「鏡」のガムラン的なシーケンスの音、すごく傑作だと思います
ニューウェーブやテクノポップが華やかなりし1983年、山口美央子の3rdアルバム『月姫』はリリースされた。本作は現在、シティ・ポップの文脈でもとらえられ、“和風シンセ・ポップの名作”として国内外から高く評価されている。サウンド・プロデュースは当時、「すみれ September Love」が大ヒットしていた一風堂の土屋昌巳、シンセサイザー・プログラミングはYMOの作品やツアーでの活躍で知られる松武秀樹。この3人が再集結して『月姫 40th Anniversary Edition』が誕生した。Disc 1はオリジナル『月姫』を砂原良徳がリマスター。Disc 2では『月姫』のほか、1st『夢飛行』や2nd『NIRVANA』などの一部の楽曲を、オリジナル・マルチトラック音源を使用しつつもボーカルはすべて新録、さらに多くのシンセの差し替えやギターの追加が行われて再構築、なんと完全新録音まで含まれている。この奇跡的な作品について山口、松武、土屋の3人にお話を伺った。
CBS・ソニー六本木スタジオでの“宅録”
——『月姫』は現代の耳で聴くとアンビエント・ポップとも捉えられると思います。1980年代当時としては、時代を先取りしたサウンドだったのではないでしょうか?
山口 『月姫』はサウンド・プロデュースの土屋さんがお考えになるような音で作っていただいたんです。
土屋 ああいう音楽って当時からあったんですよ。それが表立って取り上げられることは少なかったかもしれませんが、ブライアン・イーノやジョン・フォックス、日本なら教授(坂本龍一)や細野(晴臣)さんも作っていました。新しい感覚の音ではありましたけど、そこへ次第に時代が追いついていったように思います。
——当時の先駆的なアーティストが注目していたサウンドだったんですね。松武さんは『月姫』の制作にはどのように臨まれたのでしょうか?
松武 ちょうどアナログ・シンセとデジタル・シンセが入り混じっていた時期だったんですけど、僕としては“究極のアナログ・サウンドを作ってやろう”と思っていました。SEQUENTIAL Prophet-5という名機があの時代に全世界的に売れ出していて。だから、やっぱりそういう名機で摩訶不思議な音を作ってやろうというムーブメントがありましたね。
土屋 Prophet-5こそ、アンビエントの音ですよね。
松武 そうですね。やっぱり他人とは違った音を作りたいなと思っていました。周りからしたら、“あの3人は何をやっているんだろう? 3人で相談しながら何か秘密のことでも?”と見えていたかもしれない(笑)。
山口 というのも、当時はミュージシャンを招いて大編成でレコーディングするのが当たり前だったのですが、『月姫』はほとんど3人で作っていたんです。ディレクターの方などは大編成に慣れていたので、3人だけで作っているのが不思議に見えたかもしれません。
——制作はどこで行われていたのですか?
松武 CBS・ソニー六本木スタジオですね。
土屋 あと、一口坂スタジオもちょっと使いましたね。
——今で言う宅録ではなかったわけですね。
土屋 スタジオを自宅だと考えたら、ものすごくぜいたくな宅録という感じでした(笑)。
——制作の本質的な部分は今の宅録に通じるものがあったということでしょうか?
土屋 同じです。全く同じです。CBS・ソニー六本木スタジオでは、大きなライブ・ルームは全然使っていませんでした。山口さんがピアノを弾いたくらいです。
山口 あとは土屋さんがパーカッションの奏者の方と入って何かしていたくらいでしょうか。
松武 コントロール・ルームだけで作業していましたね。3人と機材だけで(笑)。
山口 ディレクターの人にとってはドラマーが居るのが当たり前なのにドラマーはいなくて、“オレンジ”とかで作っていました。
——オレンジは、松武さんが製作された伝説的なサンプラーですね。
松武 エキサイター付きの12ビット・マシンで、1.2秒までしかサンプリングできませんでしたけど。それまでに使われていた8ビットのサンプラーは、ザラザラの不明瞭な音だったんです。それが嫌なので自分で作ろうということになりました。でも、RAMに保存しておけなかったんですよ。だから、サンプリングしたらすぐにアンサンブルの中で鳴らしてみて、マッチしなかったら違うものをサンプリングするという使い方でした。
土屋 電源を落とすと消えちゃいますからね。ちなみに「すみれ September Love」ではオレンジ2号を使いました。
「鏡」のガムラン的シーケンスは“タンス”の音
——『月姫』は1983年のリリースなので、実際の制作は1982年に行われていたのでしょうか?
山口 1982年の8月くらいでした。
土屋 ジャパンのワールド・ツアーへ行く前でしたね。
——楽曲制作はどのように進められたのですか? 最初に山口さんがメロディやコードを作られた?
土屋 ええ。すごくちゃんとしたデモがありました。だから、“こういうふうにしたいんだな”っていうのが、一発で分かりましたね。
——では、3人での作業は主にアレンジ?
土屋 そう。一生懸命、バッキング・トラックを作りました。
松武 土屋さんが、事前にアレンジを譜面に起こしてくださっていたんです。だから、そこにドラムのフレーズとかを現場で打ち込んで足していきました。
土屋 ドラムもちゃんと譜面を作っていたんですよ。この間、その譜面が出てきて自分でもびっくりしました。タムのフィルまで書いてあったから、“こんなことまで”って。
——では、その譜面を元に松武さんが打ち込まれた?
土屋 そうです。その譜面の作り方も松武さんから教わりました。小節番号を1小節目から繰り返しの小節まですべて振っていったんです。だから100小節、200小節っていう番号が出てくるのは当たり前で、僕はいまだにそのやり方を採用しています。そうしておくと最も事故が少ないんですよ。例えば、“2番のBメロの歌のここ”みたいな共有の仕方だと、ミュージシャンそれぞれで解釈が違ってくるから、たまに事故が起こるんです。でもセクションに区切って、それぞれの中で何番というのが振ってあれば間違いが起きません。意外と歌録りのときにも事故が無くて良いですよ。
——Prophet-5のほかには、どんなシンセやサンプラーを使われたのですか?
松武 MOOG IIICとE-MUのタンス(編注:モジュラー・シンセ)。これは全世界で400台くらいしかなくて、日本にも数台しか無いものだったはず。自分の好きなモジュールを入れてカスタムできるんですけど、音を聴いたときに、従来のMOOGとは全く違うと感じました。
——E-MUのモジュラー・シンセは、『月姫』ではどういう音に使われたのですか?
松武 パーカッションやベースですね。
山口 あとは「鏡」のガムラン的なシーケンスの音。あれは、すごく傑作だと思います。私の一番、好きな音です。本当にガラスというか、鏡の絵が見える感じで、ああいう音は日本ではあんまり無かったですよね。
松武 リング・モジュレーションを使った音ですね。E-MUのモジュラーでは、リング・モジュレーションの装置が無くても、その効果を作り出せるんですよ。でもメインはやっぱりProphet-5でした。Prophet-5のすごいところは、構造自体は従来のシンセと同様なんですが、ポリモジュレーションという、いわゆるポリフォニックでモジュレーションが作れる機能があるところ。Prophet-5を持っている人はポリモジュレーションを研究した方がいいと思います。あとはOBERHEIMもありましたが、使わなかったんだっけ?
山口 そうですね。「白昼夢」の冒頭もProphet-5ですよね。
松武 シンセの音作りに関して言えば、最終的な決定権は、山口さんと土屋さんにありましたから、私は言われた通りに作っていました。でも、音色を作ってみたもののちょっと暗いなとか、もう少し明るい音のほうがいいなっていうのは、やってみないと分からないんです。だから、延々と作業していましたね。
——ドラムは、オレンジ以外には何を?
松武 ROLAND TR-808ですね。
土屋 TR-808は良い音ですよね。当時のアナログ・マルチをデジタル化した音を松武さんに聴かせてもらったんですが、めちゃくちゃ良い音でした。
山口 あとはポンタさん(村上“ポンタ”秀一)が参加してくださったので、その演奏も入っています。
土屋 TR-808が走っている上に乗せる形でたたいてもらったりとか。つまり、人間じゃないと出せないグルーブが必要な場合にたたいてもらいました。ポンタさんは、それを普通にできる人だったんです。当時、打ち込みのビートに生ドラムを融合させていくというのは、ちょっと難しい技だったんですよね。ドラマーだったら誰でもできる、ということじゃなかったんですよ。
STEINBERG Cubaseでアレンジ
——当時の録音は、STUDERのマルチトラック・レコーダーをお使いだったと聞いています。
土屋 そう、A80です。
——今回は、アナログ・マルチをデジタル化して作業されたのですか?
松武 そうです。『月姫』のアナログが残っていたことに、まずビックリしました。それで、2022年6月に土屋さんに相談して、2022年8月にデジタル化しました。場所は乃木坂のソニー・ミュージックスタジオで、STUDER A800で再生して、AVID HD I/O経由でPro Toolsに24ビット/96kHzで録音しています。テープは76cm/sで録っていたから、1本のテープに実質12~13分しか入らないんですよ。だから2曲くらいずつ録っていったんですけど、スタジオのアシスタントはその2曲ごとにヘッドを拭いてくれました。
——当時の音を聴いてどのような感想を持たれましたか?
松武 アナログ・マルチの音は完璧ですね。
山口 TR-808の音とか、すごく良かったですよね。
松武 今よりも音が良いかも。低音とかドーンと出るし。デジタルがダメってわけではないんですけど。だから、あらためてアナログ・テープの威力ってすごいなと。
土屋 最近つくづく思うのは、やっぱりテープ・コンプレッションですよね。あれがもう、いわゆる僕らが言うコンプレッサーとは全く違う効果を生む。磁気テープへ音が入った瞬間に起こる、ある種のコンプレッション。あれが、やっぱり最大のアナログの効果なんじゃないでしょうか。柔らかくなって角が取れるんです。奇跡ですもんね。
松武 当時の音を何回も聴いちゃいました。“これどうやって作った音なのかな?”って。例えばベースの音とか、“これはMOOGのオシレーターを使って、こうやったな”とか。自分のやったことを、もう一回、自分で勉強しちゃった(笑)。
——Disc 2ではオリジナルの素材も使いつつ、歌はすべて新録で、シンセも大幅に差し替え、一部はギターも差し替えられたと伺っています。いわば再構築バージョンですね。このアレンジはどのように?
山口 STEINBERG Cubaseにデジタル化した24トラックのデータを入れて行いました。
松武 アナログ・テープってテンポが揺れてるんですよ。だから、デジタル化したものはDAWの小節線で見るとズレてるんです。それをアレンジの前に数小節ずつ手動で修正していきました。
——それはオーディオを切って、ずらして合わせていったのでしょうか?
松武 そうです。8分ズレてるとか、16分ズレてるみたいなことを確認して。逆に、多少ズレていても、“ここはジャストに来なくていいタイミングだから、このままでいいや”と残した部分もあります。
——その後に山口さんがアレンジを?
山口 はい。まず24トラックの中で必要な部分とそうでない部分を考えていきました。その後、結構ループを足したりもしています。けっこう大変でした。2018年にアーティスト活動を再開してからは、自分でアレンジしていたこともあって、今回もDTMで自らやってみなさいと言われ……(笑)。普段から、自分で作ったデータを松武さんに送るという方法で作っています。『トキサカシマ』や『フェアリズム』といったアルバムも同じやり方です。そうした作業を行う中で、やっぱり土屋さんのギターが欲しいですねってことになり、助けてくださいとお願いしたら、素敵な色をたくさん付けてくださいました。
——例えば、どのような?
山口 「夕顔―あはれ―」は1曲目なので、冒頭が風鈴の音のままだと“同じじゃないか”って言われると思っていたんですけど、土屋さんに“セミみたいなギターの音があると面白いんじゃないか”というアイディアをいただきました。また、私がアンビエントのようなピアノの音を入れていたので、アンビエントにするという方向が決まって。それで土屋さんがアンビエント的な音を加えてレイヤー感を深めてくださいました。ギターから始まるという全然違うアプローチになったので、すごくびっくりしてもらえるんじゃないかなと思っています。
——土屋さんの演奏はデータでもらったのではなく、その場で弾いたものを録っているのですか?
山口 はい。ある程度、アレンジが出来上がった段階で土屋さんにスタジオへお越しいただきました。そこで結構、いろんなパターンで何度も弾いてくださったのですが、“こんなに格好良いものを弾いてくれるんだ”と松武さんと2人でびっくりしました。新たにフレーズを増やしてくださったりもして、本当にクリエイティブな場所でしたね
MOOGのEQで新旧の質感を合わせた
——山口さんは、アレンジでどんなシンセを使ったのですか?
山口 私はデジタル好きなんですけど、今回はSTEINBERG Halion 6を使いました。いろいろな音源があって目的の音が探しやすいんです。宇宙っぽい音が欲しければ、Skylabという音源がありますし、ベースが欲しければベースに特化した音源があります。だから今回はHalion頼みになりました。
松武 彼女がアレンジしてくれたわけですが、それを全部よしとしたわけではないんです。これは音が混ざらないから、アナログを上にかぶせて……とか。
山口 “私はこの音が好きなので、絶対に変えないでください”っていうのと、“これは何かしてもいいですよ”というのを紙に書いてお渡ししました。“Track 1は絶対にダメ”とか(笑)。
松武 1980年代のときは、土屋さんが音色のイメージを指示してくれてましたね。それに対して“こんな感じですかね?”っていうのを作っていました。音色って名前があるようで無いし、お互い頭の中で考えているイメージが違うから。土屋さんは当時のキュー・シートに“テクベー”って書いてましたよね。テクノ・ベースのことなんだけど、長くて言うのが面倒くさいからテクベー(笑)。
土屋 あと“木系”とか“金系”って書いていた音色もありましたね。大体、この3人じゃないと分からない音色名だった。アタッキーな音にしても、木系のアタックか金属系か水系か砂系かとか。あと“うなずき”っていう音もあった。誰が聴いても良い音だってうなずいてしまう音。うなずき1号とか2号とか(笑)。
——当時の録音と今のシンセを合わせるときに、音の質感はマッチしましたか?
松武 そのまんまだと、やっぱりダメですね。だから、プラグインのEQやコンプで修正しています。あとはYMO時代から使っているMOOG Ten Band Graphic Equalizerを使いました。残留ノイズがすごいんですけど(笑)。でも、新しく作ったベース音色を含め、ベースには必ずと言っていいほど使っています。帯域によってはブーストすると、ひずむ寸前まで行くんですよ。それを少し戻した辺りで止めて、“やっぱりこれだよな”って。初代サチュレーションって感じ(笑)。もうオタクですよ、そんなことやっていても、誰も分からないだろっていう。
土屋 完璧なオタクでしょ。だって、オタクじゃないとリスペクトできないところがありましたよね。オタクじゃないとできないっていうのは、僕らが一番知っていますし。2~3日寝ないで1つの音を作るなんて当たり前でしたから。例えば、ギターにしても、どのシールドを使うかで音が変わってくるわけで。EQするよりもシールドで音を変えたりね。
松武 あとはハンダ。
土屋 本当に音が分かっている人は、最後はハンダの量ですね。“どのくらい盛ります?”みたいな(笑)。
——今回のアルバムは新旧の音がドッキングされていて、Disc 1とDisc 2を聴き比べても面白いと思います。
松武 そうなんですよ。それをぜひ、やっていただければと思っています。
——当時のサウンド・プロデューサーである土屋さんから見て、今回の作品の仕上がりはいかがですか?
土屋 素晴らしいですね。松武さんにやっていただいたら、もう何も言えないでしょ(笑)。
山口 Disc 2は全部違う感じになりましたし、いろんなタイプの曲が入っていて、アレンジに関しても80年代風にしたのもありますから、ファンの方も、ファンでない方も楽しんでいただけるとは思います。
——ドラムンベースのようなビートの曲もありますよね。
山口 そうですね。『月姫』の色合いを変えてリメイクしているので、Disc 1/2ともに面白く楽しめるかなと思います。また、Disc 1に関してはリマスターですから、やはり『月姫』を大事に思ってくださっている方々にとっては、非常に新鮮な気持ちになれると思います。その意味で今回、素晴らしい企画にしていただけて感謝しています。
Release
『月姫 40th Anniversary Edition』
山口美央子
完全生産限定盤
Sony Music Labels Inc.
MHCL-30797~8(2CD)
Musician:土屋昌巳(g)、松武秀樹(prog)、中尾秀行(g)、他
Engineer:松武秀樹、砂原良徳