秦 基博『Paint Like a Child』〜エンジニア片岡恭久氏が明かす制作秘話

秦 基博『Paint Like a Child』〜エンジニア片岡恭久氏が明かす制作秘話

信頼関係を基盤とした音のキャッチ・ボールを楽しめました

ここではレコーディング/ミックス・エンジニアの片岡恭久氏に、秦 基博『Paint Like a Child』の音作りについて話を伺ってみよう。さらに片岡氏のプライベート制作スペース=くまと子りすスタジオの機材についても紹介もらった。

歌の抜け感や存在感に強いこだわりを感じた

秦さんからは、今作『Paint Like a Child』だけでなく前作『コペルニクス』でも、片岡さんがメイン・エンジニアとしてレコーディング/ミックスを手掛けられたと伺いました。

片岡 はい。どちらの作品とも、ここランドマークをメイン・スタジオとして使用しています。今作のボーカル・レコーディングに関して言えば、10曲中8曲をここで行っていて、そのほかの曲はprime sound studio formや音響ハウス、サウンド・シティ、ダリ、オーガスタ・スタジオなどで録っていますね。秦さん自身、もっと前からこのスタジオによく来ていらっしゃったようで、ここに来ると“気持ちがリフレッシュされる”とも言われていました。

『Paint Like a Child』のレコーディングやミックスに使用されたランドマーク・スタジオ。写真はAスタジオのコントロール・ルームで、同中央にはSOLID STATE LOIGC SL 4072 G+コンソールが鎮座する。ラージ・モニターは、SONY SME-5Wを採用している

制作の流れとしては、秦さんとトオミさんがアレンジをまとめたデモが片岡さんのところへ届き、必要なパートをスタジオで録り直すという順番で合っていますか?

片岡 そうです。そのあとは僕がミックスして、マスタリング・エンジニアへ送るというプロセスになります。今作は、基本的にデモの時点でサウンドの方向性や曲の世界観みたいなものがしっかり決まっていた印象です。トオミさんのアレンジも結構詰められていました。ちなみに「太陽のロザリオ」っていう曲だけは、ダリでさまざまなパターンを試し録りした記憶があります。ソフト・シンセは割とそのまま本番でも使用したものも多かったので、アレンジはだいぶ固まっていたんだと思いますね。

秦さんは、「Trick me」が『Paint Like a Child』の方向性を決めるキー・ソングだったと話されています。

片岡 収録曲で言うと、「泣き笑いのエピソード」が最初に完成していたんですが、より本格的に“アルバムを作りましょう”ってなった段階でまず届いたのが「Trick me」だったんです。正直、それまでの秦さんの曲調と“かなり違うな”って思って。洋楽のR&Bというか、ダンス・チューンっぽい要素もあったので……ただ、まだその時点ではアルバム全体もその方向に行くかどうかは分からなかったんですけど、僕の中では、“今作はこういう方向性でいくんだな”とはなんとなく感じましたね。それが昨年の1月頃です。

そのとき秦さんから、サウンド面に関してどのようなコメントがありましたか?

片岡 秦さんが近年よく聴いている、洋楽ポップスを意識しているという話はありましたね。歌の感じとか、キックやベースが主軸になるっていう話、そして打ち込みのビートにも挑戦しているという話でした。特に、歌の抜け感や存在感については一番強いこだわりを感じましたね。もともと歌については、かなりこだわりのある方なんですが。

モニター・スピーカーはPMC Twotwo.6を使用(片岡氏の私物)

ラックにはFOCUSRITE ISA 85110×4台、ISA 110×4台といったマイクプリ・モジュールを格納

片岡氏がスタジオに持ち込んだアウトボード群の一部。写真左上に見えるAPI 6-Slot LunchboxにはAPI 560×4台と560A×2台を、同右上に見えるモジュール・ラックにはHELIOS Type 69×4台をセット。これらの真下には自作ラックを設置し、API 312×8台を格納する。最下段の2Uラックには、NEVE 1081×2台が収められている

上からSHEP/NEVE 31105×2台、BSS DPR-402、JOHN HARDY M-1、API 560×2台、THERMIONIC CULTURE Culture Vultureなどをラックにセット。これらも全て片岡氏による持ち込み機材だという

コントロール・ルーム右手側にあるラックには、NEVE 33609/C、TUBE-TECH CL 1B、UREI 1176LN×4台、DBX 165A、GML 8200、DRAWMER DS201、AMS RMX16、YAMAHA Digital Reverberator Rev5などの姿が見える。これらはすべてランドマークの機材

VM1を収録曲の半分以上で使用

秦さんのボーカル・レコーディングでは、今回どのようなマイクを使用されましたか?

片岡 コンデンサー・マイクのBRAUNER VM1です。次に多かったのがNEUMANN U 47で、その次がNEUMANN M 149 TubeやU 67でした。今作で大きく変わった点は、今まで主役じゃなかったVM1が収録曲の半分以上で使われているところですね。アコギの弾き語りが中心の楽曲では、やっぱり温かみのある音が求められるので、U 47 TubeやU 67がよく採用されていました。しかし、今回の作品では洋楽のような声の抜けがテーマだったので、高域のエアー感を繊細にキャプチャーできるVM1が多くの楽曲で最適だと選ばれたんです。

VM1は、秦さんの声を抜けさせるのに有効だったということなんですね。

片岡 VM1は、高域が気持ちよく伸びているサウンドです。それでかつ、耳に痛い部分があまりないという。もし“声が抜けない”と悩んでいる方は、VM1を一度試してみると良いかもしれませんね。日本語の歌にも結構合うと思います。マイクのセレクトでよく悩んだのは、VM1とU 47 Tube。今作では新鮮な響きが求められたことも大きく影響し、結果としてVM1が多く採用されました。ちなみにU 67は過去10年以上においてメイン・マイクだったため、今作では“良い音だけど既に知っているよね”ということであまり選ばれませんでしたね。

ボーカル・マイクからのシグナル・チェインはどのように?

片岡 このスタジオなら、NEVE 1081を通ってそのままAVID Pro Tools|HDXシステムに入ります。あとでダイナミクスの調整をしたいので、コンプをかけることはありません。ただし、モニターにはコンプをかけて戻しています。

Aスタジオのメイン・フロア。広さは72㎡あり、写真左下にはブースB、同中央にはブースA、ブースAの真上にはブースCを備える

19㎡の広さを備えるブースA。ここでは秦のボーカル・レコーディングが行われた

コンデンサー・マイクのBRAUNER VM1。『Paint Like a Child』に収録された半分以上の楽曲において、このマイクが使われたという

オリジナルのNEUMANN U 47 Tube

DX7をSPX90に通してステレオ出力に変換

アコギの録音については、いかがでしょう?

片岡 秦さんのときは、主にダイナミック・マイクのSHURE SM7Bを使用しています。音の芯となる部分がしっかり収録できますね。元々SM7Bはラウド系ボーカルのシャウト用に購入したものでしたが、アコギで試してみたところなかなか良い音だったんです。これに加えて、少し離れたところにコンデンサー・マイクのMICROTECH GEFELL M300を立てています。SM7Bだけだと音像が近すぎるので、M300と混ぜてオケになじみやすくしているんです。さらに演奏者から1.5〜2m離れた位置に、ステレオ・リボン・マイクのAEA R88を併用しました。こうすることで、良い意味で低域をぼやけさせるような演出が可能となるんです。今作では、これら3本のマイクでアコギの距離感を作っています。

アコギからのシグナル・チェインは?

片岡 3本ともまずはマイクプリのJOHN HARDY M-1へ流れ、EQのAPI 560を通った後、これもコンプは挟まずにそのままPro Tools|HDXシステムに入ります。コンプを使わない理由はボーカルのときと一緒です。アコギは、オケ中でストロークのアタック音が聴こえていればOKくらいだったので、その粒立ちに一番気を配りました。

シンセのYAMAHA DX7やエレピのRHODESなどはトオミさんのスタジオでデモを録りつつも、本番は片岡さんによってレコーディング・スタジオで収録されたと伺いました。

片岡 そうですね。トオミさんがご自身のDX7やRHODESを持ち込まれて演奏されていました。DX7はモノラル出力なので、一度マルチエフェクターのYAMAHA SPX90を通し、ステレオ出力にした上で録音しています。ステレオの広がり具合がとても気持ちいいんです。

片岡氏のプライベート環境、くまと子りすスタジオ。メイン・マシンはAPPLE Mac Miniで、モニター・スピーカーはHEDD Type 20をセット。普段はPMC Twotwo.6と使い分けている。デスク左手に置かれたモジュール・ラックには、左からNTP 179-160×2台、FILTEK MK3×2台、NEUMANN W444STA、ECKMILLER W88×2台、NEUMANN W495B×2台、BFE/FILTEK MK3×2台を格納。このラックの右手には、TELEFUNKEN V72×2台が置かれている

デスク右手のラックには、AVID Pro Tools|MTRX Studio、EMPIRICAL LABS Distressor EL8、SMART RESEARCH C2、PURPLE AUDIO MC77、DOLBY 361×2台、ALTEC 1592Aなどをセット

上からROLAND SDD-320 Dimension D、EVENTIDE H3000-D/SE、GML 8200、MANLEY Massive Passive Stereo Tube EQなどを装備

ラックにはLEXICON PCM70、BBE 822A、TASCAM 112R MKII×2台などが収められている

テープを通すことで音の説得力が増す

片岡さんがスタジオに持ち込まれた機材には、数種類のマイクプリやEQがありますが、これらの使い分けは?

片岡 ベースにはSHEP/NEVE 31105、ドラムにはFOCUSRITE ISA 85110を通しています。また、キックにはAPI 560を選ぶことが多く、その理由はEQポイントが好きだからです。HELIOS Type 69の音も好みで、これはスネアによく用います。ドラムに立てたルーム・マイクには、API 312と560を通して音作りしていますね。

今作を聴くと、シンセやエレピ、ドラムといったパートの音色からは、ローファイ的なアプローチを感じます。

片岡 歌の抜けを良くするために、歌以外のほぼすべてのパートにテープを通しているんですよ。例えばシンセ・パッド一つとっても、テープを通すことによってどこか懐かしい音色になり、説得力が増すんです。普段はここまでやらないのですが、「 サイダー」のアレンジを聴いたときに“今作に限っては、そういった演出が求められているのかな?”とだんだん確信してきたんですよね(笑)。

テープは、どのようなものを使われていますか?

片岡 今回使用したものは多種多様です。メインはオープン・リールのOTARI MX-5050とOTARI MX-50N2で、他にはカセットのTASCAM 112R MKII、Portastudio 424MKII、MARANTZ PMD430などが挙げられます。もともとローファイ・ヒップホップが好きだったこともあり、今回はこういうアプローチに挑戦してみました。どれも温かみのある質感になるので、エフェクトとして使っています。オープン・リールではわざと手で回転数を変えたり、カセットではテープ・スピードを変えたりしているんです。秦さんとトオミさんなら、きっと受け入れてくれるだろうと思って(笑)。心地よいあんばいになるように、何回も録音し直しました。

8trアナログ・テープ・レコーダーのOTARI MX-5050

アナログ・テープ・レコーダーのOTARI MX-50N2

8trアナログ・ミキサー/8trアナログ・テープ・レコーダーのTASCAM 388

写真左上には、4trカセット・レコーダーのTASCAM Portastudio 424MKIIが確認できる。その右手にはテープ・エコーのROLAND RE-101×2台をセット。また、写真手前にはカセット・テープ・レコーダーのMARANTZ Superscope C-105、コーラスのFAIRFIELD CIRCUITRY Shallow Water、ディレイのMeet Maude、リバーブのDEATH BY AUDIO Reverberation Machine、サステイナーのGAMECHANGER|AUDIO Plus Pedalといったペダル・エフェクトの姿が見える

ほとんどのパートにテープを通すとノイズが心配になりますが、この点はいかがでしょうか?

片岡 現代にはIZOTOPE RXという優れたオーディオ・リペア・プラグインがあるので、これを使ってノイズを取り除いています(笑)。ただし、完全にノイズを除去すると面白みがなくなるため、ノイズ成分と実音を分離させて調整しているんです。面白いのは、ノイズがないと時代感や明るさが失われることがあり、逆に少し入れることできらびやかな印象を与えられるということ。ノイズは不思議な要素で、今作でも曲によっては適度なノイズが聴こえるように調整しています。

今作のトピックの一つでもある、低域の処理については?

片岡 これは、すごく頑張りました(笑)。というのも中域はローファイ、かつボーカルはクリア、そして低域は出すというのをすべて両立させるのが難しかったんです。低域に関して言えば、100Hz以下をしっかりケアするのがポイントですね。ベースのローエンドが足りない場合は、サブハーモニック・ジェネレーターのWAVES Submarineを使っています。あとはキックをトリガーとしたサイド・チェイン・エフェクトを、歌以外のオケ全体に薄くかけるといった手法もやっています。これでキックとベースのすみ分けを作っているんです。

今作でのさまざまなチャレンジは、やはり前作から築きあげている秦さんやトオミさんとの信頼関係があるからですよね。

片岡 そうですね。お二人とは、もう4年くらい一緒にお仕事しているので。特にテープを通すというのはプラグインじゃないので、あとから効果を弱めるといったことが難しいんです。だから、それだけ信頼関係が築けた上でのアプローチになります。そういった意味では、今作における音のキャッチ・ボールは楽しめたかなって思いますね。


◎秦 基博&トオミ ヨウのインタビューはこちら

Release

『Paint Like a Child』
秦 基博
(ユニバーサル)UMCA-10093

Musician:秦 基博(vo、cho、g、prog)、トオミ ヨウ(cho、g、p、org、syn、k、prog)、設楽博臣(cho、g)、須藤 優(cho、b)、伊吹文裕(cho、ds)、石成正人(g)、河村吉宏(ds)、庵原良司(sax)、玉田豊夢(ds)、高桑英世(fl、picc)、藤田乙比古(hr)、勝俣 泰(hr)、井上俊次(fg)、西川 進(g)、萱谷亮一(perc)、室屋光一郎(str)、mahina(vo)
Producer:秦 基博、トオミ ヨウ
Engineer:片岡恭久、近藤麻衣、清宮光貴、五味涼太、他
Studio:プライベート、Karinto Planet、くまと子りす、ランドマーク、prime sound studio form、prime sound、音響ハウス、サウンドシティ、ダリ、オーガスタ

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