秦 基博『Paint Like a Child』〜トオミ ヨウと切り開いた歌を伝えるための新たな音世界

秦 基博『Paint Like a Child』〜トオミ ヨウと切り開いた歌を伝えるための新たな音世界

低域の音圧感と歌の存在感が今作における大きなテーマなんです

透き通った歌声と心に響くメロディ&歌詞で、多くの人々を魅了するシンガー・ソングライターの秦 基博。2007年にメジャー・デビューを果たし、アコギ弾き語りを中心としたポップスを数多く世に送り出してきた。そんな彼が、3月22日に7thアルバム『Paint Like a Child』をリリース。前作に続き共同サウンド・プロデュースにトオミ ヨウを迎えた本作は、従来とは一線を画する内容となっており、シンセサイザーやローファイ・サウンドを取り入れた音楽性が展開されている。ここでは楽曲のサウンド面を支えるトオミのプライベート・スタジオ、Karinto Planet Studioを訪れ、秦とトオミのお二人にお話を伺った。加えて、後半では本作のレコーディング/ミックスを担ったエンジニアの片岡恭久氏へ音作りのこだわりをインタビュー。3人の音の探求者たちがどのようにアルバムを作り上げたのか、じっくりと読み進めてほしい。

今作は方向性が明らかに変わった

秦さんとトオミさんのなれそめは?

 前作『コペルニクス』の制作のときからになりますね。2018年ごろにこちらからコンタクトを取ったんです。当時、僕は土岐麻子さんのアルバムをよく聴いていて、サウンド・プロデューサーとしてトオミさんのお名前を拝見して、ぜひ一緒に作品を作れたらいいなと思ったのが最初でした。

トオミ とてもびっくりしました(笑)。それまでの秦さんの作品には、著名な編曲家さんや音楽プロデューサーさんたちが関わっている印象があったので、まさか自分に声がかかるとは夢にも思っていませんでしたね。

 前作でご一緒できたおかげでお互いの音楽的な理解度が深まりましたし、今作『Paint Like a Child』でも自然な流れで“またやれたら”と思ったんです。

今作の制作は、いつごろからはじめられたのですか?

 曲で言うと「泣き笑いのエピソード」なので、2020年2月辺り。ただこの曲は『コペルニクス』の余韻が残ったまま作ったような気がするので、どちらかというとこの次に取りかかった「Trick me」の方が、『Paint Like a Child』の制作が始まったな!”という感じでした。

具体的には、「Trick me」のどの辺りがそう感じさせたのでしょうか?

 アレンジや音像面ですかね。2021年の秋にデモを作る期間があって、そこで「Trick me」や「イカロス」が生まれたんです。そのあとにトオミさんと一緒にアレンジする期間があり、そのタイミングから“いよいよ7作目のアルバムを本格的にやりましょうか”となったと記憶しています。

トオミ 毎回デモはAVID Pro Toolsのセッション・ファイルで送られてくるんですが、最初に「Trick me」のセッションをいただいたときに“今回、秦さんこういう曲やるんだ!”って思ったのを強く覚えています。それまでとは方向性が明らかに変わったなというのを感じました。なので、僕自身もこの曲から今作の全体的な方向性を明確に意識することができたように思います。

トオミ ヨウのプライベート・スタジオ、Karinto Planet Studioのコントロール・ルーム。スタジオには8畳ほどのレコーディング・ブースを併設し、作編曲から録音作業まで対応できるという。楽曲制作においては主にソフト音源を使用するということだが、要所でアウトボードを通したり、アナログ・シンセを使用したりするそう。デスクの上には、モニター・コントローラーGRACE DESIGN M905のリモート・コントローラーが置かれている

デスク右手にあるラックには、上からNEVE 1073×2、1081×2、33609/C、THERMIONIC CULTURE Culture Vultureを格納する

上から、BRENT AVERILL 1272、UREI 1178、UNIVERSAL AUDIO 1176LNがラックに収められている

AMEK System 9098 Dual Mic Amplifier、AURORA AUDIO GTQ2 Mark III、FLOCK AUDIO The Patch、APOGEE Symphony I/Oなどの姿が確認できる

モニター・スピーカーはFOCAL PROFESSIONAL Solo6 Beで、サブウーファーのSub6と組み合わせて使用している

あらためて、今作の音楽制作的なテーマを教えてください。

 アルバム全体で考えると、やっぱり低域の音圧感と歌の存在感が一貫しているのかなと思います。近年、自分が好きで聴いている洋楽の影響が強いんでしょうね。低域の音圧感に関しては、これまでよりも強く出るように意識しました。

トオミ ドラムには打ち込みと生の両方が存在していて、かつシンセ・ベースが入っている曲もあります。こういったリズム隊と、それに負けない歌のバランス感がアルバムを通して統一されているのかなと思いますね。

 今作ではいろいろな曲調をやっているので当然アレンジの質感も変わってくるのですが、作品全体としてはそういったことが言えます。

もう一つのテーマとして掲げられた、“歌の存在感”についても教えてください。

トオミ アルバム完成後、あらためて聴いたときに一つ気付いたことがあったんです。作品を通して楽器を弾く人たちの顔があまり見えないっていうか……歌っている人の顔はすごく見えるんですけど、その後ろにいる演奏者が楽器を弾いている絵が浮かんでこないんです。もちろん、それは自分らで意図的にやってたことなんですが。各楽器の細かい表情を出さないで、歌だけがポンッって浮き出ているような音像……そういったものを今作では目指していたと思うんです。なおかつ、リズムもしっかりと前面に出ているというイメージがありますね。

「アコギ弾き語りも良いけど、このアレンジもカッコいいねって言ってもらえるような作品を目指しました」

 “歌の存在感”については自分の好きな洋楽アーティストのサウンドにインスピレーションを受けているんですが、彼らの楽曲を聴くとオケ中での歌の存在感が圧倒的に大きく、しかもクリアで抜けて聴こえるんですよ。もちろん英語特有の子音も関係しているとは思うんですが、“なんであんなふうになるんだろう?”ってずっと考えていて。そこで今回トオミさんをはじめ、レコーディング/ミックスを手掛けてくださったエンジニアの片岡(恭久)さんに相談したんです。

トオミ 僕の方では、歌が際立つようにするために他の楽器の音の重心を下げるというアプローチを取りました。具体的には、歌以外の楽器の高域成分をフィルターでカットすることで歌を引き立てるというテクニックになります。ただし、カットしすぎてその楽器が持つおいしい帯域までなくなってしまうと元も子もないので、そこはちゃんと残しつつ、歌をマスキングする帯域を取り除くようなイメージです。こうすることで、歌が非常に生き生きと聴こえるようになるんですよ。

当然楽器にもよるとは思いますが、カットオフ周波数は大体何kHz辺りに設定を?

トオミ 楽器によって全然違ってくるんですけど、いつもは大体2kHz辺りから上をどの程度カットするのかを考えていましたね。

 「Trick me」を作ったときにこの話をガッツリ落とし込んだことで、以降の楽曲も自然とこのような方向性でやろうってなったんです。トオミさんにはこの件も含めて、どのようにサウンド・デザインするかを考えていただきました。必然的にドラムやベース、コード楽器は、中域から低域が出るように調整されていきましたね。

キーボードのYAMAHA CP1と、その上に設置されたアナログ・シンセROLAND SH-101

エレピのWURLITZER 200A

棚の上には、ホワイト・エディションのMOOG Moogerfooger MF-103 12-Stage Phaserや、Moogerfooger MF-105S MuRF、ROGER MAYER Voodoo-Vibe、STRYMON OB.1、Ola、Lex Rotary、ELECTRO-HARMONIX Stereo Pulsarといったエフェクト・ペダルを確認できた

レコーディング・ブースの一角には、RHODES Mark I Stage Piano 73が鎮座。その上にはDAVE SMITH INSTRUMENTS Prophet'08 ModuleやMOOG DFAM、KORG Volca Beatsなどが置かれている

上から、アナログ・テープ・エコーの名機ROLAND RE-201とプリアンプのVINTECH AUDIO Model 473。その下にあるのはLESLIEのスピーカー147RVで、すぐに録音できるようにSE ELECTRONICS VR1やAUDIO-TECHNICA ATM25といったマイクをセティングしている

トオミ ヨウが所有するマイク群の一部。EARTHWORKS QTC40×2やSOUNDELUX USA U99、NEUMANN U67、TELEFUNKEN Ela M 251Eなどが見える

同じ空間にいることで制作が有機的に進められる

お二方は、どのように制作を進めていかれたのでしょうか?

トオミ 曲にもよりますが、まずはデモのセッション・ファイルをスタジオに持ってきてもらい、一緒にデモを聴きながら“ああしたい、こうしたい”っていうリクエストを伺ったり、曲の方向性を確認したりしています。デモによっては、ある程度、秦さんのアレンジが出来上がっている曲もありますね。

 デモの長さは大体ワンコーラスくらいのものが多いです。トオミさんのスタジオで内容を詰めたら、一度自宅へ持ち帰ってフルコーラスを作成し、またトオミさんとやりとりして改善を重ねていくようなイメージですね。トオミさんと一緒に取り組むことで新しいアイディアが生まれますし、同じ空間で作業することによる恩恵は大きいと感じます。

トオミ 一緒に作業するメリットは確かにありますね。例えば間奏の展開の仕方やイントロの流れなど、その場でアイディアを出し合い、さまざまなパターンを模索したりするんです。こうすることで、作業を有機的に進められるんですよ。

秦さんのご自宅には、デモ制作用の環境があるんですね。

 はい。デモはいつも自宅の作業場で作っています。APPLE Mac ProにPro Toolsを立ち上げ、歌とアコギをすぐに録音できるように2本のマイクをスタンドにセッティングしているんです。ドラムやベース、シンセといったパートはソフト音源で打ち込んでいきます。リズム・パターンやベース・ラインの細かい部分については、自分だけでは詰め切れない部分もあるのでおよそで作っておいて、あとでトオミさんに相談することが多いです。

秦 基博のプライベート・スタジオ。モニター・スピーカーはFOSTEX NF-01A、オーディオ・インターフェースはRME Fireface UFX、MIDIキーボードはKORG MicroKeyを使用する。また、思いついたときにすぐレコーディングできるように、2本のマイクをスタンドに設置している。椅子の正面に見えるマイクはNEUMANN TLM 67で、同右手側にあるのはAKG C414 XLIIだ

ヘッドフォン・アンプはRUPERT NEVE DESIGNS RNHP。奥にはヘッドフォンのSONY MDR-CD900STの姿が見える

『Paint Like a Child』の制作からレコーディングにおいて幅広く使われたという秦 基博のアコギ、GIBSON J-45(1966年モデル)

秦さんが打ち込み時に使用するソフト音源は?

 ドラムにはBFD DRUMS BFD3、ベースにはSPECTRASONICS Trilian、シンセにはSPECTRASONICS Omnisphereを使用します。TrilianとOmnisphereに関しては、トオミさんが使っていたのを見て“良さそうだな”と思ったので購入しました(笑)。アレンジャーさんの作業風景を見られる機会はあまりないので、そういった意味でも共同作業できることが自分にとっては貴重な経験です。

トオミ 秦さんのセッション・ファイルに使われたOmnisphereのエンベロープやフィルターを、直接僕が微調整していくこともあります。

 ちなみにシンセを打ち込むときは、イメージに近い音色をひたすら探し続けていますね(笑)。エレキギターを録音する際は、マルチエフェクト&アンプ・シミュレーター・プラグインのNATIVE INSTRUMENTS Guitar Rigを使っています。

トオミ 秦さんがデモで考えたリフや、ソフト音源の音色を本番でもそのまま採用することがあります。例えば「Paint Like a Child」で登場するエレキのリフがそうです。良い部分は残しながら進めていくんです。

 トオミさんには、ドラムは生なのか打ち込みなのかといった“音色”について相談することも多かったですよね。

トオミ そうですね。あとは、いろいろなアレンジを試した曲もありましたね。例えば「泣き笑いのエピソード」では、ベーシックなリズム・パターンだけしっかり決まっていて、上モノはどんな楽器で彩るのがいいのか一緒に考えていきました。

 それでトオミさんにストリングス・バージョンを作ってもらったり、管楽器バージョンを作ってもらったり、これらをミックスしてもらったりしましたよね。やっぱり頭の中で想像するだけじゃなく、サウンドとして実際に聴いたときに分かることがたくさんあるので。だから、一度思いついたアレンジは音で再現してみて“これは違うかもしれない”とか“あ!これはいいですね”とかっていう話をするんです。トオミさんには毎回申し訳ないですけど(笑)。

トオミ 「2022」には12弦ギターが登場するんですが、それをエレキ・バージョンで試したこともありましたね。いろいろ比較した上で“やっぱり12弦ギターが特徴的でいいね”って言ったりしながら。こうやって1曲ずつアレンジを完成させていきました。

「アレンジャーさんと共同作業できることが自分にとっては貴重な経験なんです」

今作では、トオミさんはどのような音源を使いましたか?

トオミ プリプロではソフト音源が多いです。先ほど話題に上がったTrilianやOmnisphereをはじめ、ストリングスやピアノにはVIENNA SYMPHONIC LIBRARYの音源を、ブラスにはNATIVE INSTRUMENTS Session Horns Proを使用しています。あと、ピアノ音源のVI LABS Ravenscroft 275は音が良いので気に入っていますね。12弦ギターに関しては、VIR2 Acoustic Legends HDに収録されているものを使いました。本番では生演奏に差し替えるので、これらはあくまでもアレンジの完成形をシミュレーションするために用いますが、ソフト音源の音色から優れたフレーズを思いつくこともあるため侮れません。

ローファイな音作りが特徴的な楽曲も幾つかありますね。

 面白いと感じたのは「サイダー」のミックスで、終始ホワイト・ノイズのようなものが鳴っている点です。そのノイズの音量をミックスのときに細かく調整したんですけど、それで歌の聴こえ方が変わるんですよ。通常、ノイズが乗ると音が悪くなるイメージがありますが、「サイダー」では逆に歌が前に出てきて聴きやすくなる……これは、とても興味深い体験でした。片岡さんとは前作からの信頼関係もあるので、今作ではより自由にミックスしていただいた印象です。

トオミ 今回、僕は片岡さんからTHERMIONIC CULTURE Culture Vultureというチューブ・ディストーションの存在を教えてもらったんですが、ドラムのキックやスネアなどをそれに通し、質感を作ってから片岡さんにデータを渡すこともありましたね。

今回は、これまでの作品とはまたひと味違ったアプローチのアルバムとなりましたが、秦さん自身も当初からこのような変化を狙っていたのでしょうか?

 もちろん、これまでの秦 基博のイメージというのもあるかもしれませんが、それを守り続けたいという気持ちはなく、それよりも“やってみたい”という衝動に従っていった気がします。純粋に自分が“カッコいい”と思う音楽をやっているだけなんですよ。

トオミ 秦さんの武器の一つに“アコギ弾き語り”というものがありますが、今作はそれとは全然違う形になっていると思うんです。極論を言えば、秦さんのアコギ弾き語りには“やっぱり勝てないな”というところもありますが、それでもファンの方たちに“このアレンジ、カッコいいよね”って言ってもらえるような作品をアレンジャーとしては目指しました。

 『Paint Like a Child』は、トオミさんと切り開いた“新しい秦 基博サウンド”になっていますので、ぜひ読者の皆さんにも楽しんでもらえたらなと思います。

「自分が〝カッコいい〟と思う音楽を純粋にやっているだけなんです〝やってみたい〟という衝動に従っていった気がします」

後編では、本作のレコーディング/ミックスを担当したエンジニアの片岡恭久氏に音作りのこだわりを伺います。

Release

『Paint Like a Child』
秦 基博
(ユニバーサル)UMCA-10093

Musician:秦 基博(vo、cho、g、prog)、トオミ ヨウ(cho、g、p、org、syn、k、prog)、設楽博臣(cho、g)、須藤 優(cho、b)、伊吹文裕(cho、ds)、石成正人(g)、河村吉宏(ds)、庵原良司(sax)、玉田豊夢(ds)、高桑英世(fl、picc)、藤田乙比古(hr)、勝俣 泰(hr)、井上俊次(fg)、西川 進(g)、萱谷亮一(perc)、室屋光一郎(str)、mahina(vo)
Producer:秦 基博、トオミ ヨウ
Engineer:片岡恭久、近藤麻衣、清宮光貴、五味涼太、他
Studio:プライベート、Karinto Planet、くまと子りす、ランドマーク、prime sound studio form、prime sound、音響ハウス、サウンドシティ、ダリ、オーガスタ

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