坂本龍一 〜サウンドの探求者が見つけたもの、私たちがなすべきこと〜

坂本龍一 〜サウンドの探求者が見つけたもの、私たちがなすべきこと〜

坂本龍一は、サウンド&レコーディング・マガジンにとって、創刊号の表紙を飾った特別な存在であり、現在に至るまでの40年以上、多大なる影響を受け続けてきたアーティスト。その功績に感謝の意を表すべく、本企画を掲載する。執筆は、編集部において坂本龍一関連の記事を最も多く手掛けてきた元編集長の國崎晋。限られたスペースには到底収まらない偉業の数々の中から、特に本誌読者の記憶に強烈な印象を残した記事をピックアップしていただいた。しばし、共に振り返っていただければ幸いだ。

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 既報の通り、去る3月28日に坂本龍一氏が帰らぬ人となった。活動領域の広さからさまざまな分野の方がそれぞれの視点で氏の業績を振り返っているが、『サウンド&レコーディング・マガジン』にとっても“坂本龍一”は常にその動向を追わねばならない対象であった。YMOでテクノポップを確立した人、「戦場のメリークリスマス」のメイン・テーマに代表される印象的なメロディを書く人、「ラストエンペラー」のような壮大なオーケストラ・スコアを書く人、「エナジー・フロー」で癒やしのピアノを弾く人……どれもが正しい氏のイメージである。が、それ以上に本誌にとっては“サウンドを探求し続ける人”であった。その道のりを過去に本誌が行ったインタビューで振り返っていくことにしよう。

エンジニアリング

 「サウンド&レコーディング・マガジン」が創刊したのは1981年。その表紙を飾っていたのが坂本龍一で、リリースしたばかりの3rdソロ・アルバム『左うでの夢』についてのインタビューを掲載している。記事の扉に見出しとして引いた坂本の言葉が強烈だ。

 「どこかで純粋にレコーディング・エンジニアとして雇ってくれないかな」

 ミュージシャンでありながら、エンジニアリングまでをこなし、しかもその腕前はかなりのレベルであると自負しているのだ。記事の中ではこんな発言もしている。

 「『千のナイフ』の時からなんだけど、ボクが卓の前に座ってやってた。自分でも不思議なんだけど、どこで覚えたのかなー。でも昔からいろいろアレンジとかしてたでしょ。でその時は必ずトラック・ダウンまでつき合っていたし、そこでバランスもとったりしてたからね。例えば、南佳孝とか大貫妙子とかずい分やってたんだよ。もう5~6年卓には触っているから、そこらのエンジニアよりいいよ(笑)」

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』1981年創刊号のインタビュー扉。3rdアルバム『左うでの夢』についての記事

『サウンド&レコーディング・マガジン』1981年創刊号のインタビュー扉。3rdアルバム『左うでの夢』についての記事
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 ものすごい自信である。1952年生まれの坂本は1970年に東京藝術大学音楽学部作曲科に入学。大学院の音楽研究科作曲専門課程に進んだころにフォーク・シンガー友部正人と出会い、セッション・ミュージシャンとしてプロのレコーディングやライブに参加するようになる。アレンジャーとしての技量も卓越しており、山下達郎や大瀧詠一の制作にかかわるほか、歌謡曲の仕事もたくさんこなしていた。1978年、細野晴臣、高橋幸宏とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成して1stアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をリリース。同じ年に出した1stソロ・アルバム『千のナイフ』の制作で、エンジニアを押しのけ、卓=ミキシング・コンソールの前に座っていたというのだ。譜面を書き、演奏するだけではなくミキシングにまでかかわることで、リスナーに届く音を細部までコントロールしていたわけだ。エンジニアリングを「どこで覚えたのかなー」と言いつつ、同じインタビューの中では次のような発言もしている。

 「外国で仕事したりするでしょ、イギリスなんかで。そのイギリスのテクニック、ミキサーの音づくりの方法をだいぶ学んだのね」

 イギリスで学んだとは、1980年にリリースされた2ndソロ・アルバム『B-2 UNIT』制作時のこと。そのときに坂本は2人のエンジニアと仕事を共にする。1人はスティーヴ・ナイ。ジョージ・マーティンが設立したエア・スタジオでキャリアをスタートし、クリス・トーマスやジョン・パンターのもとでプロコル・ハルムやロキシー・ミュージックの作品に貢献。その後、ジャパン『錻力の太鼓』やXTC『ママー』にかかわるなど、ブリティッシュ・サウンドを知り尽くした人物である。もう一人はデニス・ボーヴェル。レゲエ・バンドのマトゥンビのリーダーでありダブ・ミックスの第一人者だ。彼が『B-2 UNIT』収録曲の「ライオット・イン・ラゴス」に施したダブ・ミックスは、後にヒップホップのトラック・メイカーたちへ多大な影響を与えることになる。そんな2人の仕事を目の当たりにし、坂本のエンジニアリング・テクニックはさらに研ぎ澄まされていったわけだ。

シンセサイザー

 1983年、坂本に大きな転機が訪れる。大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』へ出演し、そのサウンドトラックを担当したのだ。初めての映画音楽だがその仕事ぶりは実に見事。代表曲となったメイン・テーマの美しさはもちろんだが、当時としては珍しい全編シンセサイザーによるサウンドトラックが斬新な響きを聴かせてくれている。シネマティックなストリングス・サウンドが必要なシーンでも、SEQUENTIAL Prophet-5で作られた音が使われており、生の弦と聴き違えるほどだ。1983年5月号のインタビューではその秘密をこう語っている。

 「シンセは電気楽器だから普通ダイレクトで録りますよね。それで1度ダイレクトで録ったものをスタジオのスピーカーに送り返して、それをマイクで録り、ラインのものとスタジオのライヴなものと、それらをミックスしたものを、ちょうど3分の1ぐらいずつ使っています。(中略)そのライヴというのもただマイクで録るだけじゃなくて、ディレイをかけるとか、ハーモナイザーをかましてラインとピッチを変えるとか、ライヴの音にだけエコーをかけるとか、ラインはセンターに置いてライヴ音はステレオで広げたり、ハーモナイザーをかけたライヴ音にゲート・エコーをかけたりとか、考えられることはみんなやりましたよ」

 理想のサウンドを得るために、考えられることはすべて試す。まさに飽くなきサウンドの探求である。本作で映画音楽作家として成功を収めた坂本は、その後、次々と映画音楽を手掛けるようになる。中でもベルナルド・ベルトルッチ監督とのタッグは抜群の相性で、1987年の『ラストエンペラー』では日本人としては初となるアカデミー作曲賞を受賞。映画音楽は坂本の活動の大きな柱となった。

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』1983年5月号掲載のインタビュー。『戦場のメリークリスマス』への出演やサントラ制作について語っている

『サウンド&レコーディング・マガジン』1983年5月号掲載のインタビュー。『戦場のメリークリスマス』への出演やサントラ制作について語っている
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 1983年にYMOが終了し、坂本はさらに活動領域を広げていく。1984年にはビデオ・アーティストであるナム・ジュン・パイクと『電子の拓本 ALL STAR VIDEO』というビデオ・アート作品を制作。1985年にはつくば科学万博で、当時世界最大のスクリーン・サイズだったジャンボトロンを使い、映像制作ユニットのラディカルTVとともに「TV WAR」というパフォーマンスを上演するなど、音楽にとどまらない姿を見せ始めたのだ。

 1984年、4枚目のソロ・アルバム『音楽図鑑』を発表。YMO散開前から長い期間をかけて制作されていた本作は、山下達郎、清水靖晃、ヤン富田、近藤等則といった豪華なゲストが参加しているが、一方で制作途中から導入されたFAIRLIGHT Fairlight CMIが鍵を握った作品でもあった。Fairlight CMIはシーケンサー、音源が一体になったシステムで、1台で楽曲を完成させることができる……言い換えれば1人で楽曲を完成させることができるシステムで、現在のデジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)の先駆けだ。Fairlight CMI導入後、制作中だった『音楽図鑑』はその様相を微妙に変えていき、まさに図鑑のようにさまざまな音楽が集められた作品になっていった。

 Fairlight CMIはその後も坂本の制作において重要な役割を果たしていく。1985年にモリサ・フェンレイのダンス公演のために作られた音楽『エスペラント』で大々的にフィーチャーされたほか、共同プロデュースを担当した矢野顕子の1986年作品『峠のわが家』のプリプロでも使用されている。『峠のわが家』はニューヨークのすご腕ミュージシャンによる演奏が白眉のアルバムだが、彼らに演奏してもらう前のデモを、坂本はFairlight CMIで作り込んでいたのだ。

ハイテクと筋肉

 『峠のわが家』が発売された1986年ごろから、坂本はニューヨークでの制作に携わることが増えていく。同年に発表された元セックス・ピストルズのジョン・ライドンによるパブリック・イメージ・リミテッド(PiL)の『アルバム』では、プロデューサーであるビル・ラズウェルに誘われニューヨークでのレコーディングに参加。そしてこの年に発表された6枚目のソロ『未来派野郎』もニューヨークを意識した内容であった。1986年5月号でのインタビューで、本作の制作が『峠のわが家』そして『アルバム』の流れにあると語っている。

 「その流れは今回の作品に結集しています。ひとつはMIDIを含めたサンプリング・マシンの進歩ですよね。YMO散開から2年以上経っていますが、あれから随分変わったと思うんです。シンセの音色もDX系に代表される、FM音源が中心となってきてるし。そういうハイテク化という流れと、もうひとつは矛盾するようだけど、肉体的な傾向ですよね。PiLやアッコちゃん(矢野顕子)の時もありました。その肉体的な傾向というのはNYが代表しているんですよ。まあ、NYの中自体にもヒップホップのようにハイテク化というのはあるんだけど、やっぱりNYは筋肉の街という感じがして。ヒップホップをやってても、ものすごく筋肉感というか、躍動感があるでしょ。だから東京のハイテク化とNYの筋肉みたいなものを合わせ持ちたいというのが願望ですよね」

 コンピューターとシンセサイザーという、ともすれば無機的に思われがちなハイテク・システムに肉体的な要素を加味することで、サウンドを新たな次元へと引き上げていったのだ。本作はレコーディングこそニューヨークで行われなかったものの、坂本いわく“NYのノド”であるボーカリストのバーナード・ファウラーを日本に呼び、ニューヨークのエッセンスを注入している。

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』1986年5月号掲載の『未来派野郎』インタビュー。ニューヨークを軸にテクノロジーと肉体を結びつけた作品制作について語られている

『サウンド&レコーディング・マガジン』1986年5月号掲載の『未来派野郎』インタビュー。ニューヨークを軸にテクノロジーと肉体を結びつけた作品制作について語られている
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 前述したように1987年に『ラストエンペラー』でアカデミー作曲賞を受賞し、坂本は世界中でもてはやされる存在となった。同年、ビル・ラズウェルが設立したTERRAPINレーベルから7枚目のソロ・アルバム『ネオ・ジオ』を、その後ヴァージン・アメリカと契約し1989年に『ビューティ』をリリース。1990年にはついにアメリカへ移住し、翌1991年に『ハートビート』を発表する。これらのアルバムに参加したミュージシャンを挙げると、スライ・ダンバー、ブーツィー・コリンズ、イギー・ポップ、トニー・ウィリアムス、ブライアン・ウィルソン、ロバート・ワイアット、ロビー・ロバートソン、ユッスー・ンドゥール、アート・リンゼイ、デヴィッド・シルヴィアン、オキナワチャンズ、ピノ・パラディーノ、富家哲、ジョン・ルーリー、ディミトリー、高野寛……国籍もジャンルもスタイルも本当にバラバラな面子である。従来のローカルな枠組みに縛られない、コスモポリタンとして新たな音楽を作りだそうとしていたのがこの時期の坂本の特徴であろう。

ノイズ

 1994年7月号で、本誌としては実に8年ぶりとなる坂本のインタビューを掲載している。日本のレコード会社フォーライフへ移籍し、レーベル“güt(グート)”を始動し、ソロ・アルバム『sweet revenge』をリリースしたタイミングだ。gütからは自身の作品だけでなく、ディー・ライトを離れたテイ・トウワのソロのリリースも予定されていたため、このインタビューはテイ・トウワとともに行われた。開口一番、坂本は次のように語っている。

 「今回のアルバムは、“いかにローファイな音にするか”というところにこだわったんです。当然、テクノロジーはハイファイなサウンドを作り、良い音で録音し、どれだけ原音を忠実に再現するかというところで開発されてきたと思うのですが、今、世の中に溢れているサウンドがあまりにもそっちの方向にばかり向かい過ぎていて、そうなってくると、逆に耳が違う質感の音を求めるようになってくる」

 それはまたハイファイな録音がたやすくできるようになったからこそ、ローファイな音をローファイなまま届ける……質感をそのままにリスナーに提示できるようになったということでもある。だとしたら、いかにしてリスナーの耳に新鮮に響く質感を手に入れるかがポイントとなり、このアルバムではテイ・トウワ所有のE-MU SP-1200という12ビットのサンプラーを使用するなどして、質感を得るためのさまざまなアプローチをしている。

 そんな質感の追求は、ついにはフィールド・レコーディングという手法へと及んでいく。1995年にリリースした『Smoochy』には、街の音がいたるところに散りばめられているのだ。1995年11月号に掲載したインタビューではその理由をこう語っている。

 「SONY NT-1という小型のデジタル・マイクロ・レコーダーがあるんですけど(中略)これを肌身離さず、例えば空港で時間があるときとか……まあ、面白い音というのは一瞬で過ぎ去ってしまうので、すぐ取り出して録れるようにいつも持っているんです。(中略)サウンドスケープというか。本来ノイズ好きみたいなところがあるんですが、音風景なんていうのは言ってみれば究極のノイズですからね。もしかしたら、10代のころに聴いていた60年代のジョン・ケージといったアーティストたちの影響がいまだにあるのかもしれない。楽器では再現できない非常に複雑なノイズ、そういうものは好きなんですよね」

 映画『戦場のメリークリスマス』録音時に、シンセの音をラインだけでなく、スピーカーから出してマイクで収音してある種のノイズを加味したのと同じように、ここではざわめきを自らの音楽に織り込んでいる。“楽器では再現できない複雑なノイズが好き”という発言は、この後の坂本の音楽にとって非常に重要なポイントとなってくる。

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』1995年11月号掲載の『Smoochy』インタビュー。質感追求はついにフィールド・レコーディングというアプローチへたどりついた

『サウンド&レコーディング・マガジン』1995年11月号掲載の『Smoochy』インタビュー。質感追求はついにフィールド・レコーディングというアプローチへたどりついた
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 こうしたフィールド・レコーディングで採取した音を楽曲制作に活用しやすくなったのは、コンピューターによるハード・ディスク・レコーディング/エディティングができるようになったからという点も指摘しておこう。1989年にDIGIDESIGNがSound Toolsというシステムを発売して以降、OPCODE VisionやMARK OF THE UNICORN Performerといったシーケンス・ソフトがオーディオを扱えるようになった。MIDI音源だけでなくオーディオ素材もタイムライン上で自在に編集できるため、坂本のようなミュージシャンのパレットを大きく拡張したのだ。

ピアノ、オペラ、電子音楽

 1996年、坂本は『1996』というアルバムをリリースする。ピアノ、バイオリン、チェロという生楽器のトリオ編成によるセルフ・カバー作だ。同年6月号でのインタビューで坂本はその意図を「ピアノトリオという形態が僕の音楽を表すのにとてもいい形態だと思ったから」と語っている。トリオが織りなすサウンドをしっかりと収録すべく、レコーディングにはものすごく神経を使い、マイクも5種類くらい試したとのこと。このとき確かな手応えを感じたのか、それ以降の坂本はピアノを弾く比率が高まっていく。

 1998年、ワーナー移籍第一弾としてリリースされたアルバム『BTTB』は、“Back to the Basic”の略である通り、自らの原点に立ち返ったピアノ作品集。翌年にはその流れを踏襲した「エナジー・フロー」をシングルで出すと、チャートの1位を獲得する大ヒットとなる。

 さらに生楽器への傾倒は続く。2001年にはジャキス・モレレンバウム、パウラ・モレレンバウムとのトリオ=モレレンバウム2サカモト(M2S)を結成し、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲を演奏するアルバム『CASA』をリリース。2004年と2005年にはピアノによるセルフ・カバー『/04』『/05』を発表。こう書くと、この時期はすっかりピアノの人になってしまったように思われるが、実はそれらの活動はほんの一面に過ぎない。1999年には初めてのオペラ作品「LIFE」を大阪城ホールと日本武道館で上演。従来のオペラとはまったく趣の異なる本作には、その後長きにわたりコラボレーターとなるダムタイプの高谷史郎が映像で参加するなど、音楽の枠を超えた作品作りの大きな一歩となった。また、2002年に細野晴臣と高橋幸宏がスケッチ・ショウというユニットを開始。優しい電子音を多用したエレクトロニカ・サウンドは坂本も興味を持っていたため、しばしばそのユニットにジョインし、最終的にはYMOが緩やかに復活することになる。そしてカールステン・ニコライとのコラボレーションが始まったのもこの時期。ミュージシャンとしてはアルヴァ・ノトという名義で活動しているカールステン・ニコライは、コンピューターを使いオーディオとビジュアルをミニマリスティックかつ高度な次元で融合させた表現をしているアーティストだ。2003年にアルヴァ・ノト+坂本龍一名義でアルバム『vrioon』を発表後、2004年の坂本のソロ・アルバム『CHASM』にも参加。その後もアルヴァ・ノト+坂本龍一名義での活動を続けていく。2005年1月号のインタビューでは、この時期の活動を次のように語っている。

 「カールステンとは初めて会ってからもう8年とか……カールステンと仲のいい池田亮司君ともそのころから。でも、彼らの音楽性を取り入れる用意ができていなかったんでしょうね。で、『CHASM』の前にカールステンと『vrioon』というアルバムをやって、徐々に近付いてきたという感じですかね。(中略)もともと僕も学生時代は昔の電子音楽……シュトックハウゼンなどを聴いて育ってきた人間なので、共通している部分はあると思います」

 興味深いのは音響派と呼ばれた彼らとのコラボレーションでも、坂本はピアノを頻繁に弾いている点である。

 「『CHASM』自体が(中略)M2Sというジョビンのプロジェクトの影響も大きいんです……見かけは違いますけどね。(中略)『CHASM』を作った経験とかエレクトロニカとか、そういうものを通してピアノの響きを聴いてみるという、今までとはちょっと違った耳になってきちゃったみたいですね。レコーディングしているときは“ピアノでもエレクトロニカできるじゃん!”みたいな感じになっていました」

インスタレーション

 電子音とピアノの共存、その到達点とも言えるのが2006年にカールステン・ニコライと行ったツアー『insen』だろう。同年12月号では山口情報芸術センター(YCAM)で行われたライブの模様を表紙+巻頭特集として掲載している。坂本はコンピューターや電子楽器をほとんど使わずグランド・ピアノに向かう。カールステンはコンピューターを駆使し、電子音を発したり、マイクで拾った坂本のピアノの余韻を引き伸ばすなどし、繊細な音のグラデーションを描き、かつそれを映像へと昇華させていく。ピアノの余韻、消え際について坂本はこう語る。

 「ジョン・ケージも“完全な静寂は無い”と話していますが、減衰してその先はピアノの音が鳴っているのか鳴っていないのかもう分からない……鳴っているけど背景のノイズが大きくなっていて、でもまだ響いているよなっていう不思議な領域、そういうところが好きなんですよ。“ジョン・ケージ的な領域”と呼んでいるんですけど、サウンドとサイレンス、あるいはサウンドとノイズの中間領域という。それが割とメインテーマでもあるんです」

 『Smoochy』制作時に語られた“楽器では再現できない複雑なノイズ”への関心は、“サウンドとノイズの中間領域”という言葉で定義されるようになり、晩年にいたるまで坂本が追い求めるものとなった。

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』2006年12月号では、山口情報芸術センター(YCAM)で行われた坂本龍一とカールステン・ニコライによる『insen』ライブをレポート。2人のインタビューも掲載

『サウンド&レコーディング・マガジン』2006年12月号では、山口情報芸術センター(YCAM)で行われた坂本龍一とカールステン・ニコライによる『insen』ライブをレポート。2人のインタビューも掲載
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 『insen』ツアーの日本での初日となったYCAMは、2003年の開館以来メディア・アートの拠点として世界に知られる存在であるが、2007年に坂本は高谷史郎と大規模なインスタレーション作品『LIFE - fluid, invisible, inaudible...』を制作・展示した。1999年に上演したオペラ「LIFE」のときに用意した膨大な映像を天井から吊るされた1.2m四方、深さ30cmの9つの水槽に発生させた霧に投影しつつ、これまた膨大な音源を水槽ごと違った形で流していくというものだ。2007年5月号のインタビューではこの作品のことを“9個のししおどし”と表現し、制作理由について次のように語っている。

 「オペラだけでなく普通の音楽というものには、始まりがあって終わりがあるということになっているけど、随分前からそれが引っかかっていた。始まったら途中で終われないのはなぜだと。(中略)そんなリニアな時間の呪縛から離れたかったんです」

 それぞれの水槽からどんな音が流れるか、そして水槽ごとに相関関係はあるのかという問いに対し、坂本は「すべてがランダムだと何もやっていないのと同じでカオスになる。ランダムの中のどこに作り手の意思を反映させるかが重要なんです」と語る。真鍋大度や古舘健ら若いクリエイターたちが、CYCLING'74 Maxなどのソフトウェアを駆使し、用意された映像と音素材がどう流れるかを条件付けていったこの作品は、坂本と高谷のコラボレーションの代表作となった。

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』2007年5月号では、YCAMで制作・展示されたインスタレーション作品『LIFE - fluid, invisible, inaudible...』をレポート。もちろん、坂本龍一のインタビューも掲載

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響き

 2009年、坂本はソロ・アルバム『out of noise』をリリースする。“ノイズの外へ”あるいは“ノイズから”というタイトルが示すように、ついにサウンドとノイズの中間領域をメインに取り上げた作品である。同年4月号のインタビューではその制作動機を次のように語っている。

 「響きに対する好奇心や愛着が大きくなってきて、いろんなものを取っ払って響きから作れないかなと考えていたんです。でも、自然の響きを提示するだけなら、フィールドワークのCDとかもあるし、インターネットで西表島のサウンドスケープを聞くこともできます。それはそれでいいんだけど、僕の音楽にはならない。日本庭園に影響されているのかもしれないですけど、庭師が枝を切って木を整えて庭にするように、少し手を入れて……でも入れすぎずに(笑)、響きから少し音楽の方に形を変えてみようとしたんです」

 このアルバムで使われた響き=音は、自身が北極圏でフィールド・レコーディングしてきた音、古楽器アンサンブルのフレットワークの音、小山田圭吾やクリスチャン・フェネスのギターの音など特徴のあるものばかり。それらを採取しニューヨークのスタジオに持ち帰り、SoundHackで音程をつけ非楽音を楽音にしたり、DAWで編集したりして料理するという制作スタイルだった。この作品のことを坂本は「長年の夢っていうか挑戦だった、統一されたトーンのアルバムというのをやっと作ることができました」と語る。自身も認めるひとつの到達点であろう。

 この『out of noise』に関して、もうひとつ注目したいのが、リリース後に行われたツアーである。“ピアノでもエレクトロニカができる”と分かった坂本は、ステージにグランド・ピアノを2台用意し、片方をMIDIでコントロールするというライブを行った。事前に自身が弾いたデータを1台のピアノに送りつつ、もう1台を生で演奏することで、より複雑な響きを生み出したのだ。そしてその響きを自然に客席に届けるため、エンジニアのzAkはスタジオ・モニターであるMUSIKELECTRONIC GEITHAINのRL901Kを左右に6本ずつ使用するという驚きのシステムを組んだ。そこから発せられた音は「スピーカーの存在が消えちゃうようなライブでした」と坂本が振り返るように、コンサートPA業界に衝撃を与えるものであった。そしてまた、このツアーの模様は全日収録され、ライブ翌日にAPPLE iTunes Storeで販売するということも行われた。1995年にいち早くインターネットによるライブ配信を行った坂本の面目躍如となる試みであった。

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』2009年5月号のライブPAレポート・コーナー「コンサート見聞録」では、「坂本龍一 ~Playing The Piano 2009」のPAシステムにフォーカス。MUSIKELECTRONIC GEITHAINのRL901Kを左右に6本ずつ配するという驚きのセッティングについて解説されている

『サウンド&レコーディング・マガジン』2009年5月号のライブPAレポート・コーナー「コンサート見聞録」では、「坂本龍一 ~Playing The Piano 2009」のPAシステムにフォーカス。MUSIKELECTRONIC GEITHAINのRL901Kを左右に6本ずつ配するという驚きのセッティングについて解説されている
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 サウンドとノイズ、あるいはサウンドとミュージックの中間領域への関心は、坂本を即興演奏へと回帰させる。スタジオ・ミュージシャンとして売れっ子だった20代のころ、その裏で阿部薫や土取利行との即興演奏も多く行っており、本人にとってはそれこそが自身の音楽活動だとさえ認識していたのだが、YMO結成以降はほとんど行わなくなっていた。カールステン・ニコライとのコラボレーションがスタートしたころ、クリスチャン・フェネスやクリストファー・ウィリッツなどとも共演を重ねるようになり、それらは言うなればほとんどが即興演奏であった。そして2011年元日に放送されたNHK-FMの「坂本龍一ニューイヤースペシャル」では、大友良英、大谷能生、ASA-CHANG、菊地成孔、やくしまるえつこの5人とそれぞれとの即興演奏をオンエア。音響派やエレクトロニカとは違う立ち位置のミュージシャンとも再び即興を始めたのだ。

 その後も、テイラー・デュプリーやデヴィッド・トゥープとも即興は行われ、そのどれもが実に素晴らしいサウンドスケープとして結実している。2012年に再びトリオ編成でセルフ・カバーした作品『THREE』をリリースするが、以前の『1996』と違い、即興的な要素というか、曲によって音響系にしか聴こえないものもあるから面白い。同年11月号のインタビューではこう振り返る。

 「僕のルーツの一つである、ジョン・ケージの音楽や、20代のころやっていた前衛ジャズ、フリー・ミュージックなどに40年たってまた近付いてきたということかな」

マルチチャンネル

 2013年、坂本はYCAM10周年記念祭のアーティスティック・ディレクターを務めることになる。高谷史郎と『LIFE - fluid, invisible, inaudible...』のバージョン・アップ版や新作インスタレーション「water state 1」「Forest Symphony」を制作。さらには野村萬斎との舞台「LIFE-WELL」やテイラー・デュプリーとのライブなど、実に盛りだくさんなイベントとなった。一方で5月には「Playing the Orchestra 2013」と題したオーケストラのコンサート・ツアーも開催。編曲に挾間美帆を起用するなど、坂本楽曲に新たな光を与える内容となった。翌2014年、今度は札幌国際芸術際(SIAF)のゲスト・ディレクターとなりさまざまなプログラムをキュレーションする。自身も真鍋大度とのインスタレーション「センシング・ストリームズ ー 不可視、不可聴」を発表するなど意欲的に取り組んでいた。並行して前年に続くオーケストラのコンサートも開催。今回は自身が指揮を担当し、藤倉大編曲による「Ballet Mécanique」の斬新な響きが大きな反響を巻き起こした。

 多方面に渡りめざましい活躍をしていたこのとき、坂本を病魔が襲う。中咽頭がんである。SIAFで予定されていた幾つかのコンサート出演が中止を余儀なくされ、治療に専念することになる。

 2016年、坂本は山田洋次監督『母と暮せば』、そしてアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『レヴェナント:蘇えりし者』のサウンドトラックで現場に復帰する。ゆっくりと復帰をと考えていた坂本だが、この2人からの要請を断るわけにはいかず、制作に没頭しそれぞれで高いレベルの結果を残す。特に『レヴェナント:蘇えりし者』では、音楽なのかロケーション・レコーディングされた自然音なのか判然としないサウンドに満ちており、映画音楽を新たな次元へと引き上げるものとなった。2017年5月号で、そのサウンドトラックの独特な構造のことを以下のように説明している。

 「フレーズとフレーズの間がものすごく空いているのでほとんど拍節が感じられない……息の流れのような音楽なんですね。(中略)自然の中で霧がたゆたったりするようなリズム……それをリズムと言ってよければですけど、そこには繰り返しを前提としたものが無い」

 『レヴェナント:蘇えりし者』のサントラが坂本にとって手応えがあるものとなり、その勢いのまま次なるソロ・アルバム『async』の制作へと向かう。2017年6月号のインタビューでそのコンセプトについてこう語る。

 「どういう音が聴きたかったかというと、1つは霧のようなバッハで、もう1つが物の音だった。それでシンバルや銅鑼、チェロ、トライアングル、一弦琴などを買ってきて、それらをたたいたりこすったり」

 さらにはフランソワ・バシェやハリー・ベルトイアの音響彫刻の録音、そしてずっと続いているフィールド・レコーディングもKORG MR-2やiPhoneにSHUREのマイクMV88を付けて行われた。一方、前作よりもシンセが多いのも特徴だ。長年愛用し続けているSEQUENTIAL Prophet-5、ARP 2600、EMS Synthi AKSに加え、MUTABLE INSTRUMENTS Cloudsなどのモジュラー・シンセも使われた。

 

『サウンド&レコーディング・マガジン』2017年5月号と6月号では、2号に渡って『async』インタビューを敢行。右は6月号掲載の後編で、音響彫刻のレコーディング風景などの写真も掲載されている

『サウンド&レコーディング・マガジン』2017年5月号と6月号では、2号に渡って『async』インタビューを敢行。右は6月号掲載の後編で、音響彫刻のレコーディング風景などの写真も掲載されている
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 物が震える音、そして電子楽器の素子が震える音、それらを編集して曲として組み上げていったのが『async』であるわけだが、先の2つのコンセプトに加え、アルバム・タイトルであるasync=非同期というのも大きなテーマとなった。それは高谷史郎とのインスタレーション作品に由来するものでもあり、また『レヴェナント:蘇えりし者』での繰り返しを前提としないという構造に由来するものでもあった。もちろん、ただ漠然と音素材がバラバラのテンポで鳴っていても音楽にはならないと坂本は語る。

 「音楽は知的なものではないから、どんなにコンセプトや技術が素晴らしくても聴いて面白くなければダメだと思うんです。物の音もそうですよね……確かにいい音だけどそれを1時間聴いていられるかというとやっぱり普通の人には無理。『async』のプロモーション用として提示した“SN/M比 50%”というフレーズの“M”はミュージックのMでサウンドとノイズだけでなくミュージックも50%ないと聴けないよねということだったんです」

 本作はまた、最初からマルチチャンネルを意識した作品であったことも重要な点だ。高谷史郎と『LIFE - fluid, invisible, inaudible...』を作ってから、物が存在しているその方向から聴こえてくることが自然であると認識したのだ。

 「ステレオで聴くのは幻聴。本来的には発音体をモノで録って、それを1本のスピーカーで再現する……単一の音を単一のスピーカーで、しかも音が鳴っていた場所で再現する。全部一対一で対応するのがいいと思っているんですね。(中略)今回の『async』はCDや配信でも聴いてもらいたいんですけど、ステレオで聴くのはあくまで擬似的なもので、マルチチャンネルでの体験が本当の姿だと思っているんです」

 それを実践すべく、坂本は東京のワタリウム美術館で「設置音楽展」と題した展示を行い、『async』の5.1chバージョンを高谷史郎の映像とともに流した。それは後に『async surround』と題したBlu-rayにもなっている。

§

 2023年1月17日、坂本の誕生日にアルバム『12』が発売された。日記を書くようにピアノとシンセサイザーで制作した音楽ということだが、これが最後のアルバムとなった。ここまで見てきたように、坂本は先人たちの歩みを踏まえ、その上で同時代を生きるさまざまな表現者と新しい地平を開拓してきた。もう日記が書かれることはなくなったが、私たちは残された日記を読み返すことで、きっと次の地平に進むことができるはずである。サウンドの探求を続けること、それが坂本龍一への最大の恩返しになるはずだ。

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