再発記念!「RELAX/フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」スティーヴ・リプソンがその制作過程を語る

1980年イギリスのリバプールで結成され、その破格なイメージとスキャンダラスな歌詞の内容で、1987年活動を休止するまで話題の絶えなかった5人組シンセ・ポップ・バンド、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド。デビュー以前からもBBCラジオの"ジョン・ピール・セッション"やチャンネル4の音楽番組"ザ・チューブ"などへ出演し知名度を広げていた彼らだが、1983年にリリースしたデビュー・シングル『リラックス』がBBCの放送禁止処分にもかかわらずイギリス・チャート1位を獲得し、3作連続でチャートの頂点に立つ人気を博した。そんな成功の裏には、数多くのヒットを量産したプロデュ ーサー、トレヴァー・ホーンの存在がある。彼との作業でフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの曲はヒット曲として生まれ変わっていったのだ。本作からトレヴァー・ホーンのエンジニアを務め、1990年代からは自身もプロデューサーとして成功するスティーヴ・リプソンにその制作過程について聞く。

[この記事は、サウンド&レコーディングマガジン2008年4月号のものです]


Text:Richard Buskin Translation:Peter Kato


SONG INFORMATION
Track     > RELAX
Artist     > FRANKIE GOES TO HOLLYWOOD
Released     > 1983
Producer     > TREVOR HORN
Engineer     > STEVE LIPSON, JULIAN MENDELSOHN
Studio     > SARM WEST
Label     > ZTT


世間を賑わせ続け常に騒動の中心にいたバンド


1983年に発表されたフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのデビュー・シングル『リラックス』の歌詞の露骨な表現は、BBCのラジオやテレビがこの曲を放送禁止処分とするのに十分であった。しかしその一方、ホモセクシュアリティが重要なテーマの1つとして注目されていた1980年代半ばのブリティッシュ・ポップ・シーンにおいて、この歌詞こそが「リラックス」を時代の賛歌へと押し上げる要因の1つになったことも事実だろう。しかしそうしたBBCの弾圧にもめげず、曲をリリースしたZTTレーベルでは大規模なマーケティング・キャンペーンを展開、レコードやビデオの放送禁止処分とともに世間を大いに賑わせる話題を提供し続けた。


フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは常に騒動の中心にいたバンドだった。しかし単なるお騒がせ集団というわけでもなかった。スキャンダルばかりが注目されがちだが、彼らがその短い活動期間を通してシーンに残した音楽的な影響は計り知れないものがあったのである。それもそのはず、彼らの音楽スタイルであるHi-NRG(ハイエナジー)系のダンス・シンセ・ポップは、至高のプロデューサーと呼ばれるトレヴァー・ホーンが作り上げたものだったからだ。その派手で、バブリーな音楽スタイルは、サウンドの新たな次元を開拓しただけでなく、いわゆる80'sサウンドのおいしいところを余すところなく凝縮して詰め込んだものだったと言える。ホーンは、ジェフ・ダウンズと共に結成したザ・バグルスで1979年に『ラジオ・スターの悲劇』を発表、その大ヒットで一躍有名になったアーティスト/プロデューサーである。ダウンズとともに作曲、プロデュース、演奏をしながら自らのスタジオ・スキルを磨き上げたホーンは、1980年半ば、ジョン・アンダーソンとリック・ウェイクマンの2人が脱退したプログレッシヴ・ロックの大御所イエスに、ダウンズとともに後釜として加入する。しかし加入から半年ほどたった1981年初頭には早くも1人でイエスを脱退。以後はプロデューサーへと転身し、ダラーやABCといったポップ・グループの曲をチャートに送り込むと、さらにはマルコム・マクラーレンやアン・ダッドリーらと作曲した曲をいくつもヒットさせるようになる。さらに1982年になると、ホーンは妻のジル・シンクレアと共同でクリス・ブラックウェルのベーシング・ストリート・スタジオを買い取り、サーム・ウエストと改名。そこを拠点に音楽出版社のパーフェクト・ソングスを設立する同時に、NME誌記者のポール・モーレイとプロデューサー/エンジニアのゲリー・ランガンらとともにZTTレーベルを立ち上げるなど、その活動領域を次々と広げていった。


ZTTレーベルがフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドと契約を交したのは、1983年5月のこと。レーベル向けのアーティストを探していたホーンが、チャンネル4の「ザ・チューブ」という番組で「リラックス」を演奏していた彼らを観て気に入ったのがそもそものきっかけだったという。


1980年に結成されたフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは結成からしばらくは頻繁にメンバー・チェンジを繰り返していた。しかし1982年10月にBBCラジオ1の「ジョン・ピール・セッション」向けにオリジナル曲をレコーディングすると、そのセッションに参加したフロントマンのホリー・ジョンソン、ボーカル/キーボードのポール・ラザフォード、ギターのブライアン・ナッシュ、ベースのマーク・オトゥール、ドラムスのピーター・ギルでメンバーは固定され、そこからバンドとしての躍進が始まる。


前述の「ザ・チューブ」からオファーを受け、リバプール・ステート・ボールルームで「リラックス」を演奏したのは、その翌年の1983年2月のことだった。また、その年には「BBCラジオ・セッション」という番組で「リラックス」「WELCOME TO THE PLEASUREDOME」などの曲も披露している。こうしたメディアへの露出が、彼らの存在をホーンの目に留めさせる要因になったのだ。バンドと契約を交したときから、ホーンは彼らのファースト・シングルを「リラックス」にする予定だったという。ただし、当初はイアン・デューリーのバックバンド、ザ・ブロックヘッズとともに録音に臨んだというが、この試みは失敗に終わる。


「僕が最初に聴かされたのは、この曲の初期バージョンだった。最終バージョンよりずっとファンキーな感じだった」と本作でホーンと初めてタックを組み、その下でエンジニアリングを手掛けたスティーヴ・リプソンが言う。


「彼のすごいところは、オリジナルの方向性を全く違う方向へと変え、完全に異なる作品にしてしまうところだ。とにかくトレヴァーは、彼らが売れるよう全力を傾けて仕事をしていた。彼らはZTTが契約した初のアーティストでもあったし、絶対ヒットさせるって意気込みだった」


何もやっていないように見えるのが実は優秀なエンジニア


リプソンは、アニー・レノックス、グレース・ジョーンズ、ポール・マッカートニーから、シンプル・マインズ、ザ・ペット・ショップ・ボーイズ、ザ・バックストリート・ボーイズまで、実に幅広いタイプのアーティストの作品を手掛けてきたプロデューサー/エンジニアである。


当初はギタリスト/ソングライターとして地元ロンドンのバンドを渡り歩いていたが、"契約まであと少しのところでいつもおじゃんになる"ことを繰り返した末にプロデュース/エンジニアリング方面の仕事に目を向け始めたという。それが1975年のこと。ジングルなどの制作をやっていたダンカン・ブルースという友人に、自分がエンジニアに転向したいこと、そしてそのためにレコーディングのノウハウを学びたい旨の相談をしたという。さらに、ブルースがちょうどビルを購入したばかりだったことを知ると、そのビルの中にスタジオを作らないかと提案した。ブルースはこの提案を受け入れ、リプソンはそれからわずか1年ほどでリージェンツ・パーク・レコーディング・カンパニーを設立する。


「あのころは自分が何をやっていたのか、自分でも全く分かっていなかった」と当時の自分の様子をリプソンはそう告白する。


「本を何冊か読み、何人かの業界関係者に話を聞き、15,000ポンドで機材を買い込み、改装工事をいくらかやると、そのまま商売を始めたって感じだった。まあ、改装と言っても、音響的にはほとんど何も施してはいなかったのだがね。とにかくバンドをスタジオに入れ、乏しい知識を総動員し、分からない部分は基本的に想像力で補いながら自分なりに仕事を進めていった。しかしそんな調子でオープンしたにもかかわらず、スタジオは順調なスタートを切った。そんなある日、スティッフ・レコーズのデイヴ・ロビンソンがインガ・ランフなるドイツ人シンガーのアルバムをエンジニアリングしてほしいと依頼してきた。"エンジニアを一緒に送り込むから、軌道に乗るまでそいつの指示に従うように"と言いながらね。余計なお世話だと内心ムカついたが、クライアントの要求に僕がどうすることもできない。そしてそのとき一緒に来たエンジニアというのが、アイランド・レコーズの所有するベーシング・ストリート・スタジオでハウス・エンジニアをしていたフィル・ブラウンだった。フィルは本当に素晴らしいエンジニアで、結果的にこのプロジェクトは僕にとってはものすごくいい勉強になった。フィルがリージェンツ・パークにいたのはわずか2日ほどだったが、その間に見せてもらったエンジニアリングの手腕に僕は圧倒されっ放しだったんだ。フィルがエンジニアリングを手掛けると、バンドのサウンドがなぜか著しく向上するしね。"サウンドが素晴らしいのはミュージシャンの腕がいいのであって、自分のエンジニアリングとは一切関係ない"などとフィルは謙そんしていたが、ピアノの転回の仕方を変えさせたり、異なるギター・アンプを試させたり、スネアのチューニングを変えてみたり、目立たぬながら、自分の仕事をしっかりやっていた。フィルの仕事の仕方を見て学んだことは、ある意味、エンジニアがエンジニアリングという仕事をしなければしないほど、サウンドは良くなるという事実だ。周囲から何もやっていないように見えるのが、実は優秀なエンジニアなのだと、そう考えるようになった」


そうしたフィルの姿勢にほれ込んだ彼は、エンジニアリングという仕事により本格的に取り組むようになったという。


リージェンツ・パーク・レコーディング・カンパニーは繁盛し、リプソンは実践を通してエンジニアリング・スキルを磨くなど、リプソンとスタジオは極めて良好な関係を保っていた。しかしそうした良好な関係も崩れてしまう。あるバンドがフランスでのレコーディングをリクエストしたため、スタジオ・オーナーのブルースがエンジニアリング料の80%を自分に支払うようリプソンに要求してきたからだ。この法外な要求に憤慨したリプソンはブルースと決別し、フリーのエンジニアとして独立。依頼さえあればどこのスタジオにでも出向くようになった。1978年のことである。


フリーになってからのリプソンは当初、特にサリー地方のリッジ・ファームや前述のスーパーベアに出向いてエンジニアリングを手掛けることが多くなる。そんなある日、リプソンはトレヴァー・ホーンのエンジニアを数日間務めてみないかというオファーを受ける。そのプロジェクトは、SSL S
L4000Eシリーズのコンソールと2台のSTUDER A80テープ・マシンが中核を成すサーム・ウエストで行われるとのことだった。


「トレヴァー・ホーンが何者なのかは知っていた」とリプソンは言う。
「しかし有名人だろうが何だろうが、エンジニアリングの仕事は引き受けたくなかった。当時の僕は一流プロデューサーを目指してプロデュースの仕事ばかりしていたので、エンジニアリングの仕事を引き受けるのはキャリア的に後戻りみたいな感じがしてね。そのような考えで参加したんで、当然、現場でも"僕、部外者ですから"といった態度で自分の仕事だけをしていたのだが、そうしたクールな態度が逆にトレヴァーの僕に対する印象を良くしたらしい。それで約束の2日が過ぎると、特にどちらかがそう言い出したわけでもないのだが、自然とそのままプロジェクトを続けることになった」


オリジナル・バージョンとはかなりかけ離れた最終バージョン


リプソンがプロジェクトに参加する以前にも、ホーンは「リラックス」をフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドとザ・ブロックヘッズを使ってレコーディングしており、また、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの面々だけでもレコーディングしていた。しかしいずれでも満足できる結果が得られなかったため、曲に新鮮な活力を与えることを考え、リプソンをエンジニアとして起用するのと同時に、キーボード・プレイヤーのアンディ・リチャーズ、FAIRLIGHTのプログラマー、J.J.ジェクザリックらをプロジェクトに招集した。新たに招集された面子による「リラックス」のテコ入れ作業は、まずは3週間ほどかけて行われたらしい。


「ちなみにその段階の「リラックス」は、同一の曲と認められる程度の類似性はあったものの、最終バージョンとはかなりかけ離れた代物だった。もちろん、オリジナルともかなり違っていた。バンドが作ったオリジナル・バージョンのエッセンスを大切にしながらも、それにザ・ブロックヘッズの面々が試みたアイディアを加え、さらにFAI
RLIGHTサウンドを重ねて仕上げようというのがトレヴァーの狙いだった」


ホーンがオリジナルに加えようとした要素とは、例えばザ・ブロックヘッズのノーマン・ワットロイが録音したベースのフックとか、ホーンがその数年前、セッション・ミュージシャンのマーク・カニンガムと共にバッテリー・スタジオのFAIRLI
GHT CMIを使ってサンプリングしたベース・パルスなどのことである。いずれにせよ、ホーンは秘密兵器を隠し持っていた。


「それで3週間ほど「リラックス」のテコ入れ作業をやり続けたのだが、ある晩、夕食後にトレヴァーがこう宣言した。"よし、再スタートしよう"とね」とリプトンが続ける。


「最初は何を言っているのかよく分からなかった。レコードってのは、レコーディングをスタートしてフィニッシュしたら出来上がるものだと思っていたのでね。"再スタート"という概念はなく、そうしたコンセプト自体が僕にはとても新鮮に思えた。しかしトレヴァーは当然といった顔つきで、"LINN LinnDrumで作った素材で使ってみたいものがいくつかある。いつか使ってみようと昔から考えていたんだが、それを今回ちょっといじってみたい"と僕に言うだけだった。トレヴァーは3つのパターンを用意していて、それらを使ってライブ演奏を録りたいと言い出した。そして僕らに"ベースはプログラミングするが、オマエにはギター、アンディにはキーボードを弾いてもらう。それからJ.J.はFAIRLIGHTを担当してくれ。FA
IRLIGHTには使えそうな素材がたんまり入っているんで、それを総動員して使ってくれ"と指示した。そしてその指示通りにセッションが開始され、トレヴァーが鳴らすリズムに合わせて僕らがそれぞれのパートを弾いてレコーディングした。記憶は確かじゃないが、多分、すべてはワン・テイクで録り終えたと思う。ドラム・パターンにぴったりのベースがプログラミングがされると、"それだ。素晴らしい。それじゃ行くぜ"ってな感じでね。いずれにせよ、鍵を握っていたのはリズム・トラックだった。とにかく、それまで存在していなかったリズムが突然出現したんだからびっくりさせられたよ。いずれのパターンも、多分、トレヴァーがその場で一からプログラミングしたものだったと思う」


それでその3つのドラム・パターンに合わせ、リプソンがギター演奏、J.J.が奇妙なサウンドやノイズ、アンディがコード弾き、トレヴァーがプリセットの操作をしながら、録音していった。


「それが終わると、その晩、早速ホリーをスタジオに呼び、スタジオ1のど真ん中にマイクをセットしてセクションごとに歌を吹き込んでもらった」とリプソンが続ける。
「ホリーのボーカルを何テイク録ったのかはよく覚えていないが、かなり速いペースで作業が進んだことは確かだ。「リラックス」に使用されているさまざまな効果音は、その後オーバーダブされたものだ。例えば放尿音らしき音はアンディがROLAND Jupiter-8で出したものだし、爆発音にしてもそうだ。アンディはROLAND MC-4も持っていて、それでJupiter-8を鳴らしたりとシーケンシングもよくやっていた。ついでに言えば、僕もROLAND GR-300というギター・シンセを使って効果音を加えている。ちなみに僕が使っていたGR-300は、ROLANDが2番目に生産した製品だったと記憶している。オーバーダビングでは、ポール・ルザフォードもバック・ボーカルなどで活躍してくれた。奇妙なノイズやサウンドは、専らJ.J.がプログラミングしたものだ」


一方、ホーンは当初、リプソンのミキシング手腕をよく知らず、"スティーヴはミックスできない"といった態度を採っていたという。


「この曲のミックスには僕も多少は関与した」リプソンは言う。
「しかし一緒に仕事をし始めてそれほど時間がたっていなかったこともあり、トレヴァーはまだ僕に全幅の信頼を寄せてはいなかった。それで最終的なミックスはジュリアン・メンデルソンに任せたんだ。誰も考えないような発想でタムの音量を大幅に上げ、ミックス全体にコンプをかけるなど、サウンドはとても素晴らしい仕上がりになったが。もっとも、僕とトレヴァーが組んで録音した曲で僕がミックスを手掛けなかったのは「リラックス」「TWO TRIBES」「WAR」の3曲だけだ。ちなみにその3曲のミキシングをさせてもらえなかったことについて、僕はそれほど気にしていなかった。トレヴァーは単に僕のミキシング・スキルを計り損ねていただけだったし、それが気まずさの原因になるようなこともなかった。あのときはアルバムの録音にも忙しかったからね」


彼らの成功や一連の騒動は信じられないほどすさまじいものだった


ジョンソン以外のメンバーが曲作りに参加していないこと、また、人気絶頂だった1984年にツアーに出なかったことなどから、当時、「フランキーは演奏できない」なる噂が世間に広がった。ただし「リラックス」は、1983年10月のリリース当時それほどの大ヒットになるとは目されていなかった。リリース後の2か月ほどは全英トップ50の下位当りをウロウロしているばかりで、年が明けた1984年になってもようやく35位まで上昇する程度だった。状況が一変したのは、バンドが1月5日にBBCの人気テレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演してからだった。それからわずか1週間ほどで「リラックス」はBBCチャートの6位まで急上昇し、さらに"BBCによる放送禁止処分"というレコード・セールスの飛躍的な増加を保証する"お墨付き"をもらったため、同曲はその後すぐさまチャート・トップの座に輝くになり、その後5週連続でトップの座を守り通した。結局、この放送禁止処分で最も割を食ったのは前述の「トップ・オブ・ザ・ポップス」だったと思われる。ナンバー・ワン曲が放送禁止となったため、スタジオに呼んで演奏させることができるのは彼ら以外のアーティストだけとなり、番組のクライマックスとなるナンバー・ワン曲紹介のときにも、メンバーの写真を映すことしかできず、番組としての締まりがないことおびただしかった。


BBCの放送禁止処分にもかかわらず、ほかの民放ラジオはお構いなしに「リラックス」を流し続けていた。また、毎年年末に放送される「トップ・オブ・ザ・ポップス」のクリスマス・スペシャルでこの曲を取り上げなければならないことはほぼ確実と見られていたため、この放送禁止処分でBBCは大いに恥をかき、自分のメンツを自らつぶしたような形となった。


「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの成功や彼らを巡る一連の騒動は信じられないくらいすさまじいものだった」とリプソンが振り返る。


「しかしもっと信じ難いのは、あれだけの成功や騒ぎだったにもかかわらず、スタジオに缶詰めだった当時の僕とトレヴァーの日常がさほど変わらなかったということだ。僕らはただ淡々と日々の仕事を続けた」


その言葉通り、リプソンがホーンの下から離れて独り立ちするようになるまで、2人はペット・ショップ・ボーイズ、ポール・マッカートニー、シンプル・マインズなどのアーティストらとの共同プロデュース・プロジェクトを手掛け続けた。


「トレヴァーと一緒に仕事ができたことは、僕にとって貴重な経験となった」リプソンが言う。
「トレヴァーに頼り、彼に甘えがちになる点を除けば、デメリットなど何もなかったね。僕が思い付いたことを何でも言えたりやったりできたのは、僕が何か間違ったことをすればトレヴァーがカバーしてくれることを知っていたからだった。例えばプロジェクトが予算オーバーになっても、トレヴァーに任せておけば安心だったからね。金の心配さえする必要がなければ、思い付いたことをなんでも無責任に口にすることができるというものさ。まあ、当時はそれでよかったんだが、トレヴァーから独り立ちしてからは予算面の心配も自分でしなければならなくなり、果たして自分にできるかどうか最初は不安だった」


1991年に独り立ちしてからも、リプソンはアニー・レノックス、ナタリー・インブルーリアなどをはじめとする数多くのアーティストの作品のプロデュースやエンジニアリングを手掛け続け、また、10年ほど前からはノースウエスト・ロンドンのザ・アクアリウムを経営するスタジオ・オーナーにもなった。最近は懐かしのサーム・スタジオにも自分専用の部屋を構え、スティッフ・レコーズのザ・プロデューサーズというバンドの一員として、クリス・ブレイド、ロル・クレーム、アッシュ・ソーンらとともにホーンと再びコラボするようになった。


「ザ・プロデューサーズにはかなりはまっていて、結構時間を割いてもいる。面白くて仕方ないんだ」とリプソンが言う。


「トレヴァーとは何年も昔から"一緒にパブ・バンドをやったら面白いんじゃないか"などと話していた。思う存分演奏する機会が少なくなっていたからね......。そのことをクリスに話すと、断然乗り気になり、すご腕のドラマーであるアッシュに声をかけ、一方、トレヴァーは親友のロルを連れてきた。それでこの面子でフック・エンドに2週間ほどこもったんだが、とても刺激的なセッションとなった。全員の納得行く仕上がりにするにはもう1週間ほどレコーディングをしなければならないと思うが、アルバムをなんとかして完成させ、リリースにこぎ着けたいと思っている」




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