【イーグルス・ギタリスト/グレン・フライ追悼】プロデューサーが語る「ホテル・カリフォルニア」

イーグルスのギタリスト、グレン・フライが18日、合併症のため67歳で他界した。デビュー曲であり、バンドの最初のヒット曲となった「テイク・イット・イージー」の作曲者で、ドン・ヘンリー(ds、vo)とのタッグでバンド内のメイン・ソングライターとして活躍した。サウンド&レコーディング・マガジンでは、フライへの追悼の意を込めて、本誌2013年11月号掲載のClassic Tracks「ホテル・カリフォルニア」をここに再掲載する。誰もが知るバンドの代表曲、実はフライのペンによるものではないが、記事中には彼の発言も随所に見られ、円熟期のイーグルスがどのように制作に向かっていたのかを伺い知れるだろう。

▼サウンド&レコーディング・マガジン2010年11月号 CLASSIC T.R.A.C.K.S Vol.79「ホテル・カリフォルニア」イーグルスより
Report:Richard Buskin Translation:Peter Kato
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 元いた場所へとつながる出口を求め逃げ惑う僕に、夜警はこう言った。“チェック・アウトされたいのであれば、どうぞご自由に。ですが、このホテルから抜け出すことは絶対に不可能です”……イーグルス「ホテル・カリフォルニア」の歌詞は、闇の世界に通じる高級ホテルとそこにとらわれた男を描く、奇妙な物語であるかのように思われる。しかしここには、1970年代半ばのロサンゼルスで多くのミュージシャンが送った退廃的かつ享楽的なライフ・スタイルへの戒めや、物質至上主義に陥ったアメリカ社会の風諭など、幾重にもわたる多義性が込められているのだ。この意味深長な歌詞がさまざまな憶測や話題を呼んだこともあり、本作は全米シングル・チャート首位、さらにはグラミー賞の最優秀レコード賞まで獲得。アルバムでのリリースが重視される“アルバム・オリエンテッド・ロック”や、台頭の兆しがあったパンクに代表される1970年代後期のトレンドが本作にとって不利であったにもかかわらず、厚い支持を手にしたのだ。今回は、本作がリリースされた背景を、当時のプロデューサーであるビル・シムジクの言葉からたどっていく。

eagles-p1 ▲アルバム『ホテル・カリフォルニア』リリース当時の写真。左からドン・ヘンリー(vo、ds)、ジョー・ウォルシュ(vo、g)、ランディー・マイズナー(vo、b)、グレン・フライ(vo、g、key)、ドン・フェルダー(g)

かつて3つのバージョンが存在した 「ホテル・カリフォルニア」

 「ホテル・カリフォルニア」で確立されたテーマは、同名タイトルが冠された彼らの代表作でもあ るマルチプラチナ級のアルバム『ホテル・カリフォルニア』にも息づいている。イーグルスのアルバムとしては商業的にも音楽的にも最も大きな成功を収めたこの作品は、バンドの音楽性がカント リー・ロックからメジャー・ロックへと大きく転換 した時期に制作された。この変化の一因として は、初期メンバーのバーニー・リードンに代わる ギタリストとして、それまでのソロ活動などで豊 かな経験を積んでいたジョー・ウォルシュが加入したことが考えられる。このような過渡期に生み出されたことが影響しているのか、曲自体もあの有名なアルバム収録バージョンに落ち着くまで、 幾度かの変遷をたどってきたのだという。

 「最初のバージョンは単なるリフだったんだ」

 こう語るのは、アルバム『ホテル・カリフォルニア』で見せたプロデュースとエンジニアリングの腕が評価された才人、ビル・シムジクだ。

 「しかし、作詞に着手したボーカル/ドラマー のドン・ヘンリーが録音したてのリフに合わせて書きかけの歌詞を口ずさんだとき、キーが合っていないことが判明したんだ。そこで、楽器のアレ ンジはほぼそのままに、キーのみ変更してレコーディングし直した。だが、この2番目のバージョン についてもヘンリーとボーカル/ギタリストのグレン・フライが歌詞を磨き上げ、曲としての発展を遂げる中で、テンポが速過ぎるなどの不満を感じるに至った。悩んだ揚げ句、テンポを変更するなどして3回目の録音に臨んだ。すると、これが3度目の正直ってやつなのか、誰もが納得する魅力的な曲が誕生したというわけさ」

昼夜問わず働いた時代を経てジェリー・ラゴヴォイに抜擢される

 ミシガン州マスキーゴン出身のシムジクは、プロデューサーとしては、やや変わった経歴を持っ ている。多くのプロデューサーがミュージシャンやエンジニアとしてそのキャリアをスタートさせ ているのに対し、彼は若い時分、並外れた聴覚が求められる潜水艦のソナー・オペレーターとして、アメリカ海軍に従軍していたのだ。

 「僕は昔から、いろいろなことをコツコツ勉強するタイプだった」と、語るシムジク。少年時代に 鉱石ラジオ・キットを組み立てたことが、R&Bやブルースに興味を持つきっかけとなったそうだ。 彼はこう続ける。

 「コミック雑誌の裏表紙に広告が載っていたんだ。“5ドルでラジオを自作できる”とね。それに感化されてキットを購入したのは良かったんだけれど、最初はどんなに頑張っても雑音しか聴こえなかった。しかし、アンテナとして機能する1本のリード線をいろいろ動かしていたある晩、偶然にもリード線がベッドのスプリングと接触したことでベッド全体が巨大なアンテナと化し、テネシー州ナッシュヴィルのWLAC放送を受信し始めたんだ。当時のWLACには、B.B.キングやジョン・リー・フッカー、ジミー・リード、そして初期ブルースなど、ミシガンに住む子供が普通に生活している分には全く触れる機会が無い音楽がかかっていた。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、ビル・ヘイリーなどのロックンロールはミシガンでも聴けたが、泥臭い本物のブルースを聴くのは初めての体験だったんだ……」

 1960年、海軍に入隊した17歳のころ、シムジクは聴力測定テストで上位5人に入る、極めて 優れた結果を残したという。そしてソナー・システムを使った索敵には、優れた音程感覚が必要との理由から、彼は上層部からソナー・オペレーターとしてのポテンシャルを認められ、主に旧ソ連の潜水艦をソナーで探知する訓練を受けさせられた。この間、シムジクはソナー・オペレーターとしての腕を磨くとともに、一般的には習得するのに4年間はかかる電子回路の知識を、わずか6カ月間で身に付けたという。

 「海軍在籍時代に学んだことが、音楽業界で働くための鍵になったんだ」と、シムジクは当時を振り返る。

 「海軍を退いたのは1964年2月で、実は大学に通うという選択肢もあった。メディア業界方面の学部生として、ニューヨーク大学のメディア・アーツ・スクールへの入学が許可されていたんだよ。しかし、学期開始の8月まで待つことができず、音楽業界にどっぷりつかり始めていたこともあって進学のチャンスを自ら蹴ったんだ。そして、レコーディング・スタジオでメインテナンス係の仕事をしながら、この業界に巣くうヒエラルキーの頂点を目指す道を選んだってわけさ」

 彼が退役した1964年2月といえば、ザ・ビートルズがアメリカに初上陸した時期と重なる。これは、デイヴ・クラーク・ファイヴやアニマルズ、マンフレッド・マン、ダスティ・スプリングフィールド、ペトゥラ・クラーク、ハーマンズ・ハーミッツ、ザ・トロッグス、そして、ザ・ローリング・ストーンズといった多くのイギリスのバンドがアメリカン・チャートを席巻する、ブリティッシュ・インベンジョンの開始を告げる出来事だった。

 「業界に入るタイミングとして、あれほどいい時期はなかったと思う。僕が初めて働いたスタジオは、ニューヨークの7番街729番地に建つビルの210号室にあったディック・チャールズ・レコーディングだったんだ。2台のモノラル・レコーダーが備えられ、主にソングライターがデモの録音をするために使うようなスタジオだったんだ。 ジェリー・ゴフィン、キャロル・キング、バリー・マン、シンシア・ワイルなど、いわゆるブリル・ビルデ ィング系のアーティストたちを抱えていた音楽出版のスクリーン・ジェムズ・ミュージックが最大のクライアントだった。僕が初めて立ち合ったセッションもゴフィン&キングのデモだったしね。あのときはゴフィンがコントロール・ルームでプロデュースする中、キングがピアノの弾き語りをレコーディングしていたよ」

 仕事をこなすうちに、シムジクのエンジニアリングにも独自のカラーが出てきたという。

 「このスタジオでは、昼にトム・ラッシュやフィル・オクスなどフォーク系シンガーたちのエンジニアリングを手掛ける一方、夜になるとヴァン・マッコイらR&B系アーティストのエンジニアリングを行っていた。数をこなすうちに、僕はR&B方面のエンジニアとして結構高い評価を得るようになってね。まだマーキュリーでスタッフ・プロデューサーを務めていたころのクインシー・ジョーンズの下で働いたこともあったし、ジェリー・ラゴヴォイの曲をレコーディングしたのもこのころだった。そうした経緯もあり、ラゴヴォイがヒット・ファクトリーを立ち上げたとき、そのスタジオ初のエンジニアとして僕が雇われたんだ」

転職先の低賃金と事業撤退災難続きでついに独立

 ヒット・ファクトリーに移ってから1年間ほど経ったころ、シムジクはABCレコーズからプロデューサーとして引き抜かれた。ただしこの転職は、キャリア的にはステップ・アップだったが、給与は大幅にダウンしたという。彼は当時のシリアスな状況について教えてくれた。

 「あろうことか1,200ドルほどだった週給が300ドル近くまで下がっちまったんだよ!! マンハッタンの高級住宅地、アッパー・イースト・サイドから、学生や外国人が住みたがるような家賃格安の地区、クイーンズへと家族で引っ越さなければならなかったほどの深刻さだったね……。僕にプロデューサーの仕事を仕込んだのはラゴヴォイで、ヒット・ファクトリーにいたころから状況に応じてプロデューサーの役割も担うようになっていたんだ。例えばプロデューサーがセッションを指揮/統御できなくなったとき、あるいはそもそもそういった能力を持っていないプロデューサーがなぜかアサインされてしまっていたときなど、彼らに代わって僕がセッションを仕切るケースも珍しくはなかった。しかしそのかいあって、プロデューサーの仕事もできるエンジニアという理由で僕を指名してくれるクライアントも当時は多かったんだ。“何かトラブルに直面しても、シムジクなら何とかしてくれる”といった感じでね。そうした中、僕は自然とプロデューサーになることを意識するようになった。だから、1968年にABCレコーズからプロデュース業のオファーがあったとき、その話にすぐに飛び付いてしまったんだな。もっとも、ABCレコーズはそのわずか2年後にニューヨークでの音楽レコード事業から撤退してしまうんだけれど……。その際、80名あまりいた従業員はほぼ全員解雇されてしまった。しかし、僕はクビを免れ、ロサンゼルスのABCダンヒルへと異動させられたんだ」

 B.B.キングが1969年にリリースしたアルバム『ライヴ・アンド・ウェル』と『コンプリートリー・ウ ェル』、また、後者に収録され、彼ら初のメジャー・ヒットとなったポップスとブルースのクロスオーバー・ソング「ザ・スリル・イズ・ゴーン」のプロデュースを手掛けるなど、シムジクが伝説のブルース・ギタリストに関与し始めたのはニューヨークのABCレコーズに在籍していたときだった。 ABCダンヒルに1971年2月まで在籍した後、シムジクは独立してデンバーへと拠点を移した。

 「ロサンゼルスを地震が襲ったんだ。あの地震で僕はベッドから床へと転げ落ち、そのままロサンゼルスからデンバーへと移る決心をした。僕がフリーランスのプロデューサーになったのは、地震が起ったあの日と言っても差し支えない」

eagles-p3 ▲2010年のビル・シムジク。一度はプロデューサーとしての仕事から身を引いたが、2001年以降現場に復帰した。

“イーグルスに眠るロック色を引き出す”そのために選ばれたプロデューサー

 フリーランスになってしばらくしたころ、シムジクはジョー・ウォルシュのソロ・アルバムをプロデ ュースするようになる。二人は、シムジクがABCレコーズと契約させた最初のバンドであるジェイムス・ギャングのプロデュースや、B.B.キングの『インディアノラ・ミシシッピ・シーズ』のセッションを通して既に顔なじみだった。1972年から1973年にかけて、『バーンストーム』と『ジョー・ウォルシュ・セカンド』が相次いで制作され、特に後者に収録されていた「ロッキー・マウンテン・ウェイ」はヒット作となる。これらウォルシュのソロ・アルバム・プロジェクトは、後にシムジクとイーグルスを結び付けるきっかけとなる。

 『ジョー・ウォルシュ・セカンド』は、イーグルスが彼らの3r dアルバム『オン・ザ・ボーダー』のレコーディングに入る少し前にリリースされた。当時のイーグルスは、デビュー・アルバムである『イーグルス・ファースト』や続く2ndアルバム『ならず者』で聴けるカントリー・ロック路線よりは、よりロック色の濃いサウンドを求めていたのだ。そのようなタイミングで、彼らはウォルシュのリリースした2枚のソロ・アルバムを耳にし、プロデュースを手掛けたシムジクを自分たちのプロデューサーに迎えることを思い立ったという。

 「アルバム『オン・ザ・ボーダー』のレコーディングに入ったとき、当時のプロデューサーであったグリン・ジョンズとバンドの関係はかなり悪化していたらしい」と、シムジクは言う。

 「ジョンズは彼らをボーカル・グループとしてとらえていたからね。それに対してバンドの中心メンバーであったグレン・フライやドン・ヘンリーは、よりロックンロール色の強い音楽を目指していた。そしてついに、こうした意見のズレからジョンズとイーグルスは、レコーディングの途中であったにもかかわらず決裂してまった。ジョンズと録った曲は「我が愛の至上」と「恋人みたいに泣かないで」以外すべて破棄されてしまったんだよ。そこで、アルバムに収録する残りの曲のプロデューサーとして僕が呼ばれたんだ」

 この出来事は、後のシムジクとイーグルスの運命を決定付けることとなる。

 「最初の打ち合わせのとき、“録音時、ドラムにはマイクを何本立てるのか”と、ヘンリーから尋ねられた。前任のジョンズはドラム用マイクをたったの3本しか用意しなかったそうなんだ。そこで僕は“8〜9本くらい”と答えて彼を安心させた。また、フライからギター・ソロの録音にどれくらいの時間を割くつもりかと聞かれたときは“満足できる結果が得られるまで”と言って納得させた。いずれにせよ、彼らがよりロック色の濃い音楽をやりたがっていたのは明らかだったので、なるべくリクエストに応えようとしたんだよ」

ロサンゼルスから遠く離れた地で着想人間の生き方に訴えるテーマ

 『オン・ザ・ボーダー』がリリースされた1974年、シムジクは次作『呪われた夜』のプロデュース/エンジニアリングを担当した。同作は1975年にリリースされ、前作以上の商業的成功を収めるに至った。そして1976年の3月、それまでのシングルを集めたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ1971-1975』が発売され、アルバムのセールスが破竹の勢いで伸びる中、その翌月にシムジクは『ホテル・カリフォルニア』の制作へ着手した。

 ロック色を前面に押し出したアルバム『ホテル・カリフォルニア』は、極上のミュージシャンシップを堪能できる作品でもある。ドン・フェルダーとジョー・ウォルシュの弾くパワフルなリード・ギター、グレン・フライがプレイするエレキギターや12弦アコースティック・ギター、キーボード、また、それらを一枚岩となって支えるドン・ヘンリーのドラムとランディー・マイズナーのベースなど、どれを取っても最高の演奏を体感することが可能だ。さらに、ヘンリーのバンドにおけるメイン・シンガー/作詞家としての地位もこのアルバムで確立された。

 「これはコンセプト・アルバムなんだ。それは隠しようの無い事実だよ。しかし、カウボーイなどが 登場する昔の西部をテーマにしたものじゃない」  『ホテル・カリフォルニア』のリリース直後、ドイツで発行されている雑誌のインタビューに対し て、ヘンリーはそう答えている。

 「今回のアルバムのテーマはもっとアーバンなものなんだ。今年はアメリカ建国200周年だろ?そして、イーグルスは200歳になった僕らの祖国を象徴する“ワシ”(イーグル)をバンド名としている。そこで、僕らとしても建国200周年にあたり、何らかの声明を出すべきだと考えたんだ。カリフォルニアをアメリカ、さらには世界の縮図としてとらえつつ、“これまでの200年間はきちんとやって来られたが、今後も生き残りたいと願うなら変化していく必要がある”と訴え、生存に対する人々の自覚をうながしたいと思ったんだ」

 『呪われた夜』の大成功があったことからも、次作への意気込みは相当のものであったはず。 シムジクはこう語る。

 「前作の『呪われた夜』と『ホテル・カリフォルニア』、どちらのアルバムもバンドが拠点としていたロサンゼルスのスタジオ、レコード・プラントと、僕が当時住んでいたマイアミのクライテリアといった二カ所のスタジオを併用して制作したんだ。いずれも、当時としては最高級の機材が備えられたスタジオだったが、現在の基準からすればかなりベーシックな構成で、UREI 1176、LA-3Aのほかはアウトボード機材のEQが何種類かあったくらいだった。ちなみに、レコード・プラントではAPIのコンソールが導入された“スタジオC”、クライテリアではMCIのコンソールを採用した通称“ビッグ・ルーム”と呼ばれていた部屋を使用した。クライテリアにあったMCIのコンソールは、そこにしかなかったカスタム・メイドの一品モノで、僕がリクエストした機材だったんだ。マイアミへの引っ越しを検討していた当初、現地のスタジオをチェックしたことがあったのだが、その一貫としてクライテリアにも赴いた。その際、スタジオに設置されていたMCIのコンソールが16chだったので、オーナーのマック・エマーマンにこう要求した。“もしMCIのコンソールを24chにアップグレードしてくれるなら、すぐにでもこのスタジオを予約する”とね。そうしたら、彼は僕のリクエストに応えてくれてね。だから僕もその約束を守った」

 セッションのためマイアミにあるクライテリアを訪れたイーグルスの面々は、ロサンゼルスから遠く離れた地で仕事ができることを非常に喜んでいる様子だったという。

 「マイアミならパーティや取り巻きに煩わされることなく、仕事に集中できるからね。『ホテル・カ リフォルニア』は完成までに9カ月間を費やしたが、その間、僕らはロサンゼルスとマイアミを行ったり来たりしていた。仕事の合間に定期的な休暇を取ったのは、バッキング・トラックを録った曲の歌詞を考える時間が必要だったからだ。イーグルスの場合、歌詞とトラックのすべてが出来上がった曲を、一度のセッションで録音して仕上げるといったケースはほとんど無かった。各人が持ち寄ったアイディアを全員で膨らませながら作るというのが彼らのスタイルで、実を言うと、作曲作業の大半はスタジオで行われていた」

スティーリー・ダンの方法論を導入断片化された都会のイメージで紡ぐ歌詞

 アルバムのオープニングを飾るタイトル・チューン「ホテル・カリフォルニア」の原曲は、ギタリストのフェルダーが自宅スタジオで使用していた4trテープ・レコーダーにデモ録音された12弦ギターのリフだったという。2005年にBBCラジオ2が放送したフライへのインタビューによれば、フライとヘンリーがそのデモを初めて耳にしたときの感想は“さまざまな音楽の影響が奇妙に混じり合った曲調”だったという。詳しく述べるならば、レゲエ・ビートの雰囲気も漂う、“スパニッシュ・レゲエ・ロック”といった趣の音楽だったとのことだ。そうしたこともあり、同曲の制作中には仮タイトルとして“メキシカン・レゲエ”なる曲名が付けられたのだという。

 「歌詞の大半はヘンリーとグレンの二人が書いた」と、フェルダーは2008年に放送されたラジオ・インタビューで明かしている。

 「ある晩、全員がカリフォルニア州の外から車に乗ってロサンゼルス入りしたことがあったんだ。夜中に外部の州からロサンゼルスに乗り入れると、すごく幻想的な風景を目の当たりにすることになるんだ。知っているかい? 水平線にはビルの光が徐々に浮かび上がり、きらめく景観はその先に存在する華やかな大都会のイメージを喚起させる。さらには自分が思い描く桃源郷までをも想像させ、さまざまなイリュージョンが頭の中を駆け巡り始める。あの曲はそうしたシチュエーションを歌ったものでもあるんだ」

 ちょうど同じころ、シムジクとイーグルスはスティーリー・ダンの音楽を気に入っており、彼らのレコードによく耳を傾けていた。彼らの音楽からはどのような影響を受けたのだろうか。

 「スティーリー・ダンのすごいところは、どんなことでも歌にしてしまうことと、歌詞に必ずしも意 味を伴わせていない点だと僕らは考えていた。断片的なフレーズをつなぎ合わせて、荒唐無稽(むけい)な歌詞を作っているんだけど、彼らが“ジャンク・スカルプチャー(ガラクタの彫刻)”と呼ぶ作詞方法に、僕らはとても魅了されていたんだ。僕らは「ホテル・カリフォルニア」のリリックを、シリーズもののテレビ番組『トワイライトゾーン』に登場するようなアーバンな映像が浮かんでくるものにしようと考えた。そこで“ハイウェイを運転する男” “遠くに見えるホテル” “ホテルの女” “ホテルに入る男”などといったイメージ・カットを想像しながらフレーズを作り、それらを並べて歌詞に仕立て上げたわけだ。もちろん、スティーリー・ダンしかり、イメージの断片を並べて作ったリリックなので、その意味についてはリスナー個人が自由に想像できる余地も残されているかと思う。自分たちの作詞能力の限界を広げようと、彼らの方法論にならって奇妙かつ難解な内容に挑戦した末に誕生したのが、「ホテル・カリフォルニア」の歌詞だったんだ」

 一方、1976年にリリースされたスティーリー・ダンのアルバム『幻想の摩天楼』に収録されている「裏切りの売女」に“Turn up The Eagles, the neighbors are listening(イーグルスの音量を上げろ。近所中が耳を傾けている)”というフレーズがあることからも分かるように、彼らもイーグルスに一目置いていたようだ。そしてその数カ月後、イーグルスは彼らに対するリスペクトの念を、「ホテル・カリフォルニア」の中の“They stab it with their steely knives but they just can't kill the beast”(幾つもの鋼鉄のナイフで突き刺すも、獣をどうしても仕留められない)という、“steely=鋼鉄”とバンド名を掛けた一節で表現した。

遮音板で囲った場所でのギター録音なくてはならないNEUMANN KM84

 3バージョンある「ホテル・カリフォルニア」のうち、最初の2つはロサンゼルスで、3番目のファイナル・バージョンは、ほかのアルバム収録曲と同様マイアミでレコーディングされた。いずれのバージョンも、バンド・メンバーが一堂に会してのスタジオ・ライブ演奏を録音したものだ。

 「ベースに関してはベーシストのマイズナーをAMPEGの小型アンプとともに遮音板で囲い、アンプとDI両方のサウンドを録った。一方、ヘンリーに対しては、できるだけオープンな場所でドラムをたたかせてやりたいと思い、ドラム・ブースを使用せず、キットはライブ・エリアにセットしたんだ。また、3人のギタリストには、アコースティック・ギターをブースの中、 エレクトリック・ギターを遮音板で囲った場所でそれぞれ演奏してもらったと覚えている。アコースティック・ギターのマイキングに関しては、曲のタイプやそのとき求められるサウンドによって使用マイクの種類やアプローチをさまざまに変えた。よく“あの曲のあのパートに使ったマイクは何だったの?”と聞かれるんだけれど、曲に合わせてマイクを頻繁に変更していたので、正直なところあまり正確には覚えていないんだ……。ひとつだけ確かなのは、アコースティック・ギターの録音には常にNEUMANN KM84のペアを使用していたということだ。KM84のペアを使うことは、アコースティック・ギターを録るのに絶対的にベストな選択であることが分かりきっていたので、変更しようがなかった。ギター・アンプに立てたマイクについては、やっぱりその時々に応じて違うものを選んでいたので、どれに何を使ったのか今となってはよく分からない。“これじゃイマイチだ。あっちのマイクを使ってみよう”といった感じで、臨機応変に対応していたからね」

 さらにシムジクは、ドラムのマイキングについても教えてくれた。

 「ドラムのレコーディングについて言えば、誰もが使うSHURE SM57をスネアに用いるのが基本だったね。キックにはAKG D88、そしてスネアにSENNHEISER MD441もしくはNEUMANN U87などをセットした。いずれにせよ、より良いサウンドを求めてさまざまなマイクを試していたので、マイクの種類やセッティングを変更することは珍しくなかったんだよ。さっきも言った通り、ドラム・キットには合計で8〜9本ほどマイクを使った。また、ボーカルの録音については、コンデンサー・マイクのNEUMANN U67やU87を使うことが非常に多かった」

eagles-p2 ▲『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』(2007年)制作時のイーグルスを写したもの。左から、1970年代後期に加入したティモシー・B・シュミット(vo、b)、ジョー・ウォルシュ、ドン・ヘンリー、グレン・フライ

テープ編集でベスト・テイクを絞り込むDAW級の高度なエディット

 『ホテル・カリフォルニア』には、シムジクのほか、彼のアシスタントだったアラン・ブレイゼックやブルース・ヘンザル、エド・マーシャルがエンジニアとしてクレジットされている。

 「僕の場合、エンジニアとして数多くの作品に自分の名前をクレジットしてもらっていたので、自分がプロデュースする作品については、貢献したスタッフの名前が確実にクレジットされるよう配慮した。当時のバンドの多くがそうであったように、イーグルスもバンドとして『ホテル・カリフォルニア』の制作に一丸となって取り組み、レコーディングには一発録りで臨むのが基本だった。あのころはまだライブ・レコーディングが主流だったしね。クリックに合わせてパートをひとつひとつ録りながら重ねていく、いわゆる“曲を構築する”といったアプローチは、まだ一般的ではなかった。もちろん僕らもギターやキーボードといったパートを後で差し換えたりしたが、基本的には膨大な本数のテイクの中から5〜6本のベスト・テイクを選び、それらを編集してひとつの曲にまとめるというアプローチを第一に考えていた。2インチ・テープのエディットについては、相当やり込んだよ。例えば「ホテル・カリフォルニア」に関して言うと2インチ・マスターに33カ所の編集を行ったと、今でもはっきり覚えている」

 いよいよ最後、3番目のバージョンになると、アレンジやテンポを含め、「ホテル・カリフォルニア」は彼らが描く理想に近いものとなったという。

 「複数のテイクをレコーディングし終えると、そのエディットを開始した。まずは平歌やサビといった、曲のセクションごとにベスト・テイクを選んだんだ。その際、録ったすべてのテイクの中からセクションごとにベストの5本を選んでマスター・テープにまとめ、さらにその5パターンを聴き比べてベスト・テイクを1本選ぶという、僕の定番手順を踏んだ。イントロならベスト5本のイントロを比較して最良の1本を選び、Aメロならベスト5本のAメロを聴き比べて一番良いものを1本を選ぶという具合にね。そして最後に選定したベスト・テイクが収録されたテープを実際に切ったり張ったりして1本にするわけだ。テイクのセレクト作業にはバンド・メンバーにも立ち合ってもらい彼らの意見を反映させたが、作業が完了すると、メンバーには外にビリヤードでもしに行ってもらい、テープを切り張りするエディット作業は僕ひとりでやった」

 シムジクはテープのエディット作業について、エピソードも交えつつ、より詳しく教えてくれた。

 「あのアルバムを制作していた当時、イーグルスはバンドとしての円熟期を迎えていたこともあり、作品の仕上がりについて完ぺきさを求めるようになっていた。だからエディットに対する要求もかなり高度なものが多くてね……。“僕たちこんな風にしたいんだけどさ、ちょっとやってみてくれない? 先生”などと、僕のことをニック・ネームで呼びながら、例えばドラム・フィルだけの差し替えを要求したりと、細かく、複雑なリクエストを幾つも提示してきたんだ。結果的には、曲の最初から最後までエディットだらけといった具合になってね……。今ならPro Toolsを使って追求するようなレベルの完ぺきさを、手作業のテープ・エディットに求められたというわけなんだ」

 入念な編集作業が同作で聴ける完成度の高さを生み出したということは言うまでもないが、そういった微細な作業が必ずしも効を奏するとは限らないとシムジクは語る。彼のエディットに対するスタンスを聞くことができた。

 「微に入り細に入りエディットしていると、それにとらわれて全体を見失いやすくなるものなんだ。このことを回避するため、僕は曲に対する客観性を常に保つことにしている。そもそも僕は、レコーディング時にはクリエイターとして必要な創造性をフルに発揮して仕事をするものの、その後の編集作業ではクリエイターからエディターへと意識を切り替えて、客観性を重視した仕事をするのが普通なんだよ。つまりエディット時には 余計なことは考えず、事前に決めた必要な作業だけを淡々とこなすのみなのさ。だから、どれだけ細かな作業をしようと曲の方向性が大きくブレてしまうことはあり得ないんだ」

リード・ギターのオーバー・ダビングとテープ・マシンで作るフェイジング音

 「ホテル・カリフォルニア」の最後を締めくくるフェルダーとウォルシュのツイン・リード・ギターによるオーバーダビング・セッションに関しては、再び“クリエイター・モード”に戻って録音していったそうだ。シムジクはそのセッションが生んだサウンドについて教えてくれた。

 「これはプロデューサーとして最も驚いたセッションのひとつだった。ヘンリーとウォルシュと僕の三人でコントロール・ルームに入り、スタジオに置いたアンプのサウンドをモニターしながら録ったんだ。僕の両脇に座った二人は事前の打ち合わせもそこそこに、驚異的なリード・ギター・パートを即興で次々とパンチ・インしていった。二人はそのとき思い付いたアイディアを手当たり 次第に試し、駄目ならすぐに別のやり方を模索した。僕らはこうした即興的な試行錯誤を繰り返すアプローチを“サーチ&デストロイ(探究と破壊)”と呼んでいた。このオーバーダビング・セッションは何と2日間も続いたんだ。滅多に味わえないこの上なく楽しい時間だったな。二人とも最高の演奏を残そうと燃えていた」

 このツイン・リード・ギターのパートと同じくらい気に入ってるセクションとして、シムジクはアルバム収録曲「駆け足の人生」のアウトロ直前に登場するフェイジング・サウンドを挙げている。

 「あのフェイジング処理は、今は亡きプロデューサーで僕の友人でもあるゲイリー・ケルグレンが教えてくれたテクニックなんだ。ケルグレンは僕と同じくディック・チャールズ・レコーディングでキャリアをスタートさせたプロデューサー/エンジニアで、ニューヨークにあるレコード・プラントを立ち上げた人物のひとりでもある。彼がそのレコーディングを手伝ったジミ・ヘンドリックスの『エレクトリック・レディランド』に、似たようなフェイジング・サウンドが収録されていたんだ。それを耳にした僕は一発で気に入り、自分がレコーディングしていたバンドの曲にもそういったサウンドを導入できればと考えた。しかしやり方がよく分からなかったので、本人に教えてもらおうと思い、ケルグレンのところへと出向いたんだ。すると、それは複数のテープ・マシンを使って、サウンドを干渉させながら作られたものだということが分かったんだよ。僕が「駆け足の人生」での使用を提案すると、ヘンリーもフライも“このフェイジング・サウンドは僕らの音楽にマッチするのかな? スモール・フェイセスの「イチクー・パーク」みたいになってしまいそうだよ”と、最初はその効果に懐疑的だった。しかし“それが狙いなんだ!”と言いながら僕が半ば強引にやってみせると、“あれ? 結構かっこいいじゃん、先生!”と考えを変えてくれたんだ。そしてそれはアルバムに残り、僕はとても満足している」

一度はリタイアするも復帰 2007年のイーグルス復活作にも貢献

 その後、クライテリアでミックスされたアルバム『ホテル・カリフォルニア』は、1976年12月にリリースされ、8週間、ビルボード200の首位に君臨し、アメリカだけで1,600万枚ほどの好セールスを記録した。続くシングル『ホテル・カリフォルニア』もリリース後3カ月で100万枚のセールスを突破、1977年5月にはビルボード・ホット100のトップに輝いた。シムジクは当時をこう振り返る。

 「当時、イーグルスはフリートウッド・マックといいライバル関係にあった。どちらもロサンゼルスを拠点とするバンドだったし、メンバー同士の交流もあったんだ。当時のシーンをお互いに切磋琢磨(せっさたくま)しながら引っ張っていくのは気分の良いことだった。だが、それと同時にヒット曲を作り続けなければならないというプレッシャーも感じていたよ」

 シムジクはその後、MCIのコンソールを据えた自身のスタジオをマイアミに立ち上げ、そこでイーグルスの6枚目のスタジオ・アルバム『ロング・ラン』のレコーディングを手掛けた。さらにそれからもボブ・シーガー、サンタナ、ザ・フーなど、さまざまなアーティストたちのプロデュースを数多くこなすが、シーン自体のシンセサイザー偏重傾向が強まるにつれて、レコーディングへの興味を失い、1990年に引退を決意するに至った。

 引退後は家族と過ごすことを第一に考えてノースキャロライナ州に居を移すも、イーグルスが、リリースした復活アルバム『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』を共同プロデュースする形で、2007年にシーンに復帰。当時の仕事について、彼は少しさみしそうに語った。

 「彼らと久しぶりに仕事をしたわけだが、やはり昔とは違った。みんな歳を取ったし、金持ちにもなっていて、ある意味賢くなってもいた。また、ほとんどのメンバーが結婚して子供を持っているので、妙に大人な振る舞いをするようになっていたんだ。かつてのロック・バンドも、立場や責任を自覚する一人前の社会人になっちまったということだ。作業も昔のように昼の2時ごろに集まって深夜の2時とか3時まで続けるといった無茶なやり方ではなく、朝の10時ごろから夕方までといった、普通のサラリーマンが働く時間帯に行うことがほとんどだった。家庭の事情を優先させて、夕方の4時にスタジオを後にする者もいたくらいだったよ……。1970年代とは仕事のやり方が180度、逆転した感じだったね」

B.B.キングのセッションから体得された、ジム・シムジクのプロデュース手腕

 アーティストの才能をフルに引き出すことでその音楽的限界を広げるだけではなく、時にサウンドそのものさえも変えてしまうビル・シムジクのプロデュース手腕。それは、プロデューサーになってからまだ間もないころ、伝説のブルース・マンとして知られるB.B.キングのセッションを通して身に付けられたものらしい。

 「基本的には、サポート・ミュージシャンのキャスティングを重視するというのが僕の考え方だった」と、シムジクは語る。  「アルバム『ライヴ・アンド・ウェル』のレコーディングでB.B.キングと初めて顔を合わせたときに、そういった自分の考えを彼に告げたんだ。するとB.B.は興味深そうな表情をしながらも、どこか半信半疑な様子でこう提案してきた。“それじゃ半々ってことで、半分を俺のやり方、半分を君のやり方でやろう”と。そこで、彼のツアー・バンドとともにマンハッタンのグリニッチ・ヴィレッジで行われたコンサートを録音したものをライブ・セクション、僕がキャスティングしたよりロック色の濃い若手ミュージシャンたちとのレコーディングをウェル・セクションとし、2部構成のアルバムを制作した」

 そのときにシムジクはあることを確信した。

 「あの時、僕がB.B.に引き合わせたミュージシャンは、ジェリー・ラゴヴォイなどといったプロデューサーとの仕事を通して知り合ったR&B系の黒人ドラマーとベーシスト、そしてロック畑出身の白人ギタリストとキーボーディストだった。B.Bと彼らの組み合わせはとてもうまくいったんだよ! B.B.最大のヒットとなる「スリル・イズ・ゴーン」は、この4人とB.B.のコンビネーションによって生まれた曲でもある。アーティストの新たな可能性を切り開くと、それ相応の成果が得られると学んだのは、まさにあの機会を通してだった」

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(初出:サウンド&レコーディング・マガジン2010年11月号