上原ひろみ率いるHiromi’s Sonicwonder『OUT THERE』のミックス/マスタリングをミック沢口に聞く

ミック沢口

ひろみさんは録音の時点でピアノの音をコントロールできる。だからこそピアノが録れるエンジニアに、こだわったんだと思います。

『OUT THERE』のミックス/マスタリングを手掛けたのが、ミック沢口こと沢口真生。制作技術センター長を務めたNHKを2005年に退職後、沢口音楽工房を設立し、自身のUNAMASレーベルからハイレゾ作品やサラウンド作品を多数リリースするなど、職人と呼ぶにふさわしいキャリアと実績を誇るエンジニアだ。彼のプライベート・スタジオにて、本作をどのように制作したのかを詳しく聞いた。

写真を見れば音がイメージできる

──上原さんとは、マイケル・ビショップさんの紹介で知り合ったと聞きました。

沢口 マイケルと僕は、1990年代初め頃からのサラウンド仲間です。当時はサラウンドの制作をやっている人が、世界でも非常に少なかった。AES(Audio Engineering Society)という学会にお互い参加して仲良くなったけど、仕事の付き合いは全くなかったんです。作っているサラウンドの音源をやり取りして、“良いね”“悪いね”とかね(笑)。だから、顔見知りになってからは随分長いんですけど、『Silver Lining Suite』のときに突然メールで、“お前、やらない?”って(笑)。それが始まりです。

プライベート・スタジオ

2007年頃から構える沢口のプライベート・スタジオ。スピーカーはYAMAHA MSP Studioシリーズで5.1.4chシステムを構築し、ステレオでの作業はEVE AUDIO SC2070で行っている。DAWはMERGING TECHNOLOGIES Pyramixで、中央のDAWコントローラーはSMART AV Tango

──上原さんは録音にあたり、ピアノの録り音を重視したとおっしゃっていました。

沢口 今回録音を担当したアンドレアスはクラシックもやっているエンジニアだから、生音をよく知っているんです。今、アメリカのエンジニアで生音を知っててちゃんと録れる人って、本当に少ないんですよ。若い人はみんな打ち込みばっかりでしょ? だから、生の楽器にどんなマイクでどうやるのかっていう、ノウハウがかなり落ちてるんです。機会が少なくなっているし、名門スタジオが次々と閉鎖している。ベッド・ルームでの打ち込みで、ボーカルとギターくらい録って、それでグラミー取ってヒットすれば儲けもんみたいなトレンドですから。

──アンドレアスさんはご存じでしたか?

沢口 いや、初めてです。今作は最初からDolby Atmosミックスも作ってリリースするという話で。彼もそういうプロジェクトは初めてだったから、“どうやったらいいか、アドバイスちょうだい”とメールが来て。僕だったらこういうレイアウトにするとやり取りをして、彼は彼なりに、“分かった”と言っていました。

──ピアノにアンテナのようなスタンド(GRACE DESIGN SB-3D11)を立てたと。

沢口 ノルウェーのクラシック・レーベル、2Lのモッテン(リンドベルグ)が考案した“2Lアレイ”で、まさに工事現場のタワーみたいなマイキングなんですよ。彼は教会とかで、周りにオーケストラを配置してそれだけで録るんです。GRACE DESIGNがキットとして発売していて、それをアンドレアスが持っていた。パワー・ステーションのピアノにセッティングしたと。僕も写真を見て、いや〜、こいつはなかなかやる人だなと思いましたね(笑)。

──レコーディングの時点からDolby Atmosミックスを見込んでいたということ?

沢口 そうそう。普段僕が録るときは、リリースする、しない関係なしに、イマーシブ・オーディオでミックスできるようにマイキングしています。今回は事前にアンドレアスとも相談して、“こういうプラスアルファのマイキングをやっておいてくれれば大丈夫だから”という話をして録音が進んだんですよね。だから、通常よりもマイクがかなり多い。音は、写真をいっぱい送ってもらってそれを見たら分かる。このマイクがここにあったらこういう音だよね、というのが大体イメージできます。

ポップスは低域をタイトに

──ミックスからマスタリングが完了するまでの期間はどのくらいでしたか?

沢口 9月から始めて、11月頃までに2chのフォーマットを全部固めて、12月にDolby Atmosをやるという感じでした。今回は2chがCD、配信、24ビット/96kHzのハイレゾと、レコード用のミックスもあったから、ちょっと時間はかかりましたね。

──ミックスはどのように進めましたか?

沢口 一発では決まらないですから。ミックスのバージョン1ができた段階でひろみさんにここに来てもらって、いろいろと彼女の世界観を聞かせてもらい、修正に入るという工程でした。そのときに、ひろみさんから真っ先に言われたのは、“今回のはジャズじゃない。ポップス寄りのサウンドにしてほしい”ということ。僕はトラディショナルなジャズかクラシックしか録音してないから、そういうイメージで進めていたら、ひろみさんに“もうちょっとパワフルなイメージにしてほしい”と言われて、ガラッと変えましたね。

──具体的にジャズとポップスの違いとは何なのでしょうか?

沢口 ポップスはリズム系が非常にタイトですよね。普通ジャズの場合は、低域と言っても生楽器でしょ? それがバチバチ出るっていうことはないし。キックも、ジャズのドラムはそんなに出ていないですよね。今作というか、Hiromi's Sonicwonderというバンドになってからは、どちらかと言うとポップス寄りのサウンド・イメージだから、とにかく強力にして、すべての楽器をガーッと前に押し出さないといけないなと。それで大修正してバージョン2を作って、メンバーにも送って修正してということを繰り返しました。最後まで時間がかかったのはベースです。どういう音をアドリアンが望んでいるのかが分かるまでに、随分と試行錯誤しました。

──上原さんはブーミーなサウンドが好きではないと話していましたが、それとは違う?

沢口 そうそう。要するにタイトな低音なんですよ。“ボワン”ていうものじゃなくてね。

──DAWはMERGING TECHNOLOGIES Pyramixを使われていますね。

沢口 ラッキーなことに、アンドレアスもPyramixだったんですよ。音が良いから、クラシックの人はPyramixユーザーが多いんです。そのままプロジェクトを開けられて、僕のほうで最初から全部プロジェクトを立ち上げて作る手間が要らないからすごく楽でした。

──作業で使用したプラグインは?

沢口 マスターバスにトゥルー・ピーク・リミッターのFLUX:: Elixirを、各トラックではEvo CompやEVO EQを使っています。基本的にはこの3つくらいですね。普段は録ったままを使うことが多いけど、今回はドラムとベースがそのままだとなかなか素直すぎて。ボーカル・ナンバーの「ペンデュラム feat. ミシェル・ウィリス」では、リップ・ノイズの処理などにCEDAR AUDIO Retouchというレストレーション・ソフトを使っています。

──ピアノは何か処理を行いましたか?

沢口 ピアノはもう全然。何もしなかったですよ。それは恐らく、録音段階でひろみさんの希望通りの音になっているから。ひろみさんはレコーディングのときにダイナミクスから音色から何から、全部自分でコントロールして演奏しているので、特段何もすることはないですね。だからこそ、ひろみさんはピアノの音をちゃんと録れる人にこだわっているんだと思います。

死ぬまで勉強だからトライする

──2ミックスの後にはDolby Atmosミックスの制作もあったと思いますが、こちらの具体的な作業手順も伺えますか?

沢口 まずは全体のサウンド・デザインです。今回はドラム、ピアノ、トランペット、ベースの4人という少ない音源で、11.1chの世界をどうやって作ればいいのか、グランド・デザインを考えないといけなくて。それに随分時間を使いましたね。この楽器はこんなふうにしようという青図が出来上がれば、あとは定位を振って、少し味付けするっていうくらいです。僕はいつもプロジェクトごとノートをつけています。すぐ忘れちゃうから(笑)。楽器ごとに検証して、その結果をノートに残しながらディテールを固めていって、大体これでいけるんじゃないかというのを探っています。Pyramixは、非常に早くからイマーシブ・オーディオに対応していたこともあり、作業が本当に楽なんですよ。

沢口が制作過程を記録するノート

ノート

今作のDolby Atmosミックスを開始してから3日目のノート。各パートのパンニングのオブジェクト配置を図と数値で表したものやEQ設定などの情報のほか、メモ的な内容も書き込まれている

──ノートを取っていくことで、どういう過程だったかが後からすぐに分かると。

沢口 マスタリングでも、いつもラウドネスとトゥルー・ピークを全部測っておいて、今後の参考にもなるので取っておきます。曲ごとにラウドネスとトゥルー・ピークが、これくらいになるというのを固めておけば、納品するときに参照すればいいだけなので楽なんです。日本のマスタリング・エンジニアって、トゥルー・ピークをあまり見ない人も多い。僕は、それは良くないことだと思っていて。ピーク・メーターで0dBに抑えても、トゥルー・ピークを見ると、実際には1dBとか2dBくらいまでいってるんですよ。だから、そこをきちんとコントロールしておかないと、実はひずみが出ていたということになってしまうんです。

──曲ごとに値まで書かれているのですね。

沢口 計測してデータを残しておけば、後で楽ですから。例えば、マイキングやインプット・リスト、それからミックスしたときの反省点とかも書いてる(笑)。次はこうしようということを、全部書き出しておいておくんです。画面だけだと、よく思い出せないし、分からないこともあるから。

最終日のノート

Dolby Atmosミックスのマスタリング最終日のノート。各曲のボリューム・レベル、ラウドネス・レベル、トゥルー・ピークの値がそれぞれ書き込まれている

──可能なら、今作を2ミックスだけでなくDolby Atmosミックスでも聴いてもらいたい?

沢口 両方聴いてほしいです。恐らくヘッドホンで聴く人がほとんどでしょうけど、それでもDolby Atmosミックスは、より広がった感じで聴けます。イマーシブについては、“別に儲けにもならないし、意味がないんじゃないの?”って多くの人は言うけれど、僕がサムシング・ニューにトライするのは、死ぬまで勉強だと思ってるから。別にそれで儲けようとか、ビジネスのオーダーが来ないからやらないとか、コンサバティブな考えはないんです。

──イマーシブでの聴取方法が増える一方で、レコードで音楽を楽しむ方も増えてきています。

沢口 この前、本アルバムのレコードのテスト盤を聴かせてもらいました。ここで作業した音源で、カッティングしたものを聴いたのは初めての体験だったんですが、正直言ってびっくりしましたね。昔のレコード盤のイメージしかなかったんだけど、S/Nや解像度がすごく良くて、低域から高域までちゃんと刻まれている。今のカッティングってすごいんだなって。

──よく言われる“温かみ”とは違う?

沢口 そうですね。新しい発見でした。あと、うれしかったのはロンドンのカッティング・スタジオのエンジニアからメールが来て、“低域から高域まで、とてもバランス良く入っていて素晴らしい。俺が今年やったレコードのカッティングの中でベストだ”って、お褒めのメールが来たんですよ。それで、“このミックスをそのまま再現したいから、片面は20分以内にしてくれ”というオーダーが来たんです。そうしないと低域の振れ幅が大きくなるから、少し低域を絞らないといけない。それはもったいないから曲順を変えてほしいというリクエストがあって。それをひろみさんもOKしてくれたので、レコードは曲順を変えています。

──それはなかなかないエピソードだと思います。リスニング方法によって、さまざまな角度から『OUT THERE』を楽しめそうです。

沢口 大事なのは、ひろみさんのバンドがどういう音楽性で、どういう世界観を作り上げてきたか。それを楽しんでもらえればいいんじゃないかと思っています。

Release

『OUT THERE』
上原ひろみ Hiromi’s Sonicwonder

Telarc/ユニバーサル

Musician:上原ひろみ(p、k)、アドリアン・フェロー(b)、ジーン・コイ(ds)、アダム・オファリル(tp)、ミシェル・ウィリス(vo)
Producer: 上原ひろみ
Engineer:アンドレアス・K・メイヤー、ミック沢口
Studio:パワー・ステーション・アット・バークリーNYC

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