Dolby Atmosミックスを体験したことで、
音を自由に配置できるという
新しい武器を手に入れられたような気がします
サカナクションのベーシストとして活躍している草刈愛美が自身初のアンビエント・アルバム『Garden Studies』を配信リリース。サウンド・アーティストkyokaとのマルチチャンネル・ライブ・イベント『ウカブオト ~Superposition~』のために制作した曲の素材を膨らませてできた本作は、ステレオ版以外にDolby Atmosミックス版もラインナップ。イマーシブ・サウンドが活発化している今の時代に向けて、より豊かな音響表現を実現すべく、草刈が自身の可能性に挑んだ。作編曲をはじめ、自宅での録音やステレオの2ミックス、そのステムを用いたDolby Atmosミックスなどを自ら実践。Dolby Atmosミックスは、ABLETON LiveとDolby Atmos RendererをDolby Audio Bridgeでつないで行った。本稿では、彼女が“習作”と言うこのアルバムについて、制作のポイントを尋ねる。
環境音から膨らませた曲もある
──今回のアルバムは2024年の4月末にP.O.南青山ホールのオープン記念ライブ・イベント『ウカブオト ~Superposition~』のために作った素材で構成したと聞きましたが、すべて流用したのでしょうか?
草刈 そうなんです。当時、自身で作った素材の大半を使いました。あとは、サカナクションの映像作品のメニュー画面用に作った曲のブラッシュアップ版、それからミックス中、曲を並べてみて“こういう要素が欲しいな”と思って追加した1曲が入っています。
──完全に新しく作った曲もあるのですか?
草刈 3曲目の「Ginkgo tree」ですね。
──ピアノが入っている曲ですね。あれは音源ですか?
草刈 NATIVE INSTRUMENTSのNoireを使いました。ソフト音源ですが、すごくリアルですよね。
──本当にリアルですね。リアルと言えば、「RainFalls」で聴くことができる雨のような音もすごくリアルだと感じます。
草刈 あれはサンプル集の素材にAPPLE iPhoneで録った雨音を重ねて作ったものだと思います。具体音つながりで言うと、「Sound of a pier」のピーピーピーっていう音の一部は、東京湾の埠頭で録った音なんです。「Sound of a pier」は、そこから膨らませてできた曲でもあります。
──意外なところが発端になっている曲なのですね。「Under the soil」のビートと強力な低域も魅力的だと感じますが、リズムやベースの音作りはどういうふうに行いましたか?
草刈 リズムについては、NATIVE INSTRUMENTSのヒップホップ用のドラム音源やABLETON Liveのプリセットを使用しました。あと、自分でシェイカーを振って録って、サンプルのように使うこともありました。ベースにはROLAND TR-808をモデリングしたLive付属シンセを使いました。当時のライブでは、MOOGのMother-32を使いました。サカナクションのキーボードの岡崎(英美)から借りて。最近は、すごいソフト音源がたくさん出ているし、いろんなインスピレーションが湧くようなプリセットもいっぱい入っているけど、やっぱり実機の音も入れたくなっちゃいますよね。だから、「Icy」のエレピはすべて本物のRHODESで録りました。「Gingko tree」にはSEQUENTIAL Prophet-5のパッドをたくさん重ねて使っています。
──実機のサウンドにはソフト音源と違うテイストがありますよね。それがアルバムのアクセントになっていると思います。今作にはDolby Atmos版も用意されていますが、それはどうしてなのでしょう?
草刈 今回の素材となったマルチチャンネル・ライブ・イベント『ウカブオト ~Superposi tion~』が最初のきっかけです。このイベントのためにkyokaさんと曲を作りました。サラウンド・ライブをやるっていう前提があったので、どちらかと言うとアンビエント寄りの曲を用意しました。そのライブを録音して、リリースもしたいくらいの心意気だったんですが、叶わずにしばらく置いていたんです。他方、サカナクション『SAKANAQUARIUM 2024 "turn"』のツアー映像を映画館で上映することになって、Dolby Atmosに取り組みはじめました。Dolby Atmosは、それまでもやってはいたんですけど理解し切れていないところがあり、エンジニアの方にオーダーするときにうまく伝えられない場合もあったから、この映画を機にちゃんと勉強しようと思ったときに“そういえば、良い素材を持ってたわ”と。『ウカブオト ~Superposition~』の曲のために、私が作った素材ですね。それを使いながらDolby Atmos Rendererを触ってみたり、LiveでDolby Atmosミックスをやる方法を調べたりして勉強したんですよ。
── それが今回のリリースに結実したのですね。
草刈 そうこうするうちに、サカナクションのファン・サイトで“新しいことを1つやってみる”という企画が持ち上がりまして。ほかのメンバーは乗馬したり、ボクシングしたり、そういうファン会報誌らしいアクティビティをしたんですけど、私は“アンビエントのアルバムを出したい”と。長い間、単独でも作品を作ってみたいと思っていたし、kyokaさんとの共演時に作った素材を膨らませて作品化にして、世に出せたらいいなと思って。ちなみに、2人で作った曲はアンビエントだけでなく、ほかにもかっこ良いものがあるので、今回のアルバムが今後、共同名義でリリースする際の足がかりになればいいなとも思っています。
──お二人の共作も楽しみです。そんな今作はApple MusicでDolby Atmosミックス版も配信されますね。どのように制作を行いましたか?
草刈 まずDolby Atmos Rendererでディスタンスがある状態のミックスを作ってから、Apple MusicでのDolby Atmosミックスの聴こえ方を制作の段階で再現できるツール、AUDIOMOVERSのBinaural Renderer For Apple Musicを通してモニタリングしつつ、リアルタイムに調整しました。Binaural Renderer For Apple Musicを外して、Dolby Atmos Renderer直のバイノーラルで聴いてBinaural Renderer For Apple Musicに戻る……というふうに、行ったり来たりして良いところを探ることもありましたね。ただ、これだけ試行錯誤しても、マスタリングの段階で気づくことがたくさんあって。まだまだ最初の作品だなっていう感じで、振り返ると、もう既に反省がいっぱいあるんです(笑)。
従来の概念をくつがえした音作り
──ステレオ・ミックスとDolby Atmosミックスでは、音作りの視点も変わってきますよね?
草刈 配置できる空間が変わると、やりたいことも変わりますね。ただ、最終的には2ミックスとDolby Atmosミックスの差を縮めるというよりは、それぞれの良さを生かしたいと思っていたから、曲によってはミックスの印象が大きく異なっているかもしれません。例えばAdoさんの『残夢』にも両者で大きく異なる曲があるし、逆にすごく似ている曲もある。ロバート・グラスパーのアルバムなどにも、分かりやすく違っている曲がありますよね。
── 作り手として、ステレオとどういう部分が違いますか?
草刈 スリー・ディメンションになるので、表現できる範囲がステレオよりも大幅に増えるんですよ。まずは周波数的に余裕を持たせることができるし、ダイナミック・レンジも非常に広く作れます。それに、Dolby Atmosにはステレオのマスタリングのような音作りがありませんしね。ただ、何十年もかけて技術が培われたステレオの中でしか出せないグルーヴというのもあって、その良さをDolby Atmosのフィールドにうまく取り入れていくことはできると思っています。
──ステレオでは定位の作り方にセオリーがありますが、Dolby Atmosに関してはどのように考えていますか?
草刈 Dolby Atmosは映画にも音楽の録音作品にも使われますが、両者で定位の作り方は違ってくると思います。まず映画に関しては、映画館には物理的なスピーカーがありますし、たくさんの席に人が座っているかもしれないので、スウィート・スポットを拡張しないといけない。センターに置いたキックが場所によって違う聴こえ方になったり、ファントム・センターで鳴らしたらますます聴こえ方に違いが出たり……そんなふうにして、やってみて気づくことがたくさんあるし、本当にセオリーがないので、まずそこが大変でしたね。
──アルバムのミックスはヘッドホンでのバイノーラル・モニタリングで行ったとのことですが、実際のマルチスピーカーを前に作業するのとは全く違いますよね?
草刈 もうすごく違いますね。“スピーカーを置く”という概念を外さないと作れないって、途中でやっと分かってきて……空間を感じながら音を配置しなきゃいけないなと思いました。ある曲でベースは真ん中でグッと響かせたいと思い、Dolby Atmosなんだからサウンド・フィールドの中心にベースを配置すればいいんじゃないかと考えましたが、従来のミックスの考え方からは逸脱している気がして、マスタリングを手伝ってくださった古賀(健一)さんに相談したりもしました。フィジカルのスピーカーを置いてミックスしていたら、多分その発想にならないと思うんですよ。だから、バイノーラル・モニターで作ってから、マルチスピーカーのスタジオに行くという順番のほうが良いなと。こういうミックスの手順は、本当にパラダイム・シフトみたいな感じです。
──ステレオとは概念がまるで違うし、それこそベッドにするかオブジェクトにするかというのも初めは試行錯誤が必要なのだと感じます。
草刈 そうですね。頭が完全にチャンネル・ベースでしかなかったので。オブジェクトにしたら自由に動かせますよっていうのは知っていたんですけど、ミックスの概念をもうちょっと抽象度の高いところに持っていかないとできないことなんだなっていうのが分かりました。というのも、チャンネル・ベースで考えると“この音をこう動かしたら位相が乱れてしまうんじゃないか? そうなるくらいなら、おとなしく置いておいたほうが安定するかな?”みたいな不安がありましたが、いざオブジェクトを使ってみると意外にそんなことはなかった。やってみて大丈夫と分かったのが大きかったですね。そこの不安を払拭できれば、すごく世界が広がるというか……それも制作を終えてから、やっと分かったんですけどね(笑)。ただ、実際にこの流れを体験できてよかったと思います。体験してもらうところまで持っていくことで、今後自分たちがどうやって音を配置できるかという、新しい武器を手に入れられたような気がしました。
録り方に選択肢を持たせよう
──これからDolby Atmosが主流のフォーマットになるかもしれませんが、Dolby Atmosミックスを前提に曲を作る場合、意識すべきことは何だと思いますか?
草刈 録りのときから、しっくり考えなきゃいけないなと思いますね。例えば、ちゃんとアコースティックで響かせたいものは、遠くの音と近くの音を録音しておけば、後から距離感を調整したいときに選択肢が持てますので、いろんな録り方をすることでDolby Atmosミックスにも対応できるだろうと思います。一方、電子音を使った曲作りは最初から翼を持っているようなもので、マイクで録ったものよりは自由度は高いです。そのため、詰め込んで作ることをしたいのか、グルーヴを出したいのか、バラバラに音像を立てて、それぞれが聴こえるような混ぜ方にしたいのか……作りたい音を踏まえて、空間配置を意識したほうがいいと思います。
──大変勉強になりました。今作を経て、今後Dolby Atmosなどのイマーシブ・サウンドを制作する際に役立つ経験や考え方がたくさん得られたようですね。
草刈 本当にこのアルバムを経験したから、自分の語彙を増やせたなと思います。サカナクションで「怪獣」のDolby Atmosミックスを作るときにすごく感じました。ミックスは長年サカナクションのエンジニアリングを務める浦本(雅史)さんにお願いしましたが、そのミックス・リクエストをどういうふうに伝えたら伝わるかとか、メンバーにも“こういうことだったみたいなんだけど、どう思う?”って話し合ったりとかもできたので。あらためて、今作は自分をアイデンディファイするようなものっていうよりは、テクニカルな練習みたいなところがあります。だからタイトルは“Studies=習作”にしました。そのうち、もうちょっと世界観にフォーカスしたものを作れるようになるだろうし、今後の足がかりの第一歩として、Dolby Atmosミックスで本作を作れたのはよかったと思いますね。
Release
『Garden Studies』
草刈愛美
(Victor Entertainment)
Musician:草刈愛美
Producer:草刈愛美
Engineer:草刈愛美、古賀健一
Studio:プライベート、Xylomania Studio
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