半野喜弘が映画を撮った理由〜“初監督作品『雨にゆれる女』は僕にとってソロ・アルバムなんです”

パリと東京という2つの都市を拠点に活躍するミュージシャン半野喜弘。1990年代後半にエレクトロニック・ミュージックの分野で注目を集め、その後オーケストラ作品にまで活動範囲を広げる一方、1998年のホウ・シャオシャン監督作品『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を皮切りに、ジャ・ジャンクー、ユー・リクワイなど現代アジアを代表する監督たちの映画音楽を数多く担当し、世界中のシネフィルから高い評価を得てきた。そんな彼が映画監督に初挑戦し『雨にゆれる女』という作品を作り上げた。主演には今最も注目を集める俳優の青木崇高、ヒロインには若手女優の大野いと、という気鋭の若手を迎えた本作は、最近の日本映画が忘れてしまった濃厚な色彩と張り詰めた緊張感が同居し、とても初監督作とは思えない密度の高い仕上がりであった。いったいなぜ映画を撮ることにしたのか? 半野をキャッチする機会に恵まれたので、インタビューをしてみることにした。

音楽で感情の機微を描きたいが、歌詞は音楽の抽象性を妨げてしまうから乗せたくない

──半野さんは映画音楽を数多く手掛けていますが、映画を監督するというのはそれとはまったく別のことだと思います。どうして映画を撮ろうと思ったのでしょうか?

ミュージシャンとして2003年に『Lido』、2005年に『Angelus』というソロ・アルバムを出して、その後もそれぞれの続編的なアルバムを作らないかという話はあったんですが、何を作りたいのか自分でも見えなくなってしまっていたんです。確かにRADIQという名義ではテクノ/ハウス的なトラックをリリースし続けていますが、それは僕の中では架空の別人ですし、映画音楽も自分の作品ではあるけどアルバムとは違います。スイスやスウェーデンのオーケストラと一緒にした仕事も舞台上で再現される音楽……録音されないライブみたいなものでそれもアルバムと違う。思ってた以上に自分の中に“かつてアルバムと呼ばれていた録音物”へのこだわりがあって、それを考えているうちにだんだんと自分の次のソロ・アルバムは映画なんじゃないかって思うに至ったんです。

──そこにはかなり飛躍がありますよね、なぜ音楽でなく映画がアルバムなのでしょうか?

音楽を通して人間を表現したい……人生とか感情の機微を描きたいという気持ちが強くなっていたんです。でも、そもそも音楽の一番面白いところは抽象性で、歌詞を乗せると具体性が与えられ多くの人が引きつけられる一方、抽象性を妨げてしまう。だから僕は音楽の中で歌詞に重きをおけなかった。歌詞で感動するっていうのと音楽で感動するっていうのが、自分の中では100パーセント一致しないんです。だとすると、そこは切り離して考えざるを得なくて、じゃあ何ができるかって考えたときに映画だったということです。

──これまで半野さんが作られてきた音楽は抽象性が高いものだったので、映画を撮られたという話を耳にしたとき、同じように抽象性の高い映画なのだろうと勝手に想像していました。

『コヤニスカッツィ』みたいな?(笑)

──はい(笑)。でも、実際に『雨にゆれる女』を観たら人間ドラマだったので驚いたのですが、そもそも人間が描きたかったから撮ったものだったのですね。

ええ、僕は最初から人間ドラマがやりたかったんです。起承転結がはっきりしている映画らしい映画をやりたかった。物語が始まって、いろいろずれたりしてっていうのは交響曲に似ている部分があって、自分が交響曲を書くときのように映画が作れたらなと。音楽のメソッドを使ってドラマとしての映画を作ることで、自分なりのリズム、テンポというものが出て来ると思ったんです。

──つまり、オーケストラのスコアを書くように映画を作った?

はい、だから最初の脚本にはアーティキュレーションじゃないけど、かなり細かいところまで書き込みました。でも、生まれて初めて書いた脚本はみんなから鼻で笑われましたよ……“アタマおかしいんじゃない?”くらいの反応(笑)。それはあまりにも実現性の低いものだったからです。群像劇で外国が舞台で、言語が日本語と英語と中国語がミックス……これを助監督経験もない男が撮れるわけないと。

──それで違う脚本を書くことに?

ええ、何本か別の脚本を書いていろいろなプロデューサーに見せている内に、もっと小さい規模の作品を撮った方がいいとアドバイスされたんです。映画って全部お金に直結する……脚本に“ダムに大雨が降っている”と1行書いただけで何千万もかかる(笑)。それで予算規模に合わせ、出演者数を絞って場所も移動させないという制約を課して書こうと。それで俳優になる前から友人だった青木崇高とは、かねてから一緒に映画を作ろうという話をしていたので、彼を主演に腰を据えて脚本を書いたのが今回の『雨にゆれる女』なんです。

© 「雨にゆれる女」members © 「雨にゆれる女」members

音楽が持っているロジックとコンテクストを映画の中に反映させた

──撮影に入る前に、監督になるための準備は何かしたのでしょうか?

生まれて初めてカメラを買いました(笑)。これまで写真に興味が無かったので、持ってなかったんですよ。でも、カメラマンがやっていることをちゃんと理解した上で指示をしたかったので、CANON EOS 5D Mark IIIといろいろな焦点距離のレンズを買いそろえ、それぞれの画角や圧縮され具合を体感しました。“三脚の位置をあと1m下げてレンズを50mmから75mmに換えてもっと詰まらせて”、というのを自分で言いたかったんです。

──オープニングで青木さんがアルコール・ランプでナイフを消毒するシーンはとても映画的な映像で素敵でしたね。

あれはどうしても撮りたかったシーンです。音楽でもアルバムの1曲目、1音目っていうのはすごく大事で、全体のトーンがそこで決まります。例えばCメジャーのコードを聴かせてからドが鳴るのと、C#のコードを聴かせてからのドで全く響きが違ってきますよね? そういう音楽的な解釈で、最初にこの映画はこういうトーンだと提示するために必要なシーンだった。あれを提示することで、その後のすべてのシーンの緊張感や色彩のトーンが全部決まっていくんです。

──そういう意味でもとても音楽的に作られた映画なのですね。

ストーリーを観客の気持ちのどこに置くのかは音楽的な作業だと思っています。通常、映画音楽がそれを担っていますが、僕はそれを映像を含めた全体で構築したかった。音楽家が作ったからといって映画音楽にフォーカスしたわけではなく、音楽が持っているロジックとコンテクストを映画というストーリー・テリングの中に反映させた感じですね。

──逆に音楽はあまりフィーチャーされていないようにも感じられました。

そうですね、基本的に映画音楽というのは必要最小限で機能していればいいので、本当はもっと少なくしたかったくらいです。でも、やっぱり自分がうまく脚本を書けなかったり、うまく演出できなかったり、うまく撮影できなかったところを補足をするために音楽を入れざるを得なかった部分はあります。緊張感が少し足りなかったとき、ほとんどの人は聴こえないかもしれないけどそのシーンに少しだけ低周波を入れたりしました。

──撮影についてはカメラを買って準備したとおっしゃってましたが、役者さんへの演出については何か準備をしましたか?

いいえ。そこが今回の自分にとっての一番の課題であり一番の不安要素でもありました。ただ、結果的にほとんどが思った通りに撮れました。それはキャストの青木と大野いとにすごく能力があったから……2人とも僕に対して心を開いてくれたのが良かったんです。特に青木はもともと友人でしたから、この主人公はどんな男だというのを脚本を書く段階からずっと話をして、どんな歩き方だとか、どういうしゃべり方だとか、一緒にキャラクターを作ってこれた。だから撮影現場は最終確認の場所でしたね。

──撮り終えてみてご自身としての感想は?

“初監督のとき、現場はみんな敵に見えるよ”っていろんな人に言われたんですけど、まったくそんなことはなく、楽しくて楽しくて(笑)。それでも撮り終わったときには、もう作るのやめますっていうくらい凹みました。やっぱり自分の力の無さというか、もっとこうすれば良かったとか思うことが多かったんです。音楽ってプリプロして、本チャン録って、そしてミックスでまた変えてっていうことができますけど、映画って一回しか撮れない。撮り直しもダビングもできない……一発録りなんですよ。ただ、撮り終えてから時間がたってあらためて観たときに、ツッコミどころは満載だけど、好きか嫌いかというと好きだなと思った。そこから開き直りました。なので、人から“出来はどうなの?”と聞かれたら、“傑作ですよ!”と答えています(笑)。

──では、監督としての次回作も?

そうですね、次のアルバムもきっと映画になるでしょう(笑)。

──となると音楽のアルバムを作る日は来るのでしょうか……?

分からないですね。まあ、仕事の軸足は音楽に置いておきたいので、プロの音楽家としてできることをやり続けます。逆に映画を生きる糧にするっていうことはしません。自分のメシを食うネタにするために妥協するのはイヤなので、それこそ次の作品が撮れなくてもいいんです。それは昔、自分が音楽のアルバムを作っていたときと同じですね。だから、頼まれて映画監督をやることはありません……頼むなら音楽を頼んでください(笑)。

映画『雨にゆれる女』公式ページ11月19日(土)テアトル新宿にてレイトロードショー