これまで、サム・スミスやU2などを手掛け、5回にわたるグラミー受賞を成し遂げたエンジニアのスティーヴ・フィッツモーリス。宇多田ヒカル作品のレコーディングやライブ配信でも活躍し、最近では「First Love」と「初恋」のDolby Atmosミックスを手掛けたことも記憶に新しい。ここでは、『40代はいろいろ♫』の本番を終えたスティーヴ氏へインタビューを敢行。マイキングや持ち込み機材のこだわり、360 Reality Audioの探求、エンジニアリングの巧みなテクニックについて紹介していく。
AEA KU5Aは音が良くかぶりも全く無かった
─宇多田さんの作品を『Fantôme』『初恋』『BADモード』と手掛けてきた中で、サウンドの魅力はどのように感じますか?
スティーヴ 大胆不敵なやり方は、彼女が好きなビョークに似ているね。アーティスティックな面で行けるところまで行くけど、心に残るメロディを奏でる。欧米のポップ・ミュージックは形が決まってきているけど、ヒカルのアレンジは何が起こるか分からない。伝統的な曲かと思うと、中間部が奇妙になって全く違ったものになる。そういったものを手掛けるのはエキサイティングだから、彼女との仕事は大好きさ。
─『40代はいろいろ♫』では、ボーカル・マイクにAEA KU5Aを使用されていました。これはどのように選んだのですか?
スティーヴ 僕がヒカルに選んだメイン・ボーカル・マイクは、レコーディングでも使うWUNDER AUDIOのものだった。でもドラムやギター・アンプの音も拾ってしまった。そこでKU5Aを試したところ、音がすごく良くて、指向性がハイパー・カーディオイドだからドラムやギターのかぶりも全く無かった。マイクプリはAEA RPQ500で、コンプはINWARD CONNECTIONS The Brute。リバーブはBRICASTI DESIGN M7のプレート・セッティングを使った。あと、ROLAND SDD-320 Dimension Dで少しコーラスをかけてステレオ出力した。それらのリバーブ/コーラス成分は、360 Reality Audioではボーカルと別オブジェクトで配置したんだ。
─続けて、ドラムのマイキングについて教えてください。
スティーヴ キックにはNEUMANN U47 FETを使い、PULTEC EQP-1Aで60Hzを加えることで少し厚みを持たせた。サブマイクとしてYAMAHA NS-10Mのウーファーも使ったね。スネアにはBEYERDYNAMIC M 201 TGとAKG C451Bをテープで巻いて立てて、C451Bは同じくEQP-1Aで100Hzを少し加えて厚みを持たせて、-10dBのPADを加えた。C451Bはハイファイで高音がエアリーだね。M 201 TGはかなり温かみがあって、低音が豊かになるよ。スネア下にはAKG C414を立てて、それらをすべてミックスして1トラックに送った。ハイハットにはNEUMANN KM 84、ライド・シンバルはC451B、タムはSENNHEISER MD 421を使った。
─アンビエンス・マイクは前後と上方に置いていましたね。
スティーヴ オーバーヘッドのCOLES 4038は少しダークな感じがお気に入りで、ペアでドラム・キットの音を捉えた。天井がかなり高かったけど、ドラム・キット上部に厚手の毛布をかけて部屋を小さくすることで、厚みのあるチャンキーなドラム・サウンドを捉えることができた。あまり部屋の反響がするサウンドにしたくなかったけど、後方に立てたNEUMANN M50で少しだけ反響させて、ディストーションに通して少しクランチを加え、EMPIRICAL LABS Distressor EL8-Xでかなり深くコンプをかけたよ。前方はSENNHEISER MD441-Uで、ディストーションTECH21 Sansamp Classicとディレイに通した。曲ごとでドラム・サウンドを変えるため、カバー曲「Me Porto Bonito」はM50を大きくクランチーにして、ディストーションをかけた。「Rule(君に夢中)」は、ディレイでMD441-Uの音を少し大きくして、ドラムに動きを持たせたんだ。ドラムのエフェクトはすべてかけ録りで、後処理でかけたエフェクトは無いよ。ドラム・レコーディングのコツは、必ず位相をチェックすることだね。位相さえ正せていればやることはほとんど無い。今回は既に素晴らしい音だったから、ドラムの音作りは10分しかかからなかった。
─各種アウトボードはどのように使いましたか?
スティーヴ NEVE 1081RやTHERMIONIC CULTURE Snow Petrel、SUNSET SOUND S1Pなどマイクプリはすべて僕の持ち込みで、PULTEC EQP-1Aなどのコンプを介してAVID Pro Toolsに送った。僕はNEVEのマイクプリが大好きなんだ。ドラム・マイクは1081Rが12台入ったラックにすべて送る。4038のマイクプリはSnow Petrelで、真空管にドライブをかけてエアー感を少し下げられるから、スムーズな高音が出せるんだ。
─ギター、ベースのセッティングについても教えてください。
スティーヴ ギターは、アンプにリボン・マイクAEA R44を立ててS1Pに送った。そしてMANLEY Stereo Variable Mu Limiter Compressorで1〜2dB程度コンプをかけた。ベースはACME AUDIO Motown D.I. WB-3を使うのが大好きだね。それからNEVE 1064を通ってコンプのUREI 1176に送る。ベースは別でBOSS CE-2Wにも送ってステレオ・コーラスをかけた。これも360 Reality Audioでラインとステレオ・バージョンを別で配置するためで、ギターもそこに少し送ったと思う。
ヘッドホンなのにスピーカーで聴くように思えた
─360 Reality Audioの第一印象はいかがでしたか?
スティーヴ 最初はソニーのスタジオに行って、スピーカーで何曲か聴かせてもらったんだ。それからヘッドホンで聴いたんだけど、衝撃だったのはまだスピーカーで聴いているように思えたこと。ヘッドホンでも見事に伝わるんだ。それが初体験だった。11月にヒカルのためのテスト・イベントを行なったのが次の体験。本番とはメンバーが違うけど、バンドにプレイしてもらって全体がどう進むか確認した。それから録音した音源を僕のスタジオで再生して、どこのキックやスネアの音が良いか検証したんだ。気になる部分が幾つかあってソフトウェアを改良してもらったから、本番で用意されたものの方がずっと良かった。例えば、テストでは風呂場のようなボーカルのリバーブが取り除けなかったけど、それが劇的に削減されて、本番では気にならなかった。
─360 Reality Audioとステレオ・ミックスの表現の違いは?
スティーヴ 360 Reality Audioにするためのプロセスには3段階必要で、まずバンドのためにマイクを立てて良い音にしないといけなかった。次に、SOLID STATE LOGIC SL9072Jを使って良質なステレオ・ミックスを作らないといけなかった。それからSL9072Jの各フェーダーが360 Reality Audioのソフトに送られるんだけど、一度送るとEQもコンプもかけられないから、送る前にあらゆる問題を解決し、すごく良い音にしないといけなかった。さまざまな情報が行き交うフル・プロダクションの場合、ステレオ・ミックスだと鮮明さを保ちながらスペースを見つけるために絶えず戦わないといけない。でも360 Reality Audioだと、いろいろなものを動かすためのスペースに余地があるんだ。ステレオでは音が重なった場合、少しパンニングするくらいしかできないけど、360 Reality Audioだと同じ周波数帯域でも遠くに離して鮮明さを保てるし、頭の後ろに動かすとヘッドホンで確かにそう聴こえるんだよ。EQはかけられないと言ったけど、360 Reality Audioは自分の周りに巨大な球体があるようなものだから、普通の位置にあるとナチュラルかつノーマルに聴こえて、下に動かすと多少ぼやけた音になるし、上に動かすと高音部が多少減るというように、音の配置を変えることで周波数の効果をいじることになる。それは自分のスタジオでいじって分かって、そこがすべてのとっかかりになった。
─世界初の“360 Reality Audioライブ配信”でしたが、ライブ配信と楽曲制作で音作りなどの違いはあるのですか?
スティーヴ ライブだから、とりあえずレコーディングして後で整理すればいいわけでなく、すべて同時に対処しないといけなかった。360 Reality Audioのオブジェクトは、録音したリハーサル音源をプレイバックしながら何時間もかけて配置したよ。ライブ配信の本番が始まるとライブ・パフォーマンスと360 Reality Audio間でわずかなディレイがあって僕は360 Reality Audioを調整できなかったから、本番中はステレオでボーカルのレベルを上げたりリバーブを足して、それが360 Reality Audioにも送り込まれたんだ。静的バランスは事前に取ってあったし、リハーサルを通してさまざまなレベルを聴いてマークを付けていてどんな音になるかは大方分かっていたから、あとはライブに臨めば良かったのさ。
イーノの言う“ゆっくりな準備と速い実行”をやった
─今回のバンドで作る360 Reality Audioの空間は、どのような質感に仕上げたいと考えたのでしょうか?
スティーヴ 11月のテストで、どういうエフェクトをかけたらいいかある程度は分かった。ベースはドライにしたいけど、そこに何らかのコーラス・エフェクトをかけたいと思ったんだ。コーラスはちょっと後方に配置したから、頭の後ろの方で聴こえる。ボーカルもDimension Dで若干コーラスをかけた。これまたボーカルとエフェクトは別のところに配置している。エフェクトがかかっているときは気づかなくても、取り除くとある空間が消えるのが分かるんだよ。でも、最重要なのは内容である音楽で、感情を揺さぶられるものでないといけないから、“この新しいフォーマットで素晴らしいことをやってやる!”と思ってできたとしても、必ずしもそれをやるべきではない。360 Reality Audioは素晴らしい空間感覚があるけど、あの音楽とバンドとヒカルの素晴らしい歌が無かったら意味が無いんだ。ステレオでも360 Reality Audioでも、どうミックスすべきかは曲や音楽がおのずと教えてくれるから、それに従えばいいんだよ。
─各パートのオブジェクト配置について教えてください。
スティーヴ 事前のテスト・イベントもあったし、自分のスタジオでもいろいろやって、良い音で僕の好きなフィーリングの場所に配置したんだ。キックとスネアは中央の上下で、キックを若干下にしたと思う。スネアは直接向かって来る感じで、オーバーヘッドはその若干上。ルーム・マイクM50は部屋にあった通りの場所で、頭の後ろ上にある。441も同様で、前方のかなり下にある。ベースは多分中央で、ステレオで広げている。頭の後ろのちょっと上だな。周波数が一番いいと思えるところだ。単体で決めるのは好きじゃないんで、ベースを加えたら全体がプレイしている中でかけるエフェクトを決める。ベースとエフェクトだけを聴いて“素晴らしい!”と思っても、ほかのパートが入ったら聴こえなくなったりするからね。ギターも同じで、ギターを若干どちらかに寄せて、背後にコーラスを少しかけた。ボーカルはもちろん中央だ。上下させるとナチュラルに聴こえないから、そのままにした。リバーブやコーラスは横や後ろに置いて囲むようにしたよ。とにかくいい感じだと思うところに配置したんだ。
360 Reality Audio制作ツール
─『40代はいろいろ♫』で得たものや、今後の360 Reality Audioについて期待することはありますか?
スティーヴ ブライアン・イーノが言う“Slow preparation, fast execution”(ゆっくりな準備と速い実行)を僕たちはまさにやった。本番日含め3日間かけてリハーサルを行い、コンソールのフェーダーに曲ごとの印を付けて、各曲のスタート・バランスを決めておいた。曲が終わって、MC中に次の曲に備えてフェーダーを整えるのは“fast execution”だったけど、レベルを決めるまでの準備は時間をかけた。“この曲のドラムはクランチーなマイクを使って、少し大きい方がいい”“ベースはこのレベルで、ボーカルの開始地点はここ。リバーブはこれくらい”ということを決めたんだ。もちろん360 Reality Audioのことも学んだよ。僕のスタジオとテスト・イベントでいろいろ準備をしたけど、本番ではさらに学んでいろいろなことが強化された。360 Reality Audioは、僕たちが初めてライブ・イベントをやったわけだから、今後はいろいろなイベントをやれる可能性が出てきたと思うよ。