とした海外での活動も行い、2015年にはニュー・オーダー「Tutti Frutti」のリミックスを日本人で唯一担当。DJ/プロデューサー、リミキサーとして多彩な活動を行う。

高橋幸宏「コネクション」

初めてラジオで聴いた瞬間イントロで震え歌い出しでさらに震えた。いまだ震えてる。

いとうせいこう

いとうせいこう

【Profile】1988年に小説『ノーライフキング』でデビュー。『ボタニカル・ライフ』で第15回 講談社エッセイ賞、『想像ラジオ』で第35回 野間文芸新人賞を受賞。近著に『福島モノローグ』など。音楽活動では日本にヒップホップ・カルチャーを広く知らしめ、日本語ラップの先駆者の一人。現在はロロロ(クチロロ)、いとうせいこう is the poetで活動。

 幸宏さんがT.E.N.Tレーベルを立ち上げたとき、すぐに仲間に入れてもらった。その頃は、というかそれからしばらくしても自分はレーベルと契約することの重要性を理解していなかったから、それを当たり前のように思っていた。そして日本語ラップが入ったアルバム『建設的』が世に出た。

 そのほんの少し前、僕は『業界くん物語』というマンガをCDやビデオにしたのだが、なんとそこには幸宏さんも坂本龍一さんも出てくれていて、多分それはお笑い好きの幸宏さんが当時スタンダップ・コメディをやっていた僕を気に入ったからだろうと思う。そのプッシュもあって坂本さんをはじめ多くのアーティストが映像に参加してくださった可能性がある。

 また、随分してフェスが一般化したとき、幸宏さんは『WORLD HAPPINESS』に僕とかせきさいだぁが組んだファンク系のバンド、THE DUB FLOWERを呼んでくれた。

 全くメジャーな活動をしていなかったが、自分としてはダンス・ミュージックとして十二分にレベルの高いライブをやっているつもりだった。それにしてもあんなマイナーなバンドのことをどこで知ったんだろう?

 『WORLD HAPPINESS』にはそのまま、「晴れ男だから」という理由で再び呼ばれ、実際ステージに近づく雨雲を中央から割ったこともあり、楽屋の機材で気圧や雲の変化を監視していた幸宏さんの厚い信頼を得たものだ。

 そしてまた、ご自分があの温かいフェスのプロデューサーを辞めると言いだしたとき、幸宏さんはなんと僕を後釜に指名した!

 まあ結局『WORLD HAPPINESS』は、僕の出番もなくお開きのようになったが、なぜ僕がそんな大それた役を引き受けたかといえば、さすがに何度お世話になったか知れないからだった。

 新しいものを察知するのにたけていて、とにかく面白いもの好きで、キャリアの差別なく自在なフックアップを行う。それは演奏以外での幸宏さんの最高の美点で、思えばそのおかげで今の自分がいるのだった。

 そして、幸宏さんがいなくなるまで、僕はその大事なことにきちんと気づいていなかった。

 でも気づいていないくらいのほうが幸宏さんもきっと楽だったろうと今は思う。

 幸宏さん、本当にありがとうございました。後からの御礼でごめんなさい。

小山田圭吾

小山田圭吾

【Profile】1969年、東京生まれ。1989年にフリッパーズ・ギターのメンバーとしてデビュー。バンド解散後の1993年、Corneliusとして活動をスタート。現在まで6枚のオリジナル・アルバムをリリース。自身の活動以外にも、国内外多数のアーティストとのコラボレーションやリミックス、インスタレーションやプロデュースなど幅広く活動中。

 幸宏さんには、音楽家というストイックな言葉があまりしっくりこない気がします。もちろん、たくさんの素晴らしい音楽を作ってきた音楽家であることは間違いないのですが、音楽やファッション、釣りやお酒、そういうしゃれた遊びを、環境によって培われたセンスや天性の才能で突き詰めた結果、たくさんの才能が幸宏さんの周りに集まり素晴らしい音楽が生まれていったような、そんな自然さを感じます。

木本ヤスオ

木本ヤスオ

【Profile】シンセ・プログラマーとして、高橋幸宏『EGO』や高野寛『hullo hulloa』などのプログラミングで頭角を現し、細野晴臣、コシミハル、吉田美奈子、後藤次利、根岸孝旨ら数々の著名アーティストの作品にシンセ・プログラミングおよびリズム・アレンジなどで参加。近年はBUMP OF CHICKENの作品にコミットしている。

 幸宏さんと出会ったのは、僕が25歳くらいの頃。当時、一緒に仕事をしていた先輩ギタリストの紹介で一大決心をしてシンセ・プログラマーへの転向を決め、幸宏さんが作った事務所のオフィス・インテンツィオ(当時は楽器部が分かれていてシステマという会社だった)に赴いたときでした。

 最初の仕事は、1987年のTHE BEATNIKSの2枚目のアルバム・レックだったと思います。先に仕事をした大村憲司さんとのスタジオ仕事が研修みたいな感じとなり、多分憲司さんのお口添えもあって、幸宏さんの方にもすぐに参加させてもらえたんだと思います。レコーディングは銀座にあったSMOKY STUDIOでやっていましたが、大きな地震があり高層階だったのでメッチャ怖かったのを覚えています(笑)。

 当時の作業は、文字通りテン・キーで“打ち込む”ステップ入力のプログラミングで、幸宏さんからの指南は口伝えで“ドン”とか“タッ”とか“チチチ”みたいに、リズムを口ずさんでもらったのを耳で把握して、COME ON MUSIC Recomposerにひたすら数値で打ち込むという、今からは想像もつかないような手法でした。多分僕は、こういうふうに直接、口伝えでフィルなどを教えてもらった最後の生徒になるんじゃないのかな……。後輩の岸(利至)とか権ちゃん(ゴンドウトモヒコ)とかは、恐らく鍵盤からの直接入力だったろうし。

 幸宏さんのソロ・アルバムへの初参加は『EGO』(1988年)からですが、スタジオ仕事としては異例とも言える4カ月という長期間で、その甲斐あって、この頃に幸宏さんに学ばせてもらえたスタジオのノウハウが僕の根っこになっています。そういう意味でも、僕にとっては本当の意味でお師匠さんって感じです。

 印象的なのは……椎名誠さんの映画三部作の音楽を幸宏さんが担当したのですが、『ガクの冒険』(1990年)のときは、作業スタジオが加藤和彦さんのプライベート・スタジオでアナログ・テープの録音だったりして、アシスタントがいない中、僕がテープを回したりパンチ・インしたりとか、かなり特殊な現場だったな~と、その風景から思い出したりして、とても懐かしくなります。

 自分は2005年の夏に事務所を離れフリーとなり、同時に少しずつ疎遠になっていくわけですけど、それでも数年ほどはお仕事もあって、サンレコにも取材していただいた2006年のApple Store Ginzaでの『BLUE MOON BLUE』インストア・ライブと、そのライブ・ミックスが幸宏さんとの最後の仕事となってしまいました。

 幸宏さんが亡くなられたと知ったのはネット・ニュースでした。今はやはり、少し距離があるからか実感がほとんどなく、実のところあまり喪失感はないんです。でも、もうライブとかでお会いできないんだな、とか考えだすとすごく寂しくなりますし、お別れ会まではあまり考え込まないようにしておこうかな……とも思っています。

 幸宏さん、その節は本当にお世話になりました。僕の中には、まだあのときの打ち込んでいた頃の記憶があります。“ほかの仕事でも使っていいよ”……と言ってもらえたAKAIのドラム・サンプル音源(今はNATIVE INSTRUMENTS Kontaktにコンバート済み)もいまだ健在ですし、ふとしたときに、何らかの形で“っぽい”のを打ち込んでみようかなと思います。

戸田誠司

戸田誠司

【Profile】1980~90年代に多岐にわたる作編曲とプロデュース。Shi-Shonen、REAL FISH、FAIRCHILDといったバンドを経てソロ活動を開始。SONY PlayStation用ソフト「グランツーリスモ」の中の人。20年ぶりのアルバムは、いまだ完成せず。

 シャウトすることはないのにボーカルの熱量は高く、饒舌に語ることはないのにたたくドラムはひたすらかっこいい。YMOと世界とをつなぐ窓をひらき、ポピュラー・ミュージックと軽やかに対峙していく。そんな兄貴分の存在は、大いに心強かったです。どうぞ安らかに。

後藤次利

後藤次利

【Profile】ベーシスト。サディスティック・ミカ・バンド『HOT! MENU』(1975年)の録音に参加。同バンド解散後は高橋幸宏らとサディスティックスを結成。作編曲家としても活動し、八神純子、中島みゆき、沢田研二など多数のアーティストに携わる。リバイバル・ヒット中の松原みき「真夜中のドア~stay with me」にベーシストとして参加していた。

 幸宏氏との最初の出会いは確かな記憶がないのですが、1974年だったか、当時竹下通りにあった輸入盤専門店でレコードを探しているときに、反対側で同じようにレコードを見ていたのが幸宏氏でした。そのときに、サディスティック・ミカ・バンドのレコーディング中なのだがベースを弾いてもらえたら、と声をかけてもらったのでした。レコーディングを経てイギリス公演、そして解散後はサディスティックスと活動を共にしました。

 過ごした時間の中で鮮明に記憶があるのは、サディスティックスの1stアルバム制作時に、2人でギターを持ち、ひざを付き合わせ「The Tokyo Taste」を作った光景です。今の時代ならば、お互いデータのやり取りでするような作業を対面でやった良き思い出です。

 皆さんご存じのように、幸宏氏は服飾デザインも手掛けていた、しゃれた方でした。僕も彼のアトリエやショップに行ったものです。

 ドラマーだけでなく音楽家、アーティストとして功績を残した幸宏氏ですが、僕が共にしたお互い20代半ばのドラマー幸宏氏のスタイルは、サウンドをデザインするリズム構成力のあるプレイヤーだと感じていました。16ビートが主流の頃でしたが、独特の音符の間が生み出す空気感は彼ならではのスタイル。景色を描くようなドラマーでした。

 今夜は、40年以上聴いていなかったサディスティックスのレコードを聴きたい気分になってきたね。素晴らしいミュージシャンと20代を共にできたことを感謝しています。

 ありがとう!幸宏!

ゴンドウトモヒコ

ゴンドウトモヒコ

【Profile】音楽家。anonymassを結成し4枚のアルバムをリリース。YMOの国内ライブ/欧米でのツアーに参加。コンピューターと管楽器を使ったユニークなスタイルで、THE BEATNIKS、LOVE PSYCHEDELICO、Chara、UA、くるり、大貫妙子らの録音やライブに参加している。pupa、METAFIVE、蓮沼執太フィル、ベーソンズのメンバー。

 幸宏さんには一番育てられた。1995年、何も分からず当時のサンレコ編集長・國崎晋さんの紹介で幸宏さんの事務所オフィス・インテンツィオで働きはじめ、ど真ん中のYMO世代としては20代後半から40代前半はガムシャラに働いていた。「デモがあったら聴くよ」というのが事務所にいての特権で、たくさんあったので提出していた。あるとき、事務所の忘年会か何かで「デモ聴いたよ、いいね」って幸宏さんに言ってもらえて。

 最初は幸宏さんに来た事務所のコンペで、僕の曲を使ってくれたのは忘れられない。仙台の商業施設の音楽。レコーディングでは無理難題を何一つ言うことはなかった。信頼した人に託すタイプの人だ。ただ、イメージがあるので、それを理解することが大切だった。

 仕事は日常業務(楽器運び、機材のセッティング)が大変だったけれど、空いている時間は事務所にあるたくさんの機材、最新のコンピューターも学べて、寝る時間も惜しんでできたのは幸宏さんのおかげなんだなぁと。

 ライブはTHE BEATNIKSから。2001年。いろいろなミュージシャンと演奏するのも初めて。ど緊張だったけれど、幸宏さんが優しく接してくれたので楽しくできた。その後はSKETCH SHOW。そこから教授が入ってYMOになり。いつもそこにいられたのは幸宏さんのおかげ。

 ライブでの幸宏さんはクリックには正確無比。クリックでやるライブも当時あまりなかったので、どうやったら楽しくできるかアイディアなども提案したり、とにかく“やってみよう”というチャレンジャーであった。

 YMOなど、スタッフ含めて緊張感みなぎる空気も、穏やかにさせてくれるのは幸宏さんだった。何気にいつも全体を見ている人だった。

 本当にいつでも新しい音楽が好きな幸宏さん。それは古い音楽も熟知してるから偏っていない。そんな中、ソロではガッツリ『BLUE MOON BLUE』(2006年)、『Page by Page』(2009年)を作った。できれば三部作にしたかった。ソロ・ツアーでは、2006年のLIQUIDROOMで本番前に僕に娘が産まれ、恥ずかしながらも紹介のときに祝ってもらったのもとてもうれしかった。

 そして『WORLD HAPPINESS』! 毎年出させてもらえて本当にうれしかった。幸宏さんがバンドを結成すればいつも誘ってくれる。pupa、In Phase、METAFIVE。

 独立してからも仕事に呼んでもらえて。とにかくいつも優しかった幸宏さん。それでもプライベートで会うことはほぼ無かった。やはり幸宏さんとの距離は変わらないから保てていた(と思う)。大体、仕事が終わったら一緒に飲む。そして飲んだときの幸宏さんの話は宝物。

 これからも恥じぬよう続けて生きます。本当にありがとうございました。

佐橋佳幸

佐橋佳幸

【Profile】ギタリストとして参加した小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」や藤井フミヤ「TRUE LOVE」で、クリエイティビティが高く評価される。ほかに山下達郎、坂本龍一、Tin Pan、サディスティック・ミカ・バンドなどのライブへ参加。2015年にコンピレーション『佐橋佳幸の仕事(1983-2015)~Time Passes On~』をリリースした。

 2018年11月に幸宏さんの1stアルバム『サラヴァ!』のリリース40周年ライブの音楽監督を務めさせていただき、その流れで2019年5月の福岡のイベントで共演させていただいたのが最後にご一緒したライブ。2020年4月にポカリスエットのCM用に「君に、胸キュン。」のレコーディングへ呼んでいただいたのが最後の共演となってしまいました。

 テクノの世界とはご縁のない音楽活動をしてきた僕に、「ジャンルやキャリアなんて関係ない。一緒にいい音楽作りができれば、それでオッケーでしょ?」と気軽に声をかけてくださって、たくさんの作品やライブをご一緒させていただいたことは、僕にとって宝物のような時間でした。

 何度かお宅にお邪魔して、朝まで飲み明かしたことも……。スタイリッシュなイメージとは裏腹に、意外にも体育会系で若手の面倒見も良い”アニキ”でした。

 僕ごときが声高に言うことでもありませんが、ドラマーとして、ソングライターとしてはもちろん、幸宏さんのような稀有な音楽家は世界中どこにも見当たりません。ご教示いただいたことを胸に精一杯生きていきますので、僕がイケてない仕事をしていたら、天国からダメ出ししてくださいね!

 大好きでした&ありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。トノバンや忠さんにもよろしくです! ”さようなら”は言いませんよ。

白根賢一

白根賢一

【Profile】1992年、Rotten HatsのメンバーとしてKi/oon Sony Recordsよりデビュー。1995年には、GREAT3として東芝EMIよりデビュー。高橋幸宏、THE BEATNIKS、BONNIE PINK、LEO今井、TESTSET、YUKIなどのライブや録音にドラマーとして参加。楽曲提供やプロデュースも行う。2008年、ソロ・アルバム『manmancer』を発表。

 YMOごっこでドラムをたたくのが幼い頃の日課だった僕にとって、幸宏さんは憧れでした。

 そんな僕がTHE BEATNIKSにドラマーとして参加するという夢のようなオファーをいただいた年の夏、『FUJI ROCK FESTIVAL』へYMOでいらしていた幸宏さんにホテルの廊下でバッタリ遭遇。幸宏さんは開口一番、「賢ちゃんさあ、「6,000,000,000の天国」の歌前のとこ、実はあそこ3連になってんの、知ってる?」……あいさつより先にドラム・フィルの解説、最初の会話でした。窓枠に腰掛けて、ご自分のひざを手でたたいて手順を細かくご教示くださる幸宏さん。突然の展開に戸惑いつつも、一挙手一投足を目に焼き付けるべく正座する僕。

 とある酒席では「賢ちゃんさあ、羽生結弦は4回転飛ぶときにシュっと突然入るでしょ。飛ぶ前に、さあ飛びますよって動きはしないよね」と。つまり、いかにさり気なくかつエレガントにフィルを入れられるかということをおっしゃっている。長年培ってこられた独自の美学、ビートのタイミングのあり方、フィルやマナーへの並々ならぬこだわりを知るたび、感銘を受けました。

 ドラムをたたきはじめた10代のほんの数年を除き、幸宏さんは練習したことがないと聞きます。でも、このように心は常にドラムでいっぱいだったのではないでしょうか。恐縮するあまり、いつまでたっても他人行儀な僕に、いつも優しい言葉をかけてくれました。ドラムのことだけでなく、音楽や人生の大切な金言をたくさんいただきました。幸宏さんの横で貴重な経験、気づきを得た幸運に感謝します。

スティーヴ・ジャンセン

スティーヴ・ジャンセン

【Profile】10代より兄のデヴィッド・シルヴィアンとともに音楽を始め、やがてミック・カーン、リチャード・バルビエリを交えバンド“JAPAN”を結成。2007年に初のソロ・アルバム『スロープ』を発表。ユニット“EXIT NORTH”では、2023年4月に再びの来日公演を予定している。高橋幸宏とは、長きにわたってコラボレーションを続けてきた。
Photo:Thron Ullberg

My first impression of Yukihiro was that he seemed to make friends easily. A warm and genuine personality, always humble and polite. Of course, it’s not easy to break the surface in social circumstances, especially when there is also a language barrier to contend with, however we soon discovered we had a very special chemistry which meant that language didn’t matter at all. Yukihiro entrusted me to perform his own drum parts more than any other player which was of course a huge honour, but more than that, borne out of that understanding and trust, and the subsequent collaborative writing projects, there grew an amazing bond which you only find in a handful of people in a lifetime. He brought so much joy into my life, both in work and in play, and I am forever grateful to have found a true and best friend in Yukihiro. He continues to shine in my life.

 幸宏の第一印象は、“友達を作るのが上手そうな人だな”というものだった。温厚で誠実な人柄で、いつも謙虚で礼儀正しい。もちろん、社会的な環境……特に言葉の壁がある場合、その壁を破るのは簡単ではないけれど、僕らはすぐに、言葉は全く関係ない、とても特別な化学反応を起こしたことに気づいた。

 幸宏が自分のドラム・パートを誰よりも多く僕に任せてくれたことは、もちろんとても光栄なことだったけれど、それ以上に、その理解と信頼、そしてその後長く続く共同制作プロジェクトを通じて、一生のうちでほんの一握りの人たちとの間にしか生まれない素晴らしい絆を育んできた。彼は、仕事でも遊びでも、僕の人生に多くの喜びをもたらしてくれた。幸宏という真の親友に出会えたことに、僕は一生感謝するだろう。彼は僕の人生の中で輝き続ける。

砂原良徳

砂原良徳

【Profile】これまで5枚のソロ・アルバムをリリース。プロデューサー、映画/CM音楽の制作、マスタリング・エンジニアとしての顔も持つ。2021年9月に『LOVEBEAT』20周年を記念したリマスター盤を発表。2022年にLEO今井とTESTSETを結成。サポートに白根賢一、永井聖一を迎えライブ活動を開始。2022年8月に『EP1 TSTST』をリリース。

 私にとって幸宏さんは多くのミュージシャンとは異なる独特の価値観を持つ音楽家です。小学生のときに、彼が作曲したYMOの「中国女」を聴き、それが音楽にのめり込むきっかけとなりました。中学生のときにはライブを初めて体験し、サウンド・プロダクションと演出のレベルの高さに衝撃を受けました。MIDIが普及した高校生の頃には彼のサウンドに憧れ、CASIO CZ-5000とRZ-1を購入し、それを主力に制作を行っていました。今でも制作中に、自分における幸宏さんの影響の大きさに気づかされることが多々あります。幸宏さんの新しい音を聴くことができないのは非常に残念ではありますが、彼が残してくれたものを大切にして今後の制作に臨む所存であります。

高桑圭/Curly Giraffe

高桑圭/Curly Giraffe

【Profile】ベーシスト。2005年にソロ・ユニットCurly Giraffeとして1stアルバムを発売。作曲、歌、演奏、録音、ジャケット・デザインをすべて1人で手掛ける。7thアルバム『a taste of dream』にて、高橋幸宏がゲスト・ボーカルとして1曲参加。

 もちろん、幸宏さんの音楽は小学生の頃から聴いていましたが、きちんとお話ししたのは2011年4月17日に東京・上野の恩賜公園水上音楽堂で開催された音楽イベント『道との遭遇ヒガシトーキョーミュージックフェスティヴァル』にて、THE BEATNIKSのバンドでベースを弾かせてもらったときのリハーサルで、幸宏さんにCurly GiraffeのCDを渡して「良かったら聴いてください!」と、お声掛けさせてもらったのが最初でした。イベント当日に僕に会うなり「CDすごく良かったよ!」と言っていただき、まさか聴いてもらえてるなんて思ってもみなかったので、僕は気絶するくらいうれしかったのを覚えています。

 それ以降、幸宏さんのソロ、またIn Phaseにも誘っていただき、たくさんいろいろなお話もさせてもらいました。

 僕の大好きな1960年代、1970年代の米国音楽への造詣も深く、音楽のツボもすごく似ている部分がたくさんあることが分かって、なるほど、それも含めて僕の好きな”高橋幸宏の音楽”だったのかと、あらためて思ったのでした。まだまだ一緒に音を鳴らしたかった。

 幸宏さんと過ごした時間は僕にとって一生の宝物です。生まれ変わってもまた幸宏さんに会いたい。

高田漣

高田漣

【Profile】音楽家/執筆家。自身の活動と並行し、他アーティストのアレンジやプロデュース、映画やドラマ、舞台、CMの音楽を多数担当。アルバム『ナイトライダーズ・ブルース』で第59回 日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞。昨6月にソロ・デビュー20周年を迎え、秋には3年ぶりのアルバム『CONCERT FOR MODERN TIMES』を発表。

光の速さの人

 レコーディングはナマモノなので鮮度が大事ということは録音現場における暗黙の共通認識ではあるものの、幸宏さんほどその判断が速かった人を僕はほかに知らない。それは速度だけでなく正確さにおいてもで、ご自身のみならず僕らの演奏に対しても瞬時に“良い部分”を見出し的確なディレクションをしてくださりました。千里眼とも言えるその瞬間に幾度も立ち会えたことは、自分の音楽家としての一生の宝物であると同時に、もうあの時間は二度と経験できないのかと思うと悲しくて仕方ありません。きっと幸宏さんは生涯作り続けた膨大な音楽と一緒に、光の速さも超えて世界の外側に飛び立っていったのだと信じて疑いません。

立花ハジメ

立花ハジメ

【Profile】1972年にグラフィック・デザイン・グループWORKSHOP MU!!に参加。1976年にはプラスチックスを結成し、ROUGH TRADEやIsland Recordsといった海外著名レーベルより作品をリリース。近年は『The END』『モナコMonaco』といったアルバムの発表、バンドHm(ハーマイナー)の結成、詩集『ORIGATO PLASTICO』の出版など。

 幸宏に初めて会ったのは、1973年、サディスティック・ミカ・バンドのアロハ(アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』)のジャケット撮影のとき。そのとき僕は、WORKSHOP MU!!で使い走りをしていて、ジャケットの撮影の手伝いをしていた……

 幸宏を初めて見たといった方がよいのかも……

 アロハのジャケットの頃は、いわゆる僕の“青の時代”だった……中途半端な長髪にTシャツ、ジーンズみたいな感じで……

 幸宏はおしゃれな短髪で、カシミヤにアール・デコのブローチ……

 その後1976年、プラスチックスになってから、やっといろいろ話ができるようになった……

 幸宏は『音楽殺人/MURDERED BY THE MUSIC』(1980年)のレコーディングに呼んでくれて、「スイミング・スクールの美人教師」でギターを弾いている。思い出深い……

 参加させてもらった幸宏ツアーはただただ楽しくて……

 It's Gonna Work Out……

 心からご冥福をお祈りします……

 安らかにお眠りください……

土屋昌巳

土屋昌巳

【Profile】ギタリスト/プロデューサー。1970年代にIPPU-DOを結成。1982年、「すみれSeptember Love」が代表曲となり、同時期に英国のバンド“JAPAN”にサポート・メンバーとして加入し世界ツアーに参加。2003年に自主レーベルを立ち上げ、自身のバンドとソロ活動に加え、若手バンドのプロデュースなど精力的に活動を続けている。

 1952年6月、幸宏さんは誕生されました。同じ年の8月、僕も生を受けました。 僕がやっと大学生になり右往左往している頃、幸宏さんは既に僕にとってスターでした。サディステック・ミカ・バンドしかり、YMOしかり……。

 その後、僕は幸運にも音楽のお仕事で幸宏さんとご一緒する機会に恵まれました。レコーディングやツアーの合間に、芸術運動のこと、映画のこと、ファッションのこと、もちろん音楽のこと、幸宏さんは本当にたくさんのお話しをしてくださり、そんなとき僕はいつも「そうですよね!」などと相槌を打って、その後は走って六本木の朝まで開いている本屋さんに向かいました。知らないことばかりだったからです。

 幸宏さんからは本当にたくさんのことを教えていただきました。特に「かっこいいビートって何が違うんですか?」という僕の質問に「2拍目の裏」と即答してくれました。こんなお人はもう二度と現れないでしょう。幸宏さんがひと時でも僕のことを心に留めてくださったことに、心からの感謝と悲しみを届けたいです。

 本当にありがとうございました。

 どうか安らかにお休みください。

デイヴィッド・パーマー

デイヴィッド・パーマー

【Profile】プロデューサー/作曲家/ドラマー。ABCやザ・ザなどでの活動のほか、ぺット・ショップ・ボーイズやアート・オブ・ノイズ、トレヴァー・ホーンらとの仕事でも知られ、現在はロッド・スチュワートのツアー・メンバーを務める。高橋幸宏の1983年のツアーに参加。ライブ・ビデオ『BOYS WILL BE BOYS』で、その様子が見られる。

We lost a true wonderful spirit, Yuki taught me so much about Style, creativity, Groove just an incredible musician and friend.

I will miss you

Rest in Eternal peace

 私たちは、真に素晴らしい魂を失いました。ユキは私に、スタイルや創造性、グルーブについて多くを教えてくれました。彼は信じられないほど素晴らしいミュージシャンであり友人です。君がいなくなって寂しいけれど、どうか永遠の安らぎを。

TOWA TEI

TOWA TEI

【Profile】1990年にDeee-Liteのメンバーとして全米デビュー。現在、ソロで10枚、Sweet Robots Against the Machine名義で3枚、METAFIVEとして2枚のフル・アルバムを持つ。これまでにYMO結成40周年アルバム『NEUE TANZ』の企画/監修、高橋幸宏のベスト盤『GRAND ESPOIR』のアート・ディレクションなども担当してきた。

音楽家 高橋幸宏

 近年では親しい方々に、「ご近所さんで、一緒にバンドやってるテイ君」と紹介してくれた会長こと幸宏さん。彼の創り出した音楽、演奏してきた音楽は、みんなの永遠の宝物になりました。美しい思い出の幾つかをシェアしてみます。

▶︎前世紀。初めて僕の曲でララララと一緒に歌っていただけたとき、幸宏さんの声はほかには無い独特な音だよなと痛感しました。その音こそが自分が音楽に興味を持つキッカケ。

▶︎幸宏さんとちゃんと会えたのは、再生YMOでのNY。あの大雪の日に持参したおにぎりエピは3回以上は聞きました。おにぎりからの、SKETCH SHOW。小山田君と4人でApple Storeで即興ミニ・ライブもありました。

▶︎僕が大好物のフーマンチュー唱法、「今回はどれくらい入れとく? 適当に2、3パターンやるからテイ君、後で決めてね」

▶︎スタジオに、まずまずコード譜などを用意してない僕のトラック。いつも幸宏さんはプレイバックしながらミニ・キーボードでスケールを丁寧に確認してから、彼流の(アリかナシか)セオリーで咀嚼、納得後に最善なハーモニーを考えてくれる真摯なお姿にはいつも感激でした。

▶僕が怒られた記憶は無いけど、 「RADIO」を歌っていただいたとき、コレは何度もお褒めの言葉をいただけて。「僕がつくった、詩とメロディみたい」は最大の賛辞と思ったし、「バンドでコレやろうよ」は、さらにうれしい驚きでした。

▶︎港区の鉄板焼き家さんでの最初のバンド会合。幸宏さん、「YMOを始めるときに、メタと言うワードがよく出てさ」「じゃ、高橋幸宏とメタファイブ!」と僕。

▶︎テクノリサイタルらを経て、 「今後は、高橋幸宏はM&Aされて、この6人でメタファイブにしたい」と幸宏さん。いつしか僕は、敬意を込めて“会長”とアダ名で呼ぶようになってました。そして皆も。

▶︎ライブ時、メンバーで僕だけはクリックをモニターしてなくて。いつも会長のドラム回線をマックスにして、世界一好みのドラミングを堪能させていただいてました。ヘッドフォンの音は主に右から、ステージでは僕のレフト・サイドが会長の生ドラムで最高にぜいたくでした。

▶︎2019年12月25日。五木田君から預かった原画をお届けして、新築リビングに釘を打ち付ける大役が最後の面談に。僕は会長に、宇一さんや五木田兄弟などを紹介できて本当に良かったです。

▶︎素晴らしい会長でありバンド・リーダーでした。現実的に6人で会うことももう無いので、今後はまた幸宏さんと呼ばせてください。

▶︎幸宏さん、先日はゴンちゃんのラッパ、おやpにギター弾いてもらいましたよ。

▶︎余談。近所で4人で食事した後にウチへもう一杯。YMO『BGM』の日本盤と米盤のアナログを左右にフェーダー行き来して聴き比べ。MAもカッティングも全然違うよね、と。「そろそろテイ君眠いんじゃない?」とのお気遣い。いやいや、楽しい時間は早く過ぎ去るだけですよ。それにしても、「テイ君はお酒が弱いから」はあんまり幸宏さん以外には言われたことがないです。

 幸宏さんはいつも変わらず紳士に飲んでいらっしゃいましたね。そんな大人になりたかったです。

林立夫

林立夫

【Profile】キャラメル・ママで活動を開始。その後ティン・パン・アレーと改名し、荒井由実、大瀧詠一、矢野顕子らの作品に携わる。2000年には細野晴臣、鈴木茂と“TIN PAN”を結成。2020年に初の書籍『東京バックビート族 林立夫自伝』を発売。2021年、SKYE(鈴木茂、小原礼、林立夫、松任谷正隆)として1stアルバム『SKYE』をリリース。

幸宏は真のポップス・ドラマーの一人だ。

松武秀樹

松武秀樹

【Profile】作編曲家/プロデューサー/シンセサイザー・プログラマー。公益社団法人 日本芸能実演家団体協議会 常務理事。一般社団法人 演奏家権利処理合同機構MPN副理事長。株式会社ミュージックエアポート代表取締役社長。

 もうあの正確無比なドラムビートを聴けないのは、大変悲しい思いが込み上げてきます。

 高橋幸宏さんとはスタジオやコンサート会場ですれ違ったことはありましたが、初めて会って話したのはYMOの録音、アルファスタジオでした。

 寡黙な人で話しかけるのも躊躇しましたが、話してみると音楽はもちろんのこと、ファッション・センスも抜群で、僕にカッコよさを教えてくれた人でした。

 1979年のワールド・ツアーでロンドンの最先端ファッション街にメンバーと一緒に行って、クレープを初めて食べた思い出がよみがえります。

 YMOカルチャーは高橋幸宏さんがけん引していたと思っています。そして現在、YMOカルチャーはZ世代に引き継がれ、未来永劫、継続していくことでしょう。

 お疲れ様でした。ゆっくりおやすみください。

 そちらには、仲間だった加藤和彦さんや大村憲司さんもいらっしゃいます。バンドを再結成してくださいね!

 僕はもうちょっと、こちらの世界で頑張ってみようと思っています。

 見守っていてください!

矢口博康

矢口博康

【Profile】1981年、無国籍インスト・ポップ・バンドREAL FISHを結成。1984年の『天国一の大きなバンド』をはじめ、3枚のオリジナル・アルバムを発表。バンドと並行して、高橋幸宏や立花ハジメ作品のレコーディングやライブに参加する。山本耀司のパリコレ用音楽やサザンオールスターズなどの楽曲では、アレンジャーとして活動。

 ライブのリハーサルで、演奏についてのリクエストが少ないんです。まず全員で演奏して予習のフレーズの答え合わせをする。それでも幸宏さんは良かった悪かったを言わないから、自問自答していくしかない。まるで“あなたの音楽は何なの”って問われているかのよう。演奏の自由度が高い、まるで社員全員株主みたいなスタイルはとてもユニーク。いろいろなユニットを作って音色の違いを楽しんでいたのかな。

矢野顕子

矢野顕子

【Profile】1976年のソロ・デビュー以来、YMOとの共演など活動は多岐にわたる。レイ・ハラカミとの“yanokami”、森山良子との“やもり”などコラボレーションも多数。2022年、自身のアルバム収録曲がモチーフとなった映画『LOVE LIFE』が公開。2023年には全14曲のピアノ弾き語りアルバム『君に会いたいんだ、とても』を矢野顕子・野口聡一名義で発売。

わたしの大切なドラマーが奪われてしまった。

悔しくて困っている。

寂しさは遅れてやってきた。ずるずると。

山口一郎

山口一郎

【Profile】ロック・バンド、サカナクションのボーカル。2月22日(水)にライブBlu-ray/DVD『SAKANAQUARIUM アダプト ONLINE』をリリース。さらに3月31日(金)には初の単著『ことば 僕自身の訓練のためのノート』を発売する。
Photo:K.Kurigami

 僕は幸宏さんの“多面的な部分”に引かれています。音楽とファッションをつなぐような活動はその一つだったと思いますし、カルチャーの中にある音楽というものを高めてくれる存在としてリスペクトしています。

 幸宏さんのことを好きになったのは、高校3年のときにアルバム『サラヴァ!』(1978年)を聴いてから。さまざまな音楽ジャンルを内包した楽曲が収録されていて、あの時代にあれほどの情報量を昇華し、自らの表現としてアウトプットされたカッコ良さに“くらって”しまいました。『サラヴァ!』のコンセプトが、その後の幸宏さんの活動を物語っているように思います。

 『サラヴァ!』にも、細野晴臣さんとのユニットSKETCH SHOWにも、“常に戦っている”という姿勢を感じます。でも、露骨にきばをむいて戦うのではなく、どこか相撲で言う肩すかしのような戦い方でシーンに爪跡を残している……幸宏さんは、カッコ良いんです。とにかく、全部カッコ良い。音楽を“スタイリッシュさ”に着地させる感性とプロデュース能力が、抜群なんだと思います。僕らがやりたくてもできないようなことを簡単にやってのけて、しかもクオリティまで確実に担保する。下の世代である自分が情けなくなってしまうような、そんな刺激を与えてくださいました。

 ちなみに、幸宏さんも僕も釣りが好きで、幸宏さんはその世界でも有名な方でした。磯釣りという、非常にハイレベルな釣りをやっていらしたところから急にフライ・フィッシングに移行されて……釣りの履歴書があるとしたら、かなり異質だと思います。その変遷をたどるに至った心境の変化みたいなものも、お尋ねしたかったです。もちろん音楽でも、さらにいろいろなアプローチを見てみたかったと思います。幸宏さんご自身も、もっと多くのことに挑戦されたかったのではないでしょうか。

LOVE PSYCHEDELICO

LOVE PSYCHEDELICO

【Profile】1997年、KUMIとNAOKIにより結成。2000年にシングル『LADY MADONNA~憂鬱なるスパイダー~』でデビュー。現在までにシングル14枚、オリジナル・アルバム8枚を発表。NAOKIの卓越したギター・テクニックとKUMIのボーカル・スタイルで、独自の楽曲スタイルを確立している。2015年のツアーでは、ドラムに高橋幸宏氏を迎えた。

 幸宏さんと世界を駆け抜けた2015年。あなたと交わした音、言葉、スピリット、すべてがかけがえのない宝物。

Much love, LOVE PSYCHEDELICO

高橋幸宏インタビュー from サウンド&レコーディング・マガジン 1983年3月号

本企画の締めくくりとして、小誌1983年3月号の高橋幸宏へのインタビューを紹介する。当時、高橋ユキヒロの名義でソロ活動しつつYMOでもキャリアを重ね、既に第一線で活躍。プロダクションや機材について語る、貴重な記録となっている。

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