吉田保氏の再ミックスが施されたシティポップの名盤。その現代的なサウンドはいかにして生み出されたか?
世界中でリバイバル・ヒットした松原みき(写真)の「真夜中のドア~stay with me」。同曲を含む1980年のアルバム『POCKET PARK』が、山下達郎や大滝詠一などのエンジニアリングで知られる名匠=吉田保氏のミキシングによって『POCKET PARK (2023 mix)』として生まれ変わった。今回の再ミックスには、2022年リリースの『POCKET PARK』360 Reality Audio(立体音響)版で使用されたマルチトラックが生きている。オリジナルのアナログ・マルチのデジタル化には、山麓丸スタジオのChester Beatty氏がコミットし、360 Reality Audioミックスは吉田氏が手掛けた。さらに『POCKET PARK (2023 mix)』のマスタリングはChester氏が担当したとあって、2作が地続きになったプロジェクトとも言える。そこで吉田氏とChester氏にお声がけし、『POCKET PARK (2023 mix)』の制作をメインに取材したので、一部始終をお伝えしよう。
吉田保(写真左)
日本を代表するレコーディング/ミキシング・エンジニアの一人。1968年に東芝EMIに入社。以降はRVC、CBS・ソニー六本木スタジオを経てフリーランスに。山下達郎、竹内まりや、稲垣潤一、大滝詠一、吉田美奈子、浜田省吾、ティナ、スクエアー、松田聖子、Kinki Kids、アトランティックスター、RAG FAIR、キンモクセイなど、さまざまな著名アーティストの作品を手掛けてきた。日本レコーディングエンジニア協会理事長を務める。
Chester Beatty(写真右)
テクノのプロデューサーとしてキャリアを開始。TRESOR(ドイツ)、BPitch Control(ドイツ)、Turbo Recordings(カナダ)、Cloned Vinyl(イギリス)、Phont Music(スイス)といった有力レーベルからバイナルを発表。現在はサウンド・エンジニアとして録音からミックス、マスタリング、バイナル・カッティングまで手掛ける。日本レコーディングエンジニア協会理事。イマーシブ・オーディオ専門の山麓丸スタジオに所属
アナログ・マルチを192kHzでデジタル化
——『POCKET PARK (2023 mix)』のプロジェクトは、昨年にリリースされた『POCKET PARK』360 Reality Audio版の制作が基礎となったのですよね。
Chester はい。保さんは、山下達郎さんの『ビッグ・ウェイブ』劇場用サウンドトラックのマルチチャンネル・ミックスを担当されるなど、1980年代から立体的な音響に関わっていらっしゃいました。2020年には、弊社が東京藝術大学の亀川徹教授と始めた360 Reality Audioの共同研究プロジェクトに監督としてご参加いただき、その後、“一緒に360 Reality Audioの制作をさせてもらえないでしょうか?”と、お声がけしたんです。当時は、ソニーミュージックさんのバック・カタログのうちシティポップ系のものを幾つか360 Reality Audio化していて、やがてポニーキャニオンさんともお話しさせていただく機会に恵まれました。それで『POCKET PARK』の360 Reality Audio化が決まったんです。
——実現に向けて、まずは『POCKET PARK』のアナログ・マルチテープをデジタル化する必要があったと思います。
Chester ポニーキャニオンさんにお願いして、都合40本近くのアナログ・テープを倉庫から出してきてもらいました。それらをベストな状態でデジタル化すべく、音響ハウスにて24ビット/192kHzで録音したんです。アナログ・テープの再生にはSTUDER A 820を使用し、各トラックをAVID Pro Tools|HD I/O経由でPro Toolsに送りました。DSDでデジタル化しておくという選択肢もありましたが、楽曲にパワー感があるので、やっぱりPCMだろうと。
吉田 それに、PCMは切ったり貼ったりの編集やプラグインでの音作りができるからね。Pro Toolsだけじゃなく、ほかのDAWでも使えるし、そういう汎用性も加味してデジタル化したんですよ。
——360 Reality Audio版のミックスは、どのような手順で進めたのですか?
吉田 まずは、新たに2ミックスを作るところから始めたんです。そうすれば、各トラックの音作りやバランスがある程度できた状態で、360 Reality Audioのソフトに送り込める。定位についても、左右はそれなりに決まった後だから、サイドに配置するか上の方に持っていくかといった判断がやりやすい。だから2ミックスを作った上で、360 Reality Audioに移行する方法を採ったんです。
——360 Reality Audioのサウンド・フィールドは上下左右の全天球です。上下には、どのような音を?
吉田 ストリングスやブラスは、なるべく上の方に定位させました。高い周波数には、人間の耳にとって“上の方に聴こえるな”と感じられる部分があるから、そういう聴感を楽器にあてはめて立体化していったんです。逆に低音楽器はどっしりと、下の方に配置しました。それにしても、360 Reality Audioはステレオ・ソースの音圧の取り方が難しい。Pro Toolsから360 Reality Audioのソフトにステレオのソースを送ると、バランスが変わってくるんです。Pro Tools上でコンプレッションしても、そのまま出てくるわけではないから、いまだにかけ方に悩む場合があります。モノラルのソースは扱いやすいんですけどね。
ドラムのアタック感はEQで強調する
——今回の再ミックスは、360 Reality Audio版のときに作ったものなのでしょうか?
吉田 いえ、また新しく作ったんです。
Chester 当時の2ミックスは、2ミックスとして発表するつもりで作ったものではなかったし、最終的なアウトプットは360 Reality Audioだったわけですが、あらためて2ミックスを作ってリリースするとなると“もうちょっと、ちゃんとやっておこうよ”って(笑)。
吉田 前のがね、ちゃんとやっていなかったってわけじゃないんだよ(笑)。
——『POCKET PARK』のオリジナル・ミックスと吉田さんの再ミックスを比較してみると、ドラムのアタックが強く感じられてダンサブルに聴こえます。
吉田 リズムがはっきりしたのは、僕の音の作り方が一番よく出たところだと思いますね。例えば、山下達郎の曲もドラムやベースはバシっと作っているし、Chesterさんたちの要望もあって、はっきりさせるというのが基本でしたから。どの曲も、リズム隊から作っているんですよ。音楽の三大要素はリズム、ハーモニー、メロディなので、リズムを最初に作る。次はキーボードのハーモニーで、最後にストリングスやブラス、それから歌を乗せていく。すると土台がしっかりして、ガツっとしたサウンドになるんです。あくまでも音楽の基本的な要素を考えて、ミックスしていくってことですね。
——リズム隊の中では、キックから着手するのですか?
吉田 ミックス全体のレベルの目安を立てるために、ベースから始めます。ピーク・メーターを使えばキックでも判断できるんですけど、VU計を見る場合はベースの“ボーンボーン”という長い音の方が分かりやすいから。
Chester だから、保さんが昔に録ったアナログ・マルチは、1tr目にベースが入っていることが多いんですね。
——ベースと言えば、「Cryin'」のシンセ・ベースが強烈です。吉田さんのミックスを聴いて、こんなに野太いシンベが入っていたのかと再発見した感覚で。
Chester あれはOBERHEIMのシンセの音ですよね。ザ・ウィークエンドらがOBERHEIMの音を使っているから、今のサウンドに聴こえるのが面白い。
吉田 せっかく入っているからね。それを生かしつつエレキベースと一緒に音作りした方が、特徴のある音になると思ったんです。新しくミックスするのであれば、新しい世界をプラスした方が良いんじゃないかってことですね。そうすれば“この曲、こうなっていたんだ”みたいな部分が分かってくるし、音楽として面白いかなって思います。
——ベースに続いてはドラムですよね。吉田さんらしい、あのアタック感の効いた音は、どのように作ったのですか?
吉田 例えば、キックにはUNIVERSAL AUDIO UADのNeve 1073 Legacyを挿し、ローシェルビングEQで60Hzを4dBくらい、ピーキングEQで4.8kHzを5dBくらい、ハイシェルビングEQで12kHzを4dBくらい上げています。録り音に含まれるアタッキーな成分を強調した感じですね。これは、僕が実機のNEVE 1073を使ってキックを“録る”ときのEQのパターンなんです。達郎の『FOR YOU』に入っているキックのEQも、大体こんな感じです。
——実機の経験をプラグインに反映させているのですね。
吉田 実機の1073の方が、このプラグインよりEQの効きが強い印象です。だからプラグインでは、実機と同じくらいブーストしようとすると、値が大きくなる感じがする。ただし、効果そのものは似ていますよね。similarです。
——スネアやタムも、オリジナルより粒立ちがはっきりと聴こえる印象です。
吉田 その辺の楽器は、3.3kHzをちょっと上げるとかね。アタッキーな部分を少し強めるんです。ダイナミクス系のエフェクトは使わず、EQだけですね。
ドラムのコンプはバスにかけると良い
——ドラムは、コンプ感も印象的なのですが。
吉田 コンプはドラム全体にかけています。個々のパーツはNeve 1073 Legacyでのイコライジングのように多少の処理という感じですが、それらをバスにまとめてコンプレッションしている。使用したのはWAVESのプラグインCLA-3Aです。その後段にリミッターを挿して、次にUADのSonnox Oxford Inflatorで音色を拡散させ、少し派手にしています。バスにまとめることの最大のメリットは、プラグイン1つでステレオ・ソースを処理できるから、かけ方がイージーになるってことです。左右の設定を個別にやらなくていいし、片方を設定すれば両方に効く。それだけの理由です。
Chester 保さんは、大滝詠一さんのレコーディングを手掛けたときも、ギターがたくさんあって個別にコンプをかけるわけにもいかないから、ステレオにまとめてNEVE 2254でコンプレッションしていたそうですね。
吉田 大滝さんのときは、アコギが5人いたらいたで、個別にかけた方が本当は良かったんですけどね。でも同録だったし、アコギだけでUREI 1176が5台も必要になってくるわけで、そんなにたくさんありはしないから、仕方なしにバスにかけていた。生活の知恵っていうか、どうすれば速くて良いことができるのかを考えていたんです。
——“本当は良かった”というのは、個々に異なる設定のコンプをかけた方が、ち密に処理できるということですか?
吉田 まあ、ある部分ではね。アンサンブルができている上での個別の処理だったら良いんだけど、もし1人がバカデカく弾いていたら、ほかの人のマイクにかぶった音にもコンプがかかって、もっとかぶった感じになるでしょ。だから、いかなる場合も個別の処理がベストってことではない。
——演奏者の技量が大きく影響するのですね。
吉田 ドラムに関しても、例えばスネアとタムへ個別にコンプをかけると、スネアが大きくなる個所でタムにかぶったスネアも大きくなるから、タムのコンプが動作して、録音後にかぶりのスネアが余計に大きく聴こえてしまう。するとゲートを使わなくちゃいけないとか、イタチごっこになるわけです。でもドラム全体へのコンプレッションなら、スネアが大きくなるところでは、タムへかぶったスネアにも同じコンプがかかるので、スネアのマイクの音もかぶりも同じように下がります。だから、かぶりが変に大きく聴こえてこないわけです。スネアにかぶったタムも同様で、タム回しで音が大きくなったときに、タムのマイクもスネアへのかぶりも同じように下がります。その結果、1つ1つのパーツがはっきり聴こてくる。
——だから『POCKET PARK (2023 mix)』でも、ドラムをバスでコンプレッションしたのですね。
吉田 ちなみに、EQもかぶりと関連性があるんです。例えば録音の際、タムにかぶったスネアが大きければ、タムにマイクをさらに近づけます。でも、近づけるほどにアタッキーになって、なおかつ低音が入ってこなくなるからEQで補正する。例えば、3.3kHzを少し抑えて110Hz辺りをやや上げると、あたかもマイクを少し離したような音が得られます。でも、物理的には楽器に近づけているわけだから、周囲の音がかぶりにくくなる。そのあんばいですよ。
——マイキングと合わせてエフェクトの使い方を考える?
吉田 そう、すべて総合的に考えるんです。
歌へのローカットは混変調ひずみ対策
——『POCKET PARK (2023 mix)』の主役は、何と言っても歌だと思います。眼前に迫るような生々しさを感じました。
吉田 まずはNeve 1073 Legacyで3.2kHzをちょっと上げて、50Hzにローカットを入れました。元々の素材がアナログ録音なので、クロストークがあったんです。隣のトラックに入っていた空調ノイズの低域だと思うんですが、そのせいで余計に混変調ひずみが発生しやすくて。
——混変調ひずみ?
吉田 高い音と低い音が混ざった際に、周波数の干渉によって生じるものです。IMD(Inter mid-herz distortion)とも言うんだけど、“ぶにゃ~”とか“ぼよ~ん”とした感じに聴こえるようになる。歌の場合は、ベースと同時に鳴らしたときに生じやすく、それをなくすために低域をカットします。はっきりと聴こえるようになるので、ローカットは結構、大きな意味を持つんです。最初からデジタル録音したボーカルでは生じにくいけれど、アナログの録り音をデジタル化したものに対してはローカットを入れた方がいい。
——ボーカルにかかったエフェクトでは、リバーブの質感がオリジナルと全く違う印象です。
吉田 例えば「Manhattan Wind」では、UADのEMT 140 Classic Plate Reverberatorを使っています。A~Cの3つのプレート・リバーブが入っているけど、個人的にはBが最も使いやすいかな。状態の良いEMT 140の感じがして。
Chester このリバーブの前段には、AVID Lo-FiとWAVES Renaissance VOXが挿さっているんです。
吉田 Renaissance VOXはピークを抑える役割で、簡単にかけられるから使っています。その前のLo-Fiは、ひずませることでリバーブの存在感を強めるためのもの。オリジナルのEMTは、ひずみ率がすごく悪いでしょ。だからこそ非常に効果的なリバーブ感が出る。でも今のプラグインは、電気的な目線で考えると、ひずみがゼロに等しい。だから、ひずみ感を与えて存在感を強めるんです。ただ順番としては、ひずみを最後に挿した方がよかったかもしれないね……。
——マスターの音圧がオリジナルよりもずっと大きいのに、圧迫感のない仕上がりで聴きやすいと感じます。
Chester ミックスが現代的な仕上がりだったので、その世界観を生かすような方向でマスタリングしました。やはり低域の処理がポイントでしたね。単純に上げるとブーミーになる恐れがあったので、どうやって出すか気を遣ったんです。
——どのような方法でマスタリングしたのでしょう?
Chester 24ビット/192kHzのミックスをMAGIX Sequoiaにインポートするところから始めました。Sequoiaではリニア・フェイズEQを少し使い、LAVRY ENGINEERING DA-N5でD/Aした後、マスタリング用コンソールのMASELEC MTC-1Xに送って調整しています。アウトボードは、EQがSONTEC MEP-250とMANLEY Massive Passive Stereo Tube EQで、どちらもM/Sで使いました。SONTECはマイナスEQ用で初段に使い、飛び出しているところを削る感覚でかけています。MANLEYはプラス用EQ。保さんのミックスのふくよかな低音感をさらにリッチにしつつ、ボーカルのきらびやかさを多少プラスしています。
——ダイナミクス系については、いかがですか?
Chester 全部で4台、使いました。まずNEVE 33609/Bはパラレル・コンプレッションに使用しましたが、味付け程度です。MASELEC MDS-2によるディエッシングは、強めに聴こえる部分があるかもしれません。普段、レコードのカッティングをしているので、どうしても気になってしまう癖が出ていそうです。マルチバンド・コンプのMASELEC MLA-4も、低音と高音をそろえる程度に使いました。そして最後にPENDULUM AUDIO PL-2で軽くリミッティングし、AVID Pro Tools|MTRXに24ビット/192kHzで録音しています。
——オリジナルにも増して各要素のコントラストが明確で、立体的に聴こえる2ミックスとなりましたね。
吉田 音楽って“音を楽しむ”って書くから、凹凸をつけた方が面白いですよね。
Chester それに今回は、ミックスの報酬についてもアップデートがあるんです。買い取りではなく、ミキシングという行為での印税で支払われる契約を交わしています。まだまだなじみのない方法ですが、今後のエンジニアのあり方を見直すために、関係各社と協議して実現した新しい試みだと思っています。
『POCKET PARK』のトラック・シートを公開
1979年7~10月に録音された『POCKET PARK』。その全曲分のトラック・シートを掲載する。録音の場は旧・一口坂スタジオで、レコーディング・エンジニアはTomio Wada氏。使用レコーダーは24trのSTUDER A 800だったことが分かる。
Release
『POCKET PARK (2023 mix)』
松原みき
ポニーキャニオン:PCSP.05120
Producer:吉田保(2023 mixプロデューサー)
Engineer:吉田保、Chester Beatty
Studio:音響ハウス、山麓丸スタジオ