【プリンス追悼】エンジニア、デヴィッド・Zによる名曲「KISS」の制作秘話

2016年4月21日、プリンスがミネソタ州ミネアポリス郊外の自宅でこの世を去った。サウンド&レコーディング・マガジンではプリンスの追悼として、本誌2013年8月号掲載、プロデューサー/エンジニアのデヴィッド・Zが名曲「KISS」のアレンジ/エンジニアリングについて語ったインタビューを再掲載する。

▼サウンド&レコーディング・マガジン2013年7月号T.R.A.C.K.S Vol.107 プリンス 「KISS」
Report:Richard Buskin Translation:Peter Kato

WPCR13537_1 『パレード』
プリンス&ザ・レヴォリューション
ワーナー:WPCR-75020
a-itunes

1 クリストファー・トレイシーのパレード
2 ニュー・ポジション
3 アイ・ワンダー・ユー
4 アンダー・ザ・チェリー・ムーン
5 ガールズ&ボーイズ
6 ライフ・キャン・ビー・ソー・ナイス
7 ヴィーナス・ドゥ・ミロ
8 マウンテンズ
9 ドゥ・ユー・ライ?
10 KISS
11 アナザー・ラヴァー
12 スノウ・イン・エイプリル

1986年2月に発表され、プリンス通算3枚目のナンバーワン・シングルとなった名曲「KISS」のアレンジ/エンジニアリングを手掛けたデヴィッド・Z。Zは、プリンスの代表曲である1983年の「パープル・レイン」のライブ・レコーディングをはじめ、ミネアポリスを拠点に活躍するこの小柄なマルチアーティストの作品に並々ならぬ貢献を果してきたプロデューサー/エンジニアである。ただし、Zのキャリアはそれだけにとどまらない。多くのアーティストのヒット作に深く関与しており、例えば全米/全英で大ヒットしたリップス・インクのディスコ・ナンバー「ファンキータウン」ではエンジニアリングとギター・プレイを、また、1988年に全米チャート・ナンバーワンに輝いたファイン・ヤング・カニバルズの「シー・ドライブス・ミー・クレイジー」ではプロデュースとエンジニアリングをそれぞれ受け持っている。その名がクレジットされた作品をすべて列挙するだけでも枚挙にいとまがないほどの大ベテランなのだ。今回は「KISS」についてのアレンジ/エンジニアリングを、Zの言葉からひもといていこう。

レコーディングのビジネスからエンジニアをやらざるを得ない局面に

 ミネソタ州ミネアポリスで生まれ育ったZは、本名をデヴィッド・リヴキンという。10代のころよりギタリストとして地元のロック・バンドを転々とするも注目されず、裏方の仕事をしようとミネアポリス地区担当のプロモーション・スタッフとしてA&Mレコードに入った。しかし自分に任されるレコードのクオリティに納得できず、また、そうしたレコードを地元ラジオ局に売り込まなければならないことに嫌気が差す毎日が続いた挙げ句、1968年、自分の仕事に対する不満を本社ロサンゼルスの幹部にぶつけたことで転機が訪れた。「自分の手でもっと優れたレコードが作れると思うのなら、さっさと荷物をまとめてこっちに来い」とその幹部に制作サイドの仕事に転じるよう言われ、その言葉通りに行動したのである。

 その後間もなくしてZはソングライターとしてA&Mレコードと契約。ギタリストとしての腕前を生かしながら、ビリー・プレストンのレコードにプレイヤーとして参加したり、グラム・パーソンズのデビュー・アルバム『GP』に収録された「ハウ・マッチ・アイヴ・ライド」を共作したりと、プロデュース方面の仕事に深く携わるようになる。

 「ロサンゼルス時代の5年間は、金をもらいながら学校に通わせてもらっているようなものだった」とZが当時を振り返る。「何せミネアポリスを出るまで、俺にはレコード制作に関する知識が皆無だったからな……。でもグラム・パーソンズの死をきっかけに俺はミネアポリスに帰ることにした。当時はヒッピー・ムーブメント全盛の時代で、ドラッグやフリー・セックスが社会全体に広く浸透していてね。とりわけ西海岸はそうしたヒッピー文化のメッカで、ドラッグのやり過ぎで死んだグラムの末路を間近で見た俺はそうした生活から足を洗いたいと思ったんだ。そしてそれにはロスを離れてまともな感覚を取り戻すのが一番だと、そう考えた」

 ミネアポリスに帰ったZは、地元の音楽業界で食べていくため、現地のブッキング・エージェントと提携し、傘下バンドを地元クラブに売り込むためのデモをASIスタジオでレコーディングするビジネスを始めたという。

 「最初はセッションに立ち合うだけだった」とZが続ける。「しかしそのうち、ASIスタジオのエンジニアがデモ作りの仕事に不満を持つようになってね。“デモを録るのはもう飽きた。アンタがエンジニアをやればいい”と言い出したんだ。俺は“自分はギタリストでソングライターだから、エンジニアリングのことは専門外で何も知らないので無理だ”と返したんだが、そいつは全く耳を貸さず、そのまま部屋から出て行ってドアをロックした。そしてスタジオに閉じ込められた俺は、自分でエンジニアリングをやらざるを得ない局面に無理矢理に立たされたんだ……。それまでエンジニアリングについて誰かに学んだ経験など全くなかったので、それから2年間、俺は現場でのデモ作りを通して経験を積むとともに、本を読みあさってエンジニアリングや機材の使い方に関する知識をひたすら蓄えなければならなかった。しかしその甲斐あり、当時のASIスタジオにあったカスタム・コンソールと8trマシンを使ってのレコーディングに精通するようになったんだ」

すべての楽器パートを自分で担当。しかも最初から最高の演奏を披露

 「1975年のことだ」とZが当時を振り返る。「友人でグランド・セントラルというバンドに目を付けた奴が、そのバンドのデモを録りにASIスタジオにやってきた。そのバンドには当時16歳のプリンスをはじめ、ベースのアンドレ・シモン、ドラマーのモーリス・デイらがいて、かなりイカしたサウンドを鳴らしていたんだ。もっともそのデモがレコード会社幹部の目に留まることはなかったが……。まあ無理もない。あの当時、ミネアポリスとその双子都市セントポールの音楽業界はビジネス的には全くの不毛地帯だったからな。レコード会社の連中は誰も見向きもしなかった。幹部に至ってはミネアポリスまでやって来る物好きは皆無といった状態だったしね。レコード会社のお偉方たちは、多分ミネアポリスのことをすごく田舎だと思い込み、家庭の裏庭でバッファローを放牧しているような光景を想像していたんだろう。そんな具合だったからミネアポリスの音楽シーンはかなり停滞していた。地元業界関係者の誰もが“この街からヒットさえ出れば状況は変わる”と考えていたのだが、だからこそ皮肉なことにボブ・ディランもベーシストのウィリー・ウィークスも自らの成功をつかむために街の外へと出て行ってしまったんだ」

 ASIスタジオでプリンスの存在を知ってから約1年後、Zはスタジオ80という別の地元スタジオでエンジニアとして働いていた。1974年12月にボブ・ディランが名盤『血の轍』の収録曲の幾つかをレコーディングしたスタジオである。そんなある日、Zの友人で、ソロ・アーティストとなったプリンスのマネージャーをしていたオウエン・ハズニーが、プリンスのデモを携えてスタジオ80にやってきたという。

 「あのとき耳にしたデモはどれもとても素晴らしい出来だった」とZが当時を思い返す。「実際、どれもプリンスのファースト・アルバムに収録されたしな」

 さらにハズニーの依頼で、Zはプリンスの曲のデモを3本、サウンド80で録ることになった。後に「ソフト・アンド・ウェット」「ベイビー」「Make It Through the Storm」(未リリース)となるデモで、いずれも約12分の長さだった。

▲プロデューサー、エンジニアだけでなく、ギタリスト、コンポーザーとして活躍するデヴィッド・Z。今回のプリンスの作品以外にもシーラ・E、ジャーメイン・ジャクソン、ジョディ・ワトリー、ザ・ボディーンズ、バディ・ガイ、アーハ、エタ・ジェイムスといったアーティストの作品にさまざまな形で関与している ▲プロデューサー、エンジニアだけでなく、ギタリスト、コンポーザーとして活躍するデヴィッド・Z。今回のプリンスの作品以外にもシーラ・E、ジャーメイン・ジャクソン、ジョディ・ワトリー、ザ・ボディーンズ、バディ・ガイ、アーハ、エタ・ジェイムスといったアーティストの作品にさまざまな形で関与している

 「それぞれのデモをレコーディングするのに先立ち、プリンスはベース、ギター、キーボード、シンセ・ブラスなど、レコーディングするパートのアイディアを自ら口ずさんでラジカセに録っていた。また、ビートに関するアイディアも口ずさんでラジカセに吹き込んでいたよ」とZが振り返る。

 「楽器の演奏はすべてプリンスが担当した。俺がそれぞれの楽器パート用にセットアップした演奏エリアを整えると、プリンスが演奏エリアを一つ一つ巡り、それぞれのパートのアイディアをラジカセで確認しながら演奏するといった手順でデモ・レコーディングは進んだ。まあ口で説明すると簡単そうだが、すべてのパートを自分で演奏しながら曲全体を見渡す客観性を保つのは難しく、そうした仕事を難なくやってのけていたプリンスの底知れぬ実力に俺は舌を巻いた。しかも最初から最高の演奏を披露していたからな……。最初に出した音から最後の音まで、その演奏はまさに完ぺきだった。そしてセッションを通してプリンスが音楽制作以外にやったことは食事と睡眠だけ。無駄な時間が全くなかったんだ。あのころもそうだったが、プリンスは今でもほとんど睡眠を取らない生活を続けていると思う。あれほどエネルギーに満ちあふれたアーティストはほかに見たことがないよ。しかもプリンスはとても負けず嫌いな性格で、誰にも負けたくないという競争心がその創作活動の原動力になっていると思う。向上心と言ってもいい。いずれにせよプリンスはそうした競争心だけでどこまでも走って行けるんだ。だから自分の方がライバルより常に優れていなければ気が済まず、実際その通りの結果を残すことが多い。あれはマドンナが6,000万ドルでレコード会社と契約したときのことだった。誰もがその金額に驚く中、プリンスだけは部屋の中を悔しそうに歩き回り“6,000万ドルだって?クソッ! それなら自分は9,000万ドルの契約を勝ち取ってやる!”と宣言していたのを覚えている。競争本能の塊なだけに仕事に関しても誰よりエネルギッシュで休むことを知らず、一緒にプロジェクトを手掛けていると夜中の2時に電話でたたき起こされてスタジオに呼び出されることも珍しくなかった。まさにノンストップ・ワーカーといった感じだったよ」

1st『フォー・ユー』のタイトル曲はボーカル・ダビングを46回もした

 プリンスのデモ音源がその後、どのようにしてレコード会社の担当者に渡り、デビューに行き着いたのか、Zが当時をこう振り返る。

 「俺の従兄弟にクリフ・シーゲルという男がいるのだが、そいつがワーナー・ブラザーズでミネアポリス地区担当のプロモーション・スタッフをやっていた。それで俺たちがレコーディングした3本のデモをそいつの上司のルス・ティレットに聴かせるよう頼んだんだ。デモを聴いたルスはプリンスの曲をとても気に入り、デモを上役のA&R担当重役のレニー・ワロンカーのところに送った。するとレニーがプリンスのとりことなった。20歳前の少年が作曲、プロデュース、楽器演奏のすべてを1人で手掛けていることが信じられない様子だったらしい」

 デモだけではない。デビュー・アルバム『フォー・ユー』でも、プリンスはすべての曲の作曲、プロデュース、アレンジのみならず、レコーディングで使用された27の楽器すべてを1人で演奏した。

 「ワーナー・ブラザーズと契約するのに先立ち、プリンスがすべての楽器を本当に1人で演奏したことを証明すべく、プリンスとオウエンと俺の3人でロサンゼルスまで飛んだことがある。ワーナー・ブラザーズのスタジオに入ると、レニー・ワロンカーがルス・タイトルマン、ゲイリー・カッツ、テッド・テンプルマンらプロデューサーとともにいた。多分、ワーナー側は契約の決定を既に下していて、そのときはプリンスの実力を計りながらファースト・アルバムのプロデュースを誰に任すか決めようとしていたのだと思う。オウエンは事前にプリンスがアルバムのセルフ・プロデュースを希望していることをワーナー側に伝えていたのだが、まあ連中にしてみれば20歳前のガキに何ができるかと半信半疑だったというわけだ。ワーナー側がプリンスの実力を認め“分かった。彼ならできる”とセルフ・プロデュースを許可したのは、連中の目の前でプリンスがすべてのパートの演奏とボーカルを吹き込み、デモを見事に再現してからのことだった。しかしプリンスのセルフ・プロデュースはすんなり決定したものの、エンジニアに関してはそのまま俺ってわけにはいかなかった。俺はまだ駆け出しだったし、ワーナー側はある程度実績のあるエンジニアを1stアルバムに起用したいと考えていたからだ。そこでA&Mレコード時代に俺が作曲したデモをレコーディングしてくれたトミー・ヴィカーリというエンジニアを推薦した。ただし後に行われたボーカルのレコーディングに関しては、プリンスのリクエストでソーサリートにあるレコード・プラントに呼び出された俺が手掛けることになるんだが」

 ヴィカーリの仕事を見ながらエンジニアリングに必要な知識やノウハウをすべて習得したというプリンスが彼をお払い箱にし、その代わりにZを呼び戻したらしい。

 「プリンスの1stアルバムに対する熱の入れようはすさまじく、オーバー・プロデュースと言ってもいいくらいだった。ボーカルなど、山のような本数のテイクを録ったからな」とZが当時の様子を語る。例えばタイトル・トラックの「フォー・ユー」など、ボーカルを46回もオーバーダブしたという。「バック・ボーカルを含め、ひたすらオーバーダブを繰り返しながらボーカル・パートを完成させていった。ある意味実験だったよ。そう俺たちは常に実験をしていたんだ」

「KISS」の原曲はマザラティに送ったストレートなコードのアコギ弾き語り

 デビュー・アルバム『フォー・ユー』をリリースすると、プリンスはそのプロモーション・ツアー向けにバンドを結成する必要に迫られた。

 「実はプリンスは、バンドをバックにライブをした経験がほとんどなかったんだ。だからメンバー選びは慎重に行われたよ。プリンスのあこがれであったスライ・ストーンやジミ・ヘンドリックスがいずれも黒人と白人から成るバンドを結成していたこともあり、プリンスも人種の垣根を超えたバンドを作ろうとしていた。黒人にせよ白人にせよ、当時はそうした人種混成バンドで活動するアーティストがあまりいなかったので、多様な人種のメンバーを起用するバンド作りは良いことだと俺も思った。プリンスの音楽はモータウンでもなければフィラデルフィア・ソウルでもなく、独自のスタイルを追求していたからメンバー全員を黒人で固める必然性もなかったわけだ。ちなみにサポート・バンドのドラマーとして起用されたのは俺の弟のボビー・Zでね。そのころのボビーはオウエン・ハズニーのところで雑用係をして生計を立てていたのだが、幾つかのバンドでドラムをたたいていたし、よく一緒にジャムったりもしていたよ。それでボビーのことを知ったプリンスは、ほかのメンバーをオーディションで選抜するのに先立ち、ベースのアンドレ・シモンとともに俺の弟をバンド・メンバーとして真っ先に迎え入れてくれたんだよ」

 その後しばらくZはプリンスのスタジオ・プロジェクトと疎遠になるが、1982年のプリンス通算5枚目となるアルバム『1999』からカットされたサード・シングル『デリリアス』のセッションに参加すると、翌1983年8月3日、ミネソタ・ダンス・シアターを支援するためにミネアポリスのナイトクラブ“ファースト・アヴェニュー”で開かれたチャリティ・コンサートでのプリンスのステージをライブ録音した。

 ちなみにこのときのコンサートでプリンスをサポートしたバンドが後に“ザ・レヴォリューション”と呼ばれるようになる。プリンスのサイド・プロジェクトのメンバーを中核としたバンドであり、ギタリストのウェンディ・メルヴォインはこのコンサートでデビューを飾った。

 1984年の映画『パープル・レイン』のサウンドトラック『パープル・レイン』を締めるラスト3曲、「ダイ・フォー・ユー」「ベイビー・アイム・ア・スター」「パープル・レイン」を含め、約70分に及ぶこの日のプリンスのステージの模様を収めた音源は、Zがニューヨークのレコード・プラントからレンタルした“ブラック・トラック”と呼ばれるモバイル・スタジオを使ってレコーディングされたものだった。

 さて、このコンサートで演奏された「パープル・レイン」だが、後に映画やアルバムで使われたものとは異なる点が幾つかある。例えばプリンスが弾いたギターは映画やツアーで使われている“クラウド・ギター”と呼ばれる変形ギターではなく、HOHNER製のTelecasterのコピー・モデルだった。また、コンサートでは演奏時間が13分20秒にも及んだが、アルバムに収録されたのは、これから約3分50秒のイントロ部のギター・ソロと、2番のサビおよび3番の平歌を丸ごとカットし、1番の平歌と1番のサビ、2番の平歌をそのまま残した8分41秒のバージョンだった。また、シングル・バージョンはこれをさらに短く4分5秒までカットしたものである。

 オーバーダブはストリングス・セクションとベース・サウンドの置き換えくらいで、残りはライブ音源がそのまま使われた。自身は参加しなかったものの、1983年8月から9月にかけてロサンゼルスのサンセット・サウンドで行われた「パープル・レイン」のオーバーダブ・セッションについてZが知っている範囲の情報を教えてくれた。

 「アルバムに使用されたプリンスのボーカルはライブ音源だ。ボーカルのエコーも俺が現場でかけたものがそのまま使われているよ。今聴いてもカッコ良いと思うね」

 1984年9月にリリースされた『パープル・レイン』は、アルバムから先にカットされた2枚のシングル『ビートに抱かれて』と『レッツ・ゴー・クレイジー』の大ヒット(いずれも全米ナンバーワン)による追い風もあり、アメリカとイギリスのチャートでともに最高2位まで上り詰めた。ちなみにプリンス初の全米チャート・ナンバーワンとなった「ビートに抱かれて」は、ベース・ラインが使われてないという点でダンス・ソングの常識を覆す画期的な曲でもあった。装飾を省いた押しの強いファンク・ナンバー「KISS」も、「ビートに抱かれて」と同じベース省略アプローチを踏襲しており、1986年2月にリリースされた後に全米チャート首位に輝いている。

 その当時の音楽を象徴していたのはサンプリング、シンセ・サウンド、ループ、リズム・マシン。それらを駆使したサウンド作りにそのころから精通していたZが振り返る。

 「昔からプリンスは自分のレコード・レーベルを設立したいと言っていた。ある日プリンスが俺のところに電話してきて“実は契約したてのバンドがあるんだが、どういう具合にプロデュースすれば良いか思案している。ちょっとロスまで来てくれないか?”とお願いされた。それでロスのサンセット・サウンドに行くとプリンスがいきなり俺に“マザラティというバンドなんだが、キミがプロデュースしてくれ”と言って連中を預けてきたんだ。結局、そのとき手掛けたマザラティのアルバムが俺の初プロデュース作となった。プロデューサーとしてのキャリアをスタートさせてくれたプリンスにはとても感謝しているんだが……」

 ザ・レヴォリューションのベーシストであるマーク・ブラウン(またの名をブラウン・マーク)を中心に結成されたマザラティはファンク/R&B系のバンドで、目ぼしいヒットはZがプロデュースし、プリンスが共作した「100 MPH」くらいしかない。しかしそれにもかかわらず、手中に収めかけた大ヒット曲をリリース寸前で逃したバンドということで一部から話題にされた。

 「マザラティのアルバムでは、たくさんの曲をレコーディングしたよ」とZが当時を振り返る。「ある日シングル用の曲が必要になった。それでプリンスにそのことを話すと、ストレートなコード進行の曲をアコギで弾き語りしたデモをくれたんだ。実はこれが後に「KISS」になるのだが、平歌とサビから成るシンプルな構成の曲だった。しかも吹き込まれていたボーカルが完成版のようなファルセットではなく、普通の音程で歌われていたこともあり、初めて耳にしたときはフォーク・ソングのように聴こえたよ。ファンキーさはどこにも感じられず、どう料理して良いのか戸惑ったほどでね……。そこで手始めにLINN Linn Drumでビートをプログラミングし、いろいろ試行錯誤してみた。その結果、ハイハット・サウンドだけをディレイ・ユニットに通してスイッチングしたところ、あのイカしたファンキーなリズムが得られたわけだ。そしてさらにアコギでオープン・コードを弾いてサンプリングし、サウンドをハイハットでトリガーしながらゲートをかけると、今まで聴いたこともないような独特のリズムが生まれ、信じられないほどファンキーな曲になった。人間の演奏による曲の再現がほとんど不可能になってしまうほどにね。それからボ・ディドリーの「セイ・マン」のピアノ・パートが曲に合うと感じたのでそのフレーズを使い、次にトニー・クリスチャンのリード・ボーカルを吹き込んだ。ちなみにこのときトニーが吹き込んだボーカルは、後でプリンスが歌ったのより1オクターブ低いラインだったよ。そしてリード・ボーカルを録り終えると、最後にブレンダ・リーの「スウィート・ナッシング」を参考にしながらバック・ボーカルを録った。優れた音楽には必ず先人の影響を受けた要素が含まれるものだ。このように作業は順調に進み、わずか1日で曲は完成したよ」

 少なくともZとマザラティのメンバーは曲がそれで完成したと確信していた。しかしマザラティによるこの「KISS」のオリジナル・バージョンは、確かに悪くはなかったし、ダンス・ナンバーとしてもそこそこの出来だったものの、トニー・クリスチャンのボーカルにやや物足りなさが感じられたという。魂が感じられず説得力に欠けていたらしい。結果を聴いたプリンスも同じ印象を受けようで、曲に新たな可能性を与えるべく、その晩1人で曲に手を加え始めた。

 「次の朝スタジオに行くと、トニーのボーカルを自分のファルセット・ボーカルで置き換えた上、ベース・パートを抜き、さらにジェイムス・ブラウンの「パパのニュー・ バッグ」のギター・リックを加えた新バージョンを夜のうちに作り終えたプリンスがいた。あの曲には自分のファルセット・ボーカルがどうしても必要だと感じたらしい」とZが当時を振り返る。「それで俺が“どういうつもりなんだ?”と聞くと、“この曲はあまりにも良過ぎてキミたちにはもったいないと思ってね。惜しいんで返してもらうことにした”と答えやがった」

 4オクターブの声域を持つプリンスは、この曲全体をほぼ頭声(高声域)で歌い通している。胸声(低声域)で歌っていたのは最後のフレーズと最後のコーラス前の1ノートくらいだ。

 「あのときプリンスがファルセット・ボーカルを吹き込むのに使ったマイクはSENNHEISER MD441だったと思う。この曲で使用したトラックの数はたった9本だった。確かバスドラとハイハットに1本ずつ、ほかのドラムに1本。ドラムだけで3本のトラックを使用したと記憶している。あの曲ではベース・パートを抜いた代わりとして、Reverse 2をセッティングしたAMS RMX16に通したバスドラ・サウンドを使用した。こうするとバスドラ・サウンドのリバーブ残響時間が長くなり、バスドラとベース2つのパートを兼ねるようになるからだ。ベース・ラインを省略したサウンドはプリンスのシグネチャー・サウンドでもあり、こうしたテクニックはほかの曲でも使用している。そんな具合だからプリンスのレコーディングにベースは必要なかったとも言える。また「KISS」の場合、バスドラ以外にリバーブは一切かけていない。ギター・サウンドもドライ・サウンドにゲートをかけたものだったし、当時のラジオで頻繁に流れていたリバーブ過剰のコーポレート・ロックとは明らかに異なるサウンドだった」

 マザラティの面々によるバック・ボーカルはそのまま使用されたが、自分たちのバージョンの「KISS」のヒットを確信していた彼らにしてみれば、バック・ボーカルとしてクレジットされるだけでは不満が募るばかりだった。<

 「マザラティのメンバーはかなり腹を立てていた」とZが続ける。「プリンスは連中に共同作曲者としてのクレジットを約束したが、その約束は結局果されなかったしね……」

 Zがマザラティのレコーディングを手掛けたのはNEVE 8088の備わったサンセット・サウンドのスタジオ2だったが、プリンスがオーバーダブを加えたのはAPI/DEMEDIOの備わったスタジオ3だった。

 「まるで工場だったよ。俺がスタジオ2でレコーディングしながらプリンスがスタジオ3でオーバーダブをするといった量産体制が日常的だったんだ。もちろんペイズリー・パークでもそうした仕事の仕方をしていたけどね」

▲デビュー当時はバンドをバックにライブをほとんどしたことがなかったというプリンスだが、後に“ザ・レヴォリューション”と呼ばれるバック・バンドとともに“プリンス&ザ・レヴォリューション”として活動を行った。ちなみに「KISS」が収録されたアルバム『パレード』が同名義最後の作品となった ▲デビュー当時はバンドをバックにライブをほとんどしたことがなかったというプリンスだが、後に“ザ・レヴォリューション”と呼ばれるバック・バンドとともに“プリンス&ザ・レヴォリューション”として活動を行った。ちなみに「KISS」が収録されたアルバム『パレード』が同名義最後の作品となった

プリンスの行動を注意深く見守り、条件反射的な仕事の仕方を求められた

 ミニマリズム的なアレンジが施された「KISS」のミキシングはごく短時間に終わり、Zによれば“俺とプリンスの2人でわずか5分ほどで仕上げた”らしい。一方、ファンキーなギター・リックを軸に、オルガン、ベース、新たに作詞した追加ボーカルといったパートを加え、より包括的なアレンジを施した12インチ・ミックスに関してZは全く関与していないという。この12インチ・ミックスはプリンスが監督と主演を務めた1986年の映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』で使用されたが、映画は多くの評論家に酷評され興業的にも失敗している。

 「12インチ・ミックスはプリンスが1人で手掛けたものだ」とZが説明する。「レコード会社から「KISS」のダンス・バージョンを作れと言われたためで、基本的には新しく作った8小節のセクションを2つほど追加する作業だったようだ。追加パートのレコーディングに関して言えば、プリンスは自分でエンジニアリングも手掛けていた。コンソールを自分で操作しながら歌ったり、楽器を演奏したり、タイミングよくパンチ・イン/アウトしたりとね。いずれにせよ、プリンスはとにかく仕事が早かった。まさに電光石火の早業って感じだ。1stアルバムを除き、プリンスはすべてのプロジェクトでそうした仕事の仕方をしていたよ。例えば、俺たちがドラム・キットをスタジオ内にセットし、ベース、ギター、キーボードをアンプにつなぐと、プリンスはスタジオ中を飛び回るようにして次々と楽器を演奏していった。俺たちはプリンスの作業ペースに付いていくのがやっとなんだが、プリンスは周りが自分に付いてくるのが当然といった顔で決してペースを緩めない。そしてプリンスのペースに付いて行けないスタッフがいようものなら大変なことになる。実際、現場でプリンスに厳しく叱責されたセカンド・エンジニアは1人や2人じゃなかったしね……。現場では要望に即座に応えられるよう、プリンスがそのとき何をしようとしているのか注意深く見守る必要があり、一瞬たりとも気を抜くことができなかった。プリンスがギターを手にしたらすかさず録音ボタンを押すとか、そういった条件反射的な仕事の仕方が求められた。ちなみに彼はリハーサルを全くしなかった。多分、自分の頭の中で1日24時間/1週間7日、休みなしに脳内リハーサルをしているからだと思う。だから1つの曲に着手すると、すべてのパートをレコーディングし、ミキシングを済ませるまでは決して次の曲に取りかからなかった。言い換えるなら曲に着手する時点でコンソールの基本セッティングを設定しさえすれば、それを途中で変更する必要はなかったんだ。プリンスの場合、レコーディング開始からミキシング終了まで約4時間で済むのが普通だった。また、その後に追加のオーバーダブやリミックスをすることもなかった。だから1日に2曲仕上げることもしばしばだった」

 「KISS」が収録されたアルバム『パレード』は、映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサウンドトラックであるとともに、プリンス&ザ・レヴォリューション名義による最後のアルバムでもある。実はこのころのプリンスは、イメージ・チェンジによる自己変革を強く意識していた。それまでの長いカーリー・ヘアー、ラッフルシャツ、紫の衣装といった出立ちから脱却し、短い黒のストレート・ヘア、よりスッキリしたファッションに身を包むようになったのもその現れの一つだ。「KISS」はそうした変化を遂げようとしていた当時のプリンスの内面がうまく反映された曲だったと考えられるが、レコード会社幹部の当初の反応は芳しくなかった。

 「当時ちまたで流行していた音楽とかなり毛色が違ったんで、あの曲を最初に聴いたとき、ワーナー・ブラザーズの重役たちはビビッてしまったんだ」とZが当時の様子を語る。「俺はプロデューサー、アレンジャー、その他さまざまな役割でクレジットされることになっていたのだが、そんな俺に対してさえワーナーのA&R担当は“おい、今度ばかりはプリンスもしくじったな。ひどい出来だぜアレ”と曲をボロクソにけなしていたほどだ。俺は驚くとともに、そいつが続けて言ったセリフを聞いて呆れ返ってしまった。“だってデモみたいじゃないか。リバーブはかかってないしベースも入ってない。最悪だ”とね。本当にショックを受けたし、がっかりもしたよ。もっとも当時のプリンスは絶大な力を持っていた。だからプリンスが“あのシングルはあれで出す。そしてあのシングルを出さない限り、次のシングルは作らない”と宣言すれば、レコード会社としてはその方針に従うしかなかった。そして結果はご存じの通り、プリンスは正しかった。正直な話、プリンスが「KISS」をレコーディングした当時、彼の人気は下り坂に差しかかっていた。全盛期を過ぎ、リスナーの多くも“プリンスももう終わりだな”と感じ始めていた。「KISS」はそうした中でリリースされたわけだが、それまでにない独特のサウンドで、プリンスのキャリアと人気に再び火をつけるヒットとなった。ワーナーの連中も「KISS」のヒットを目の当たりにし、それからしばらくは同じようなサウンドの方向性を持つアーティストの発掘に力を入れていたほどだ」

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 プリンス通算3枚目の全米ナンバーワン・シングルとなった「KISS」は、その後グラミーの最優秀R&Bボーカル・パフォーマンス賞を獲得する。そうした成功を受け、Zは曲をけなしたA&R担当に思う存分言い返して留飲を下げたのだろうか? 現在ナッシュビルに移り住み、ネヴィル・ブラザーズの最年少シリル・ネヴィルのプロデュースを最近手掛けたばかりというZは、そんなことはしなかったと話す。

「そのA&R担当とはその後も付き合いがあったが、「KISS」をけなされたことについてそいつを責めるようなことはしなかった。俺はそんな立場にいないし、俺がとやかく言うことじゃないと思ってね。まあ何にせよ食わず嫌いは駄目だと思う。プリンのうまいまずいは食べてみなけりゃ分からないからね」

ペイズリー・パークはサンセット・スタジオのディテールをまでを完全再現した

 ミネアポリス近郊のチャンハッセンにあるペイズリー・パーク・スタジオは、プリンスが総額1,000万ドルを投じ、1986年1月の着工から1年半以上の工期を経て1987年9月にオープンしたスタジオ・コンプレックスで、設計は建築家のブレット・ソーニーと音響エンジニアのマーシャル・ロングらが中心になって進められた。

 約5,110㎡の総床面積のスタジオ・コンプレックスは、1990年代初頭までにA、B、C、Dの4スタジオのほか、ビデオ編集ルーム、約1,161㎡の広さのサウンド・ステージ、リハーサル・ルーム、オフィス、楽屋などを持つまでになった。スタジオそれぞれの特徴としては、48chのコンソール、後に64chのSSL SL6000Eコンソールを備えた約140㎡の広さを持つスタジオAがメイン・スタジオとして位置付けられ、一方、約93㎡のスタジオBは、プリンスの言葉を借りれば、“ロサンゼルスのサンセット・サウンドのスタジオ3をそのままコピーしたスタジオ”である。残りのスタジオCとDはより小規模のサイズで、前者は36chのSOUNDCRAFT TS-24を、後者はDAWシステムをそれぞれの中核に据えている。

 「ペイズリー・パークのスタジオBは、サンセット・サウンドのスタジオ3と全く同じサイズ、同じコンソールを使用している」とデヴィッド・Zが話す。ちなみに同じコンソールとは、GMLムービング・フェーダー・オートメーション搭載のAPI/DEMEDIOの48chコンソールのことであり、2台のSTUDER A800 MKIIIとA820マルチトラック・レコーダー、WESTLAKE AUDIO SM-1を導入した5ウェイ・モニタリング・システムといった機材、設備も同じ物が備えられている。

▲1962年創業のサンセット・サウンドのスタジオ3。現在も当時のAPIのカスタム・コンソールが備えられており、プリンスの『パープル・レイン』、ザ・ウォールフラワーズ『ブリンギング・ダウン・ザ・ホース』、イエローカード『オーシャン・アベニュー』など数々の作品が輩出され、今なお多くのミュージシャンたちの支持を得ている(Photo:Octavio Arizala) ▲1962年創業のサンセット・サウンドのスタジオ3。現在も当時のAPIのカスタム・コンソールが備えられており、プリンスの『パープル・レイン』、ザ・ウォールフラワーズ『ブリンギング・ダウン・ザ・ホース』、イエローカード『オーシャン・アベニュー』など数々の作品が輩出され、今なお多くのミュージシャンたちの支持を得ている(Photo:Octavio Arizala)

 「俺たちはサンセット・サウンドのスタジオ3のコンソールにほれ込んでいた。フランク・デメディオが改造したカスタムAPIコンソールなんだが、あのスタジオで働いたことのある奴らは誰もが口をそろえて“あのコンソールだけは絶対に入れ替えるな”とスタジオの人間に頼んでいた。そうしたこともあり、API/DEMEDIOはいまだにスタジオ3の現役コンソールだ。また、スタジオ3のコントロール・ルームではエンジニアの椅子のすぐ後ろが壁になっていて、背中で振動を感じながらサウンドの良否を判断することができるのだが、ペイズリー・パークのスタジオBもそれに倣っているんだ。同じスタジオを別の場所に再現する試みは珍しくないが、正確に再現するには、例えば扉の向きなどにも気を配らなければならない。ペイズリー・パークのスタジオBはそうしたディテールにもこだわってサンセット・サウンドのスタジオ3を再現した部屋なんだが、プリンスがあまりにも力を入れたため、結果的にオリジナルより優れたスタジオになった気がする。とにかく最高に素晴らしいスタジオなんだ。ファイン・ヤング・カニバルズやビッグ・ヘッド・トッド&ザ・モンスターズのアルバムなど、俺があのスタジオで手掛けた仕事は今聴いても色あせないよ。スタジオBは俺専用のスタジオとして自由に使えたので、外部から依頼されたプロジェクトを含め、8年くらいはあそこを拠点に仕事をしていた。プリンスのスタジオでレコーディングしたいというアーティストは多かったからな。客が途絶えることはなかったよ」

sr7 (初出:サウンド&レコーディング・マガジン2013年7月号