【ジョージ・マイケル追悼】名曲「フェイス」制作秘話

2016年も残りわずかとなった年の瀬、ジョージ・マイケルがこの世を去ったという突然のニュース。今年はミュージシャンの悲報を多く聴く1年であったが、まさかジョージまでもが……と誰もが驚いたことだろう。ここではジョージの追悼の意を込めて、ジョージのヒット曲「フェイス」のエンジニアリングを務めたクリス・ポーターのインタビューを再掲載する。

▼サウンド&レコーディング・マガジン2013年4月号
CLASSIC T.R.A.C.K.S Vol.104「フェイス」ジョージ・マイケルより
Report:Richard Buskin Translation:Peter Kato

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1988年、『フェイス』のヒットでジョージ・マイケルが世界最高クラスのビッグ・スターとなったころ、ロンドン北西部にあるマイケルの実家のすぐ近くに住んでいた筆者は近所のビデオ屋で彼に瓜二つの若者を見かけた。ブロンド・ヘア、無精ひげ、ダーク・サングラス、ブラックのレザー・ジャケット、ホワイトのTシャツ、ブルー・ジーンズ、メタルチップのアンクル・ブーツなど、アルバム『フェイス』のジャケット写真やアルバムのタイトル・トラック「フェイス」のプロモーション・ビデオに登場する当時24歳だったマイケルそっくりのファッションで決めていたのだ。まさか本人がそんな目立つ格好で街中を歩くはずもなく、きっと彼の熱烈なファンだと最初は思っていた。しかしあまりにも本人に似ているので気になり、その若者をあらためて観察すると今度は心底驚いた。近所のビデオ屋でビデオを物色中だったその若者は、ジョージ・マイケル本人だったのだ。本名ヨルゴス・キリアコス・パナイオトゥーに戻って過ごすプライベートの時間でも、変装で正体を隠そうともしないその様子は、自身の得た名声を最大限楽しもうとしているかのようだった。

ジョージ・マイケル ▲ワム!でアイドル的なデビューをしたジョージ・マイケルだが、ソロとなってからは大人のリスナーを意識した作風へと変化し、今回取り上げる「フェイス」をはじめ、多くの曲が世界中で大ヒットすることになる

「ケアレス・ウィスパー」の再録音でエンジニアとしての信頼を得る

「あのころ、僕はジョージと一緒にアメリカに行って仕事をする機会が多かったんだが、彼はいつも大勢のマスコミが押し寄せることに文句を言っていた」とクリス・ポーターは言う。ポーターは、マイケルがアンドリュー・リッジリーと結成したワム!の1982年のデビュー・シングル「ワム・ラップ!(楽しんでるかい?)」から、1995年のソロ・シングル「ジーザス・トゥ・ア・チャイルド」まで、マイケルのレコーディングを数多く手掛けてきたエンジニアである。

▲「フェイス」のエンジニアリングを務めたクリス・ポーター。もともとはシンガーだったが、フィル・ライノットやトニー・ヴィスコンティとの出会いにより、エンジニアとしてのキャリアをスタート ▲「フェイス」のエンジニアリングを務めたクリス・ポーター。もともとはシンガーだったが、フィル・ライノットやトニー・ヴィスコンティとの出会いにより、エンジニアとしてのキャリアをスタート

「それで僕は“連中に気付かれたくないのなら、そのカウボーイ・ハットとサングラスを外したらどうだ? それでレインコートでも羽織れば空港で誰にも気付かれずに済む”などと助言したんだが、ジョージは言うことを聞かない。目立たない格好をするのが明らかに嫌な様子だった」

サウサンプトンで生まれ育ったポーターは1970年代にロンドンに移り住むと、シンガーとして音楽業界に入り、幾つものバンドを渡り歩く中でレコーディング・スタジオに対する興味を持ったという。エンジニアになったそもそものきっかけは、シン・リジィのリード・シンガー/ソングライター/ベーシストであるフィル・ライノットとの出会いで、彼の依頼で8トラックの自宅スタジオを作り上げたのだ。このスタジオを手掛けたことでプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと知り合いになり、さらにヴィスコンティの所有するスタジオ、グッド・アースの改造プロジェクトに誘われ、ついに1980年12月にポーターは26歳にしてアシスタント・エンジニアとしてそのスタジオに入り、エンジニアとしてのキャリアをスタートさせることになった。

ポーターがグッド・アースに入って最初に与えられた仕事はデヴィッド・ボウイの『スケアリー・モンスターズ』でバック・コーラスを歌うことだったという。新しい門出を祝うかのようなめでたいデビューだ。その後は毎朝のように行われていたジングル・レコーディングを手掛けたり、ブームタウン・ラッツ、ヘイゼル・オコーナー、ジョン・ハイアット、モダン・ロマンスといったアーティストのレコーディングにアシスタントとして参加しながらマイキング・テクニックを習得し、次第に正エンジニアとしての仕事を任されるようになる。

そして1982年、プロデューサーのボブ・カーターに気に入られたポーターは、グッド・アースに所属したままロンドンのさまざまなスタジオに出向いて仕事をするようになる。メイフェア・スタジオで行われた「ワム・ラップ!(楽しんでるかい?)」のレコーディングも、この時期カーターに呼ばれてエンジニアリングを手掛けたプロジェクトのひとつだった。

「ジョージとアンドリューに初めて会ったのはそのときだ」とポーターが当時を振り返る。「その後、2人はプロデューサーのスティーヴ・ブラウンとデビュー・アルバム『ファンタスティック』を作ることになるんだが、あのアルバムに収録された曲の幾つかはグッド・アースでも録られていて、その中の何曲かには僕がエンジニアリングを手掛けたギター・パートも入っている。中でも「ブルー」という曲は、「クラブ・トロピカーナ」のB面に入れる曲を一晩で作らなければならない事態になって、ジョージとアンドリューと僕とで急きょスタジオ入りし、11時間ほどで作り上げたんだ。2人とも納得できる仕上がりの新曲を作ろうと四苦八苦していたが、残念ながら十分満足できるものにはならなかったようだ。時間の都合でそのままシングルに収録されたものの、僕もあの曲は未完成だと今なお思っている。ちなみにあの曲をプロデュースしたのはジョージだった……スティーヴはあの晩スタジオにいなかったからね。僕とジョージの仕事仲間としての関係は、あの晩のセッションを境に本格化した」

その後、フリーランスのエンジニアとして独立したポーターのもとに、再びワム!とのレコーディングの機会がやってきた。

「あれは1983年暮れから1984年初頭のことだった。プロデューサーのアラン・シャックロックの下でジ・アラームの『アラーム宣言』のエンジニアリングを手掛けた直後、ワム!のマネージャーをしていたジャズ・サマーズから連絡があり、後に『メイク・イット・ビッグ』として発表される連中のニュー・アルバムのレコーディングにエンジニアとして参加しないか尋ねられたんだ。僕にとっては願ってもないチャンスで、ふたつ返事で快諾したのよ。あのプロジェクトで録った最初の曲が「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」で、サーム・ウエストのスタジオ2を使用したレコーディングはわずか2日ほどで終わった」

ちなみに「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」にデモは無かったという。しかし、マイケルの頭の中には曲の完成イメージがしっかり描かれていたようだ。

「ジョージのディレクションに従い、バンドを生で素早く録ることができた。一方、次に手掛けた「ケアレス・ウィスパー」については、ちょっとした紆余(うよ)曲折があった。ジョージとアンドリューが“プロデューサーのジェリー・ウェクスラーの下、アラバマにあるマッスル・ショールズ・スタジオで録りたい”と言い出したからだ。つまり僕はこの曲のレコーディングには必要無くなったということで、これで自分の役目が終わりプロジェクトから完全に外されるだろうと腹をくくった……僕とワム!の関係は終わった、あの2人とは二度と仕事をすることはないだろうとね。しかしそれから数週間後にジョージから連絡があり、マッスル・ショールズで録った「ケアレス・ウィスパー」の出来にどうしても満足できないので、レコーディングし直すのを手伝ってほしいと打診された。それで再びサーム・ウエストのスタジオ2に入ってリズム・セクションを録った。それからサックス・ソロのメイン・フレーズを一息で吹き切れるプレイヤーを探したんだが、11人ものオーディションをしたりと、レコーディングを終えるまでにかなりの時間を要したね」

マイケルとリッジリーが共作した数少ない曲のひとつである「ケアレス・ウィスパー」は大ヒットし、後にマイケル初のソロ・シングルとしてもリリースされている。

「その後、マスコミの押し寄せない静かな環境でジョージが仕事ができるよう、僕らはフランス南部にあるミラヴァルというスタジオへと移動した。3MのデジタルMTRを初めて導入したスタジオのひとつで、僕らは「ハートビート」「消えゆく思い」「イフ・ユー・ワー・ゼア」「クレジット・カード・ベイビー」、それから「フリーダム」のオリジナル・バージョンをレコーディングした」とポーターが続ける。

「すべての曲は僕らがミラヴァルで仕事をしていた6週間の間にジョージが書き上げ、ほとんどの曲はリズム・セクションを生で録るアプローチだった。つまりこのアルバムに収録された曲で事前にデモを作ったものはひとつも存在しなかったことになる。ミラヴァルでのセッションを終えると、次に「恋のかけひき」をパリとロンドンでレコーディングした。このアルバムにおけるアンドリューは、エモーショナルな部分での貢献がほとんどで、音楽的貢献は皆無と言っていいほど小さなものとなっていた。一方、僕とジョージは仕事仲間として極めて良好な関係を築き、それを継続させていた。年齢で言えばジョージは僕より10歳も年下なんだが、僕は彼の音楽に関する才能、能力、意欲を大いにリスペクトしていた。ジョージは音楽や作品の仕上がりイメージを自分の頭の中ではっきり描き、それに向かって邁進するとてもエネルギッシュなアーティストだった。自ら曲を作るだけでなく、完成した曲の確固たるサウンドのイメージを持ったアーティストと仕事をする経験はあのときが初めてだった。『メイク・イット・ビッグ』の場合、僕らは彼の思い描くモータウンのイメージを反映させた作品を作りたいと考えていた。サウンド・クオリティ的にはやや異なった仕上がりになったかもしれないが、それでもモータウンのスピリットやライブ感を取り入れることには成功したと思う」

デンマークのプークで行われた「フェイス」のレコーディング

1986年6月、ラスト・シングル「エッジ・オブ・ヘブン」がUKチャートのトップに輝くと、ワム!はウェンブリー・スタジアムでファイナル・コンサートを行って解散した。ソロ・アーティストとしての道を歩み始めたマイケルは、ティーンエイジャーをターゲットとしていた作風からの脱却を強く意識し、主として大人のリスナーを念頭に置いた、物事の本質を鋭くえぐる、より内省的かつシリアスな楽曲を作り始める。サーム・ウエストでソロ・デビュー・アルバム『フェイス』のレコーディングが開始されたのは、そうした変化の最中であった1986年8月のことだ。さらにサーム・ウエストでのレコーディングを終えた一行は、翌1987年2月、デンマークの滞在型スタジオであるプークへと場所を移して作業を続ける。ユトランド半島最大の都市オーフスから車で1時間ほどのところにあるプークは、プライバシーの守られた静かな環境と最先端の音楽テクノロジーを兼ね備えた理想的なスタジオだった。

「プークはグッド・アースの改造プロジェクトで一緒に仕事をしたアンディ・ムンローがその一部を手掛けたスタジオで、とても立派なスタジオだった。56chのSSL E SeriesやMITSUBISHIの32trデジタルMTRなど、必要な機材がすべてそろっていて、スタジオ入りしてからすぐに仕事に取りかかれる点も良かった」

『フェイス』のレコーディングに際して、NEW ENGLAND DIGITAL Synclavier 9600が使用されたという話があるが、ポーターによればそうした事実は一切ないという。

「スタジオで作ったサウンドをライブで再現するためにSynclavierをツアーで使ったことは確かだが、レコーディングで使用したことは一切無い。ツアーでも最初はAKAI PROFESSIONALのサンプラーを使っていたんだが、膨大な数のフロッピー・ディスクを曲の合間にロードするのが大変でね。そこでより実用的なツールとしてSynclavierを使用することにしたんだ」

プークでアルバム『フェイス』のレコーディングが始まったのは1987年だった。プークのコントロール・ルームはメイン・レコーディング・エリアより一段低くなった床面に作られていて、コンソールの上部とレコーディング・エリアの床面がほぼ同じ高さになっていた。すなわち、コンソールを操作している者が目を上げると、その目線と同じ高さにレコーディング・エリアに立っている者の足があるといった構造だった。

「ステージ上で演奏するプレイヤーを客席の最前列でかぶりつきながら観ている感じだった」とポーターが当時の模様を語る。

「もっともプークではリズム・セクションを生で録らなかったので、バンド全体の演奏を楽しむって感じではなかったね。メイン・レコーディング・エリアでは各楽器のオーバーダブしかやらなくて、LINN Linn Drumやキーボードはコントロール・ルームで使用していた。あのアルバムでは、できるだけ限られた数のトラックで曲を作るというのがジョージの狙いのひとつだった。プレイヤーとして、またプログラマーとしてのジョージの能力には限りがあったので、2小節ないしは4小節ほどの短いドラム・パートをループさせながら、その上にシンプルなサウンドを重ねるアプローチを採り、パートや音数の少ない比較的薄いバッキング・トラックを作ることを心掛けていた。ジョージのボーカル・パフォーマンスの素晴らしさは文句無しだったので、そうしたバッキングの上にボーカルを重ねた方が彼のパフォーマンスが引き立ち、リスナーの意識もそちらに集中すると考えられたからだ」

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フェイスのトラックシート ▲デンマークのプークおよびロンドンのサーム・ウエストでレコーディングされた「フェイス」の、シングル用に追加レコーディングされたバージョンのトラックシート。当時のプーク・スタジオではMITSUBISHIのデジタル32trレコーダーX800が使われており、リズム関係に計15トラックほど費やされているほか、ヒュー・バーンズのギターや、バック・コーラスを含むジョージ・マイケルのボーカルに多くのトラックが割かれているのが分かる。また下の備考欄にはボーカル録音の際のエフェクト・チェインやそれぞれのパラメーターもメモられている

リズム構築の柔軟性とサウンドが魅力でLinn Drumを愛用していた

『フェイス』のレコーディングのときに使われた楽器はほとんどが電子楽器であったとポーターは続ける。

「ブラスとピアノは生だが、ベースとストリングスはROLAND Juno-106、あとはYAMAHA DX7、GREENGATE DS3などで作られている。DS3はAPPLE Apple IIをプラットフォームとした8ビットのサンプラーで、独自のシーケンス・システムを持っていた。主にパーカッション・サンプルを鳴らすのに使用し、「アイ・ウォント・ユア・セックス」のボトルの音もDS3によるものだね」

『フェイス』のレコーディングには、多数のセッション・ミュージシャンが参加している。しかしいずれのパートも個々にオーバーダブされたもので、一堂に会しての演奏は無かった。ちなみにマイケルは「アイ・ウォント・ユア・セックス」と「ハード・デイ」ですべてのパートを、「モンキー」でもほぼすべてのパートを自分で演奏している。

「ジョージは曲のリズムやフィールに関するアイディアやイメージを持っていて、それに強くこだわっていた。だからスタジオに呼んだミュージシャンがどれだけ豊かな才能の持主であったとしても、プロデューサーやアーティストのディレクションに従って仕事をするのが当たり前という考えだったんだ。当時のセッション・ミュージシャンたちは1週間に5~6つのプロジェクトに参加することも珍しくなかった。だからその時々の音楽トレンドについても敏感で、流行や自分の気に入ったフレーズを自発的に弾くこともあった。しかしジョージはそうしたインプットを一切拒み、自分のアイディアを音にすることだけを求めた。自ら演奏するパートが増えたのには、そうした背景もあった。例えばベース・パートを自分で弾くとジョージが決めたら、僕らは1日中ベース・パート作りに費やした。そうした決断はジョージのわがままによるものではなく、ある特定のフィールを狙うなどの理由がちゃんとあったんだ。一方、すべての曲のリズム・パートは、まずはLinn Drumのプログラミングをするところから始めた。人間のドラマーを起用することによって生じるさまざまな問題を避けたいと考えたからだ。ステージであれスタジオであれ、シーケンサーのタイミングに合わせてドラムをたたくことが多くなった昨今は、ドラマーの音楽に対する考え方が昔と変わり、結果としてドラミングのクオリティは向上したと思う。しかし、1980年代のドラマーのドラム・テクニックが劣っていたとは言わないが、リズムをキープできない者が少なからずいたのも事実だ。『フェイス』ではひとつの曲にじっくり取り組み、完成させるまでに長い時間をかけた。中には作業がかなり進んだ段階でジョージがアレンジの変更を希望した曲などもある。そうした場合、本物のドラマーを最初から使っていると、そのドラマーをスタジオに呼び戻し、以前に録ったドラム・サウンドと同じ音になるようなセッティングを施した環境で録り直さなければならず、とても大変な作業になる。しかし、最初からLinn Drumを使用していれば、そうした修正も比較的簡単にできる。その後、世間でLinn Drumを使った音楽が増えたこともあり、あの独特なサウンドはむしろ鼻につくようになってしまったが、あのころはまだ珍しく、サウンドがとても個性的に感じられた。また、目新しいサウンドを使うことのみならず、コントロールのしやすさ、個々のリズム・パートを自在に構築できる柔軟性、独特のリズム感など、Linn Drumならではの魅力に僕らは強く引かれていた。ちなみに僕らは人間のドラマーがたたくようなドラムの再現を試みていたわけではなく、リスナーが思わず踊りたくなるような、Linn Drumならではの面白いリズムを作ろうとしていた。今日『フェイス』を聴くと、耳障りなほど目立つスティック・ノイズなど、ちょっとどうかと思うような個所がある。ジョージがそうしたとがったサウンドを好んだためあえて残したのだが、個人的には当時から不自然だと感じていた」

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フェイスのミキサー・セッティング表 ▲「フェイス」のミキサー・セッティング表。黒で書かれた文字が1987年5月に録音された際のミックスで、その後、8月や9月に追加レコーディングされると赤や青文字でそれに対する処理が追加して表記されている。下にあるのはLEXICON PCM70のパラメーター・セッティングをメモした表

マイケルはボーカル・ダビング中にその場で歌詞を書いていた

マイケルが2小節のドラム・ループをたたき、ヒュー・バーンズがアコースティック・ギターを弾いたアルバムのタイトル・トラック「フェイス」のレコーディングは1987年5月に開始された。

「ジョージがヒューに曲の進行やコードを伝えながら、ボー・ディドリーっぽいフィールのリズム・ギターを弾いてほしいとリクエストしたんだ」とポーターが当時を思い返す。

「ジョージが口ずさんだメロディをヒューがギターで弾いて確認するといったやり方で、2人でいろいろ試行錯誤していた。ヒューのギターにはNEUMANN KM84をセットし、ダブルで録ったと記憶している……トレモロのエフェクターをかけてね。レコーディングにはディオン・エスタスも参加していて、ベースはDIで録った。イントロの荘厳なオルガンはDX7のプリセットにあったもので、ジョージは歌詞が完成していないにもかかわらず、いきなりボーカルを吹き込み始めていた。このアルバム以降、ジョージはマイクの前で歌詞を作り始めるようになる……つまり、ボーカル録りをしながらその場で同時に歌詞を作るというやり方だ。僕が録音ボタンを押すと、ジョージが1フレーズだけ歌い“いったん、止めてくれ”と言って歌うのを止める。そしてそのテイクのプレイバックを要求し、結果を聴いた後に“「the」って言葉のところを歌い直したいんで、そこでパンチインしてくれ”などと指示してくる。僕はぶっつけ本番で初めて耳にする歌詞を録らなければならないわけだが、ジョージはお構いなしにそうした手順を繰り返しながら作詞とボーカル録りを同時進行させていた……それこそ言葉の音節単位と言っても差し支えのないほどの細かさでね。デジタル機器を使う必要性はこうしたところにもあった。何せ僕は歌詞を一度耳にしただけで“ooh”とか“ah”といった断片をレコーディングしていたわけだからね。ジョージが声の微妙なうなりや震えに込めた感情を的確にとらえるのは大変なことだったし、こっちがミスをした場合の修正も難しかった。「フェイス」のジョージのボーカル・パフォーマンスは極上だと多くの人が称賛している。確かにその通りなんだが、それはレコーディングに途方もなく手間をかけたからでもあるんだ」

そんな手間の一つがボーカルへ返すモニターのサウンドであったらしい。

「ジョージが「フェイス」のボーカル録りをしようとしたとき、僕はいつも使っているリバーブをかけた無難なサウンドを返した。しかしそのサウンドを耳にした途端ジョージは歌うのを止め、“駄目だ。この曲ではリバーブを一切かけたくない。ドライで目の前で歌っているようなサウンド……プリンスのレコードのような感じのボーカルを狙いたいんだ”とリクエストしてきた。当時、プリンスは極端にタイトなディレイをかけたボーカル・サウンドをフィーチャーした曲をレコーディングしていた。僕らはそうしたサウンドを念頭に置き、いろいろ試行錯誤した末にあの曲のボーカル・サウンドを作り上げることに成功した。そういうモニターを返すことで、ジョージは自分の歌い方と歌詞の聴こえ具合をチェックしていたんだ。言葉の音節の終わりの子音や言葉の響きに違和感を感じると、その言葉の同義語を幾つかピックアップし、その中からより音楽的に響きの良いものを探し出すなどして歌詞を変えていた」

マイケルのボーカルのためにポーターはたくさんのエフェクターを使用したという。ボーカル・サウンドにかかったピシッとした感じの高域のリバーブはLEXICON 224Xを通して得たもので、ほかにもAMS RMX16やDMX15-80Sなどが使用された。

「アルバム『フェイス』以降のジョージの特徴とも言える独特のボーカル・サウンドは、タイムを30msにセットしたディレイを中央やや左側に、45msにセットしたディレイを中央やや右側に、それぞれパンして作ったものだ。左右でピッチを微妙にズラすこともあったが、普通はそうした処理はしなかった」

ちなみに『フェイス』でマイケルが使用したマイクは、現在もポーターが所有しているという。

「もともとはプークのNEUMANN M49だったんだが、セッションが終わった後に僕が買い取った。今でも仕事でボーカルを録るときにはよく使用している。とても心地の良い、抑えの効いたトップ・エンドが得られるマイクなんだ。初期のデジタル・レコーディングの問題のひとつとして、トップ・エンドが粗くなることがあった。でも、このM49を使えば、高音を強調してもサウンドが金属的になったり不自然になったりしないんだよ」

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フェイスで使われたエフェクターのセッティング表 ▲こちらは「フェイス」で使われたエフェクターのセッティング表。もともとひな形が用意されていたと思われるLEXICON 224X、AMS RMX16、DMX15-80Sに加え、右下には手書きでTUBE-TECH PE1Aのパラメーターが記されている

3つのパートから成るギター・ソロはマイケルが口ずさみながら作った

「フェイス」のボーカルをすべて録り終えると、プークでのセッションは終了した。

「ジョージが都会から離れた合宿生活に嫌気が差し、その倦怠(けんたい)感に起因する神経症にかかったからだ。かなりの重症だったようで、誰かが“次の木曜日まで飛行機が飛ばない”と教えると、“それじゃ飛行機をチャーターしよう”と言い出したほどだ」

セッションはサーム・ウエストのスタジオ2で再開され、SSLのコンソールSL4048 Eのリコール機能のおかげもあり、ポーターはすべての素材をプークと同じセッティングで呼び出すことができたという。

「ジョージはとても優れた耳の持ち主だ」とポーターが続ける。

「だから音にちょっとでも違いがあればそれに気付き、“カウベルの音が違う”などと駄目出しをしてきた。そうしたこともあり、2つのスタジオのサウンドのマッチングにはかなりの時間を費やさねばならなかった」

サーム・ウエストで1987年9月にミドル・セクションとヒュー・バーンズのギター・ソロが追加レコーディングされた「フェイス」でも、そのサウンド・マッチングでは苦労をしたらしい。

「あのギター・ソロは3つのパートから成り、3~4時間かけて録ったものだ。ジョージは1950年代のクラシックなサウンドを欲しがっていた。そこで僕は1/4インチ・テープ・マシンでディレイ処理したサウンドにプレート・リバーブをかけてそれっぽいサウンドを作った。そうやってサウンドを完全に整えた後、ジョージがボーカルを小節単位で少しずつ録っていった。トリッキーなパンチ・インが幾つかあり、また、2つのパートが互いに反応し合うように仕上げるなど困難な局面もあったが、全体としてはとても自然かつスムーズに仕上がった。ギター・ソロの背後に耳を傾けると、ジョージがビバップっぽいリフを口ずさんでいるのが分かる。あれはジョージがギター・ソロのアイディアをヒューに伝えるときに口ずさんだのと同じリフで、いわばあのギター・ソロの原型になったものだ。驚異的なテクニックの持主であるヒューは、ジョージのアイディアに現代的なテイストを加え、より軽快で転がるようなフレーズを披露した。ジョージが全体的にもう少しシンコペートさせてほしいとリクエストし、幾つかのメロディを口ずさんで自分のアイディアをヒューに伝えていたね。あの曲のギター・ソロはそのようにしてジョージとヒューの2人が作ったものなんだ。ヒューはジョージの手足になるつもりであのプロジェクトに参加していた。ジョージが思い付くさまざまなアイディアをそのまま弾くことが自分の役目と自覚し、言うなれば彼の楽器になることに徹していた。どんなリクエストにも忍耐強く応え、また、実際にリクエスト通りの結果を出していた。そんなヒューとの仕事をジョージはとても喜んでいた。2人のコラボは、ライブ・エリアにセットしたアンプの前に立ってギターを弾くヒューに対し、コントロール・ルームにいるジョージがコンソールの背後から指示を出すといった形で進められ、ジョージが口ずさむフレーズなどのアイディアはトークバックを通してヒューに伝えられていた。当時の僕は、そうしたアプローチを用いるレコーディングをそれほど苦には感じなかった。むしろ面白いアプローチだと興味を持ち、全部で1年以上かかったレコーディングの日々をそうした作業に没頭しながら楽しく過ごした。とても刺激的な毎日だったよ。一方、まだそれほど多くのキャリアを積んでいない若手だったこともあり、あのプロジェクトにかかわったことで自分があれほど高い評価を受けるとは思ってもいなかった。しかし結果として、あのプロジェクトは僕のキャリアを大きく飛躍させるきっかけとなった。そうした意味でも『フェイス』は僕にとって最高の仕事のひとつで、一瞬たりとも無駄のない素晴らしい時間を過ごすことができた」

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1987年10月にリリースされたアルバム『フェイス』はイギリスとアメリカの両国でチャート首位に輝いただけでなく、ビルボードR&Bチャートで白人アーティスト初のナンバー1アルバムとなり、さらには1989年グラミーの年間最優秀アルバム賞を受賞。これまでに全世界で2,000万枚以上のセールスを記録するなど、世界的な大ヒット作となる。また、アルバムからカットされた「フェイス」「ファザー・フィギュア」「ワン・モア・トライ」「モンキー」の4曲がアメリカのシングル・チャートのトップに輝いたことにより、1枚のアルバムからカットされたアメリカ・チャート・ナンバー1シングルの最多記録を持つイギリス人男性アーティストとなった。

「その後も僕はジョージのプロジェクトに関与し続け、3枚目のソロ・アルバム『オールダー』の3分の1くらいまでは一緒に仕事をした。僕らがたもとを分かったのは、ジョージがそのころからクラブ系のレコードに強い興味を持ち始めたからだ」とポーターが明かす。

「あのころからジョージはシンセサイザー、ビート、ループなどを使って音やパートを幾重にも重ね始め、より複雑なサウンドを目指すようになった。自分のナイト・ライフを音楽に反映させ始めたというわけだ。当時のジョージが自分の居場所として好んでいたのが、その手の音楽を好む若者が大勢集うクラブだったからね。しかし僕はクラブ系の音楽にそれほど魅力を感じなかった。ジョージは恋愛をテーマにした歌を歌わせたら右に出る者のいないとてもロマンチックなシンガーだと思う。特にバラードを歌わせたら最高だ。ジョージと一緒にレコーディングした曲すべてについて僕はとても満足しており、とりわけジョージのロマンチックな側面をフィーチャーした多くの曲に自分が関与できたことを誇りに感じているよ」

(初出:サウンド&レコーディング・マガジン2013年4月号

なお、今回の再掲載にあたって、ライターのリチャード・バスキン氏から一枚の写真とメッセージが届いたので紹介する。

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Attached is a photo I took of George Michael on November 25th 1984 at the recording of the Band Aid charity single ‘Do They Know It’s Christmas?’
So sad.
Richard

添付した写真は1984年11月25日、バンド・エイドのチャリティ・シングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」のレコーディングで私が撮影したジョージ・マイケルです。
とても残念です。
リチャード・バスキン