小山田圭吾が語る坂本龍一との制作 〜『CHASM』からYMOとの共演まで

小山田圭吾が語る坂本龍一との制作

あまりギターっぽくないことをやっていたので、僕も『CHASM』のどこで使われてるかあんまり分からないんです

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 小山田圭吾は、2004年の『CHASM』への参加や続く2005年の坂本ソロツアーのサポート、さらに2000年代のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のツアーサポートなどで坂本と共演してきた。ソロアーティスト=コーネリアスとしての側面に加え、ギタリストとして着目される機会が増えたのはこうした活動を通じてのことだと小山田は語る。

即興で演奏したものを坂本さんが持ち帰って切り張りしていった

——最初に坂本さんと共演したのは、2002年12月のスケッチ・ショウ(高橋幸宏+細野晴臣)のライブ『WILD SKETCH SHOW』に、坂本さんが飛び入りしたときですか?

小山田 その日が初めてお会いした日です。サポートで出演したスケッチ・ショウのライブのアンコールに坂本さんが出て、初めましてでいきなり演奏、みたいな感じでした。「CUE」と「中国女」、ダブルアンコールの「はらいそ」で3曲やったのかな。アンコールで坂本さんが来るというのを聞いて、幸宏さんと細野さんが「坂本君はめちゃくちゃ怖いから気をつけた方がいいよ」とすごく脅されたんですが、全然そんなことはありませんでした(笑)。すごく優しかったのでホッとしました。そのライブで、坂本さんに興味を持ってもらったんだと思います。

——そこから、坂本さんの『CHASM』に参加する流れに?

小山田 多分、スケッチ・ショウのライブからそんなに空いてないと思うんですけど。まだ僕のスタジオも中目黒だったんですけど、そこに坂本さんが来て、2日か3日くらいレコーディングしたのは覚えてますね。

——どんなセッションを行ったのでしょうか?

小山田 坂本さんがオーディオファイルを……デモというか、スケッチみたいなのを流して、その上で僕が演奏したりとか。特に譜面とか決まりごとがあるわけじゃなくて割とフリーで演奏したものだったり、あと2人で即興っぽいことやったりとか。ちょうどそのころ、KORG KAOSS PADに僕はハマっていて。まだ出たばっかりぐらいだったのかな。坂本さんが「触ったことがない」と言ったので、坂本さんがいろいろなオーディオファイルを再生して、それを直列で2台つないだKAOSS PADに通して、2人でいじったりとか。それを坂本さんがニューヨークへ持ち帰って、「coro」になったり、『CHASM』に素材として散りばめていったんだと思います。

——坂本さんは、小山田さんの演奏を“まるでシンセサイザーのような音や表現をギターで表現できる”と評していましたが、とはいえ『CHASM』でそのようなギターの演奏が聴けるのは「World Citizen/re-cycled」だけです。

小山田 普通に弾いているのはあまりないですね。ノイズギターみたいなのが多いから。坂本さんはそういうギタリストが好きじゃないですか? アート・リンゼイとか、エイドリアン・ブリューとか。

——あとは、「World Citizen」で“CDJ-800”とあります。

小山田 当時やっていましたね。KAOSS PADをPioneer DJ CDJ-800につないで、SEを出してエフェクトをかけたり。

——だから『CHASM』のクレジットを見ても、どれが小山田さんが出している音なのかは分かりにくいですね。

小山田 ギターっぽい音色はあんまり弾いてないかもしれないですね。すごくひずませたり、ノイズっぽいことやったり。ちょっと普通に弾いてるところもあるけど。そういうギターっぽくないことをやっていたので、僕も『CHASM』のどこで使われてるかあんまり分からなくて。即興で演奏したものを坂本さんが持ち帰っていろんな曲に切り張りして使っていったみたいな感じだったので、今聴いてもどれが自分の音なのかって、ほとんどよく分からないですね。

——エレクトロニカの抽象的なサウンドということもありますが、今では当たり前になったDAWが普及したことで、時間軸上の編集がやりやすかった時代でもありました。

小山田 そうですね。そういうやり方が普通になってきた。このあたりから、坂本さんもニューヨークの自宅にスタジオを作って制作するようになったでしょ?

『sonar sound tokyo』で即興をやろうと言われた

——その後、スケッチ・ショウと坂本さんによるHuman Audio Sponge(HAS)やYMOとの共演が増えてきました。

小山田 ライブ以外でも、『筑紫哲也 NEWS23』(TBS)に坂本さんが呼ばれたときに、スケッチ・ショウと山本ムーグさんと一緒に「War & Peace」を演奏したのを覚えています(2004年)。あと恵比寿ガーデンホールでHASのライブをやったとき……『sonar sound tokyo 2004』かな。坂本さんが即興をやろうと言い出して。ガーデンプレイスの広場に小さいスピーカーを2つ立てて、坂本さんがパソコンでいろいろ音を出して、一緒に演奏したりしました。

——2005年には、『CHASM』を踏まえたバンド形態での坂本さんのソロツアー『JAPAN TOUR 2005 in association with Artists Power』にも帯同されていました。

小山田 あのとき、日本で何本もやったような気がする。

——東京、大阪、名古屋、福岡のZEPPを回るツアーでした。

小山田 割と坂本さんのバンド編成でのライブは久しぶりだったんですよね。

——バンドセットでのツアーは『D&L』以来10年ぶりだったそうです。

小山田 スティーブ・ジャンセンがドラム、(クリスチャン)フェネスと僕がギターで、スクーリ・スヴェリソンというアイスランド出身の人がベース。シュガーキューブスの前のビョークと一緒にやっていた人で。日本人は(編注:坂本以外)僕だけだったんだよね。そのメンバーでローリー・アンダーソンのイベントに出て、全員で即興みたいなのをやったりしました(編注:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] ローリー・アンダーソン『時間の記録』展での『The Record of the Record of the Time』。2005年8月8日)。あと、『CHASM』の関連ではテレビの音楽番組も結構出演しましたね。テレビでも、トラックを流しながらだけど、ちゃんと生演奏だったんですよ。

——その後はYMOのサポートとしてギターを演奏していたことが多かった印象です。

小山田 『WORLD HAPPINESS』に毎年出たり(編注:小山田の参加は2009〜12年)、フジロックにも出たし(2011年)、サンフランシスコやハリウッド・ボウルでも演奏しました。YMOのサポートは2012年までかな。『NO NUKES 2012』が最後だったと思います。

——そういうツアーやライブで、小山田さんに対して坂本さんから具体的に「こう弾いてほしい」というオーダーはあったのでしょうか?

小山田 そういうのはあまりなかったですね。たぶん一度も言われなかった。

——小山田さんは、それまで演奏したことのないYMOの曲をサポートとして弾くわけですので、事前準備をして臨んでいたわけですよね?

小山田 YMOの場合は、昔の曲も当然やるけど、原曲のアレンジではやらないし。やろうと思っても僕には渡辺香津美さんみたいなソロは弾けないから。でも、坂本さんの曲はすごいコードが難しくて大変でしたね。特に初期の曲とかはやっぱりすごく難しかった。

——「そこはコードが違うよ」と言われたりは?

小山田 あまりなかった気がします。

——そうやって一緒にステージやスタジオで共演する中で、坂本さんの仕事ぶりで印象的だったことはありますか。

小山田 音楽はね、すごい楽しく、一緒にやらせてもらったし、いろいろな現場で坂本さんの仕事を見せてもらったけど、ニュース番組に出てコメントしたりとか、音楽以外の活動もされていたじゃないですか。音楽以外にそういうことをするのって、仕事量もそうだし、やっぱり大変だろうし、そういうの全部やっているのはすごいなって思いました。あれはできないなって。本当にいろいろなプロジェクトも抱えていたと思うけど、僕が現場でご一緒した範囲では、その場その場ですごく楽しく音楽をやっていたんです。でも、僕が知ってる場面だけじゃなくても、ものすごくいろいろなことを毎日こなしてたんだなと思って。しかも普通ちょっとできないような、ストレスフルなこともたくさんやっていたと思うし、本当多岐にわたっていらっしゃったと思います。

自分のプロジェクト以外で活動する機会をもらって、ソロとは違う楽しみに目覚めた

——坂本さんの、ポップアルバムとしては『CHASM』が最後で、オリジナルアルバムとしてはこの後、『out of noise』や『async』へとつながっていくわけです。小山田さんのコーネリアスとしての表現も、坂本さんと多く共演したころは、そんな境目の時期だったと思います。

小山田 そうですね。この時期にスケッチ・ショウや僕も含めて自然に合流できた感じがします。

——一方で、コーネリアスの音楽を知っていた人以外に、小山田さんのギタリストとしての非凡さが知られていったのもこの時期ではないかと思います。

小山田 自分のバンド以外で演奏したことがほぼなかったのでそれに誘ってもらえたっていうのはすごく大きいですね。そこからヨーコさんのバンド(YOKO ONO PLASTIC ONO BAND)とかにつながっていったりとか。だから、この時期は、自分自身のプロジェクトとは違うところで活動する機会を、坂本さんというかYMOの3人にもらいました。自分でも、ソロプロジェクトとは違う楽しみに目覚めた感じですからね。

——ところで、『WILD SKETCH SHOW』で共演する以前に、坂本さんの作品は聴かれていたのでしょうか?

小山田 僕はギリギリYMO世代で、普通に小学生のときに聴いてはいたけど、でも周りの友達のミュージシャンほどはYMOにハマってたっていう感じでもなくて。ただ20代半ばぐらいから砂原(良徳)君と仲良くなったから、YMO関連の作品を教えてもらって、そのころには坂本さんの作品も大体は聴くようになりました。

——特にお好きな坂本さんの作品は?

小山田 『B-2 UNIT』が一番好きかな。後追いで聴いていて、最初に一番好きになったのがこれです。坂本さんにサインしてもらったレコードを今日探していたんだけど、たぶん息子がどっかに持って行って見つからなかった。ニューウェーブ感というか、尖ってるっていうか。「Thatness and Thereness」はトリビュートアルバム『A TRIBUTE TO RYUICHI SAKAMOTO – TO THE MOON AND BACK』でもやったし、「Differencia」「Riot in Lagos」「The End of Europe」とかもかっこいいし。ジャケも含めて写真もいいし、世界観がビシッとしてるし、生々しいし。坂本さんはいろいろな良さが多岐にわたってあるので、一つに決めるのは難しいですが。

小山田がベストに挙げる坂本作品は『B-2 UNIT』。自身所有のLPにはサインのほか、裏ジャケットの坂本のポートレートへ坂本自身による落書きが加えられているという

小山田がベストに挙げる坂本作品は『B-2 UNIT』。自身所有のLPにはサインのほか、裏ジャケットの坂本のポートレートへ坂本自身による落書きが加えられているという

——坂本さんの作品は、こんなにバラエティに富んでるのに坂本さんだなと感じられるのはなぜなんでしょう?

小山田 一番僕が好きで特徴的だなって思うのは、やっぱり和声。コードのテンションの入れ方とか、不思議な響きが入っている絶妙な気持ち良さ。あとノイズとか前衛的な部分というか……その2つがやっぱ坂本さんだなという感じがします。

——坂本さんは晩年、いわゆるポピュラーミュージックとは違う方向に向いていかれたと思いますが、小山田さんは坂本さんの姿を後ろからご覧になってきて、ご自身では今後どういう音楽家像をイメージされていますか?

小山田 坂本さんは、本当に何でもできちゃうし、何でもできちゃうから目標設定をして“こういう音楽を作る”ということもできて、実際にそういうこともやってきたと思うんですけど、多分『out of noise』以降の作品って、そういうの全部なしにして、自分が本当にやりたいことにフォーカスしていったと思うんですよ。自分が今後どういう音楽を作るかちょっとよく分からないですけど、細野さんもある時点から本当に自分のやりたいことへシフトしていったと思うし。自分もこれからどんどん歳を取っていくことを考えると、もちろんこれまでもやりたいことをやってきているんですけど、もうちょっとミニマルな感じで自分でやりたいことにフォーカスしていく感じっていうのはなんとなくイメージしています。

——坂本さんをはじめ、昨年多くの音楽家が亡くなったことを見ると、残りの時間のことは考えてしまいますよね。

小山田 僕が一緒にやり始めたころの坂本さんの年齢が、たぶん今の僕くらいなんですよ。そこから今までと考えると、自分にとっては本当に一瞬な感じがして。特に昨年、坂本さんや幸宏さんが亡くなってしまって、そういうことをやっぱり考えさせられますね。

 

【小山田圭吾】1969年東京都生まれ。1989年、フリッパーズギターのメンバーとしてデビュー。解散後 1993年からCornelius(コーネリアス)として活動開始。2023年は7枚目のオリジナルアルバム『夢中夢』をリリース。坂本龍一作品では『CHASM』(2004年)へ参加。2005年は坂本のツアーにメンバーとして帯同。2000年代以降のイエロー・マジック・オーケストラのライブサポートを務めたほか、テレビやイベントで坂本との共演多数

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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