【会員限定】DJとしてプロになるには? 〜DJ/プロデューサーとして海外で活躍するGonnoの成功の秘けつとは

Gonno

1つ1つのギグを成功させることが大前提
それがあってこそ次に声をかけてもらえます

10代だった1996年ごろにDJを始め、今やプロデューサーとしても国内外で高く評価されているGonno。2011年にウルグアイの名門レーベルInternational Feelからリリースした『Acdise #2』が、ローラン・ガルニエをはじめとする著名DJたちにプレイされ一躍時の人に。近年は台湾のJIN 禁から作品を出したり、香港の宀(Mihn Club)に出演したりとアジアでも人気だ。Gonnoにインタビューを行い、これまでのDJ活動からサクセスの秘けつを聞き出してみよう。

Gonno's Steps

・自費でベルリンに行き次のギグも獲得

・自身の作品が名門レーベルから出てヒット

・BOILER ROOMに在住日本人として初出演

・台北や香港などアジアのプロモーターとの出会い

曲のヒットがDJとしての価値を高めた

 「例えば香港って、東京ほどはクラブが多くないから“バー・ギグ”で生計を立てているDJが多いみたいなんです。バーやホテルで1日5時間くらいDJして、ギャラは数百USドルなどみたいで、香港と金額は違うかもしれませんが韓国でもそういったバー・ギグがあるようですし、アメリカにも都市部ではあるようです」と話すGonno。バーでDJをして生活費を稼ぐとは、日本の感覚からすると俄(にわ)かには信じがたい。

 「日本ではほかのアジアの国よりも先んじて1990年代にDJカルチャーが大きなブームになって、DJも急増したから、一部に“ノーギャラでも人前で音楽を流したい”というDJが今でも多い気がしていて、それが常態化しているのかなと。特に都内のクラブは家賃が高く、利益を上げるのは簡単じゃないだろうし、DJまで十分に報酬が行き渡らない。ただ、僕がDJするようなクラブにはお酒以上に音楽を目掛けて来る人が多いので、その音楽を提供するDJは非常勤の従業員みたいなものだと思うから、ある程度報酬は受け取ったほうがいいんじゃないかと思います」

 以前は「自分も都内で活動するいちローカルDJでした」と言うGonno。活動の結果がフィー(報酬)という形でついてくるようになったのは、2011年の12インチ作『Acdise #2』が世界中のクラブでヒットしてからだ。

 「いちアーティストとして見てもらえるようになった感じですかね。まともなフィーをもらえたり、音楽に敏感なブッカーの人たちはこちらが希望した額にある程度沿ってくれるようになったりしました。クラブ側も“ダンス・ミュージック・ファンが知っている曲を作った人”というようにプッシュしやすくなったんだと思うんです。例えば海外DJが来日して共演するときに“あのレコードがヒットした誰々”みたいなプロフィールがあれば、紹介しやすいですよね。クラブ・スタッフの方々は日々のパーティや宣伝、先々のブッキングなどで多忙ですし、確固たるプロフィールのあるDJなら宣伝文句を考えやすいはずですから」

 しかしGonnoは「今は14年前と違ってヒット曲が生まれづらいと思う」と語る。

 「当時はまだダンス・ミュージックのレコードが売れていたし、サブスクもなかったから。ダンス・ミュージック・シーンも最近は録音物がパッケージで売れて名前が知られる時代じゃなくなってきた。今は多くのDJがネット上でのプロモーションに力を入れているんじゃないですかね。Instagramやネット上でのプロモーションで知名度を上げたDJもたくさんいると思います。一方で、SNSに露出しすぎることをクールじゃないとする向きも世界の中では感じられたり、混沌としていますが、まぁそれぞれの価値観と個人的には思ってます」

 作品のリリースでは2004年ごろから海外の諸レーベルと付き合いのあったGonnoだが、DJとして海を渡ったのは2007年が初めて。『Acdise #2』が生まれる前だ。

 「日本人の映像作家の方が、ベルリンのBar 25というクラブでパーティを主催する際にDJを探していると聞いたので、紹介してもらって付いていくことにしたんです。渡航費は自己負担だったので完全な赤字でしたが、日本以外でのプレイをとにかく体験してみたくて。多分プロフィールに海外プレイ経験のあることを書きたいDJはたくさんいると思いますが、帰国後、特に“ベルリン帰りのDJ”みたいな目で取り上げられることはなかったです(笑)。当時既に多くの日本人DJが海外でプレイしていましたから。でも当時の東京とベルリンだと、ダンス・フロアの求めるものが全然違ったりしていてとても衝撃だったし、すごく良い経験だった。それにBar 25で僕のプレイを聴いたベルリン在住のDJ/プロモーターが翌年にベルリンでのギグをアレンジしてくれて、その翌年にはまた違う人が誘ってくれたりと、運良く3年立て続けにプレイしに行けたんです。2年目の2008年は安いフィーで10カ所こなして、やっと少し利益が出るかな?という計算のどさ回りだったんですけど、何と滞在時にリーマンショックが起きてユーロがものすごく暴落したんですよね。それで結局、数万円の赤字だったのを覚えてます」

ベルリンがきっかけで香港とつながる

 2010年に、それまでのほかの仕事を辞め完全にフリーランスになったGonno。そこからDJと並行してフリーランスで音楽制作の仕事に携わりながら、2011年には先述のレコード『Acdise #2』をリリースし、ハイペースでDJの現場をこなす時期を経て、2013年ごろからやっと本格的にDJで生計を立てられるようになったという。

 「2013年にBOILER ROOM(ロンドンのオンライン放送局)に出たのが大きかったかもしれないです。その年、ヨーロッパを回っていてロンドンのギグもあったので、現地のプロモーターが“BOILER ROOMに出ない?”と声をかけてくれたんだと思います。確か日本人初のBOILER ROOM出演者だったので、国内でも話題になったと記憶しています」

 2015年には2回目のBOILER ROOM出演を果たしたほか、International Feelから新たな12インチ『Obscurant』をリリース。それまでヨーロッパ中心だった海外での活動をアジアにも広げたのは2016年ごろだ。

 「アジアで初めてDJしたのは台北でした。後にJIN 禁というレーベルを立ち上げて、僕の12インチもリリースしてくれる台北在住のDJ YOSHI NORIからのオファーでした。その次に行ったのはベトナム・ハノイのクラブSAVAGE。その後SAVAGE主催の『Equation』というフェスに呼ばれたり、そのフェスに来ていた中国のプロモーターが中国ツアーを組んでくれたりして、2017年にオープンした香港の宀(Mihn Club)もオープン当初に初めて呼ばれました。SAVAGEもMihnもフランス人オーナーが運営していて、僕が2015年にベルリンのPanorama BarでDJしたときに僕のDJを聴いてくれたらしく、“俺たちもクラブを始めて、Gonnoを呼ぼう!”とそのPanorama Barの日に思ったそうで。当時からクラブの構想があったんでしょうね。それで本当にオファーが来ました。そうやって脈々とつながっていった感じです」

Rainbow Disco Club

2024年に初の韓国公演を果たした『Rainbow Disco Club』。Gonnoはそこでも多くのオーディエンスを沸かせた

アジア各国のシーンの発展

 現在のGonnoにとって、海外ギグは日本と比べて報酬が良いという魅力も否定できないという。

 「すべてお金でプレイする場所を選ぶわけではないですが、特に近年は円安なので、海外のフィーは日本の感覚からすると非常に良い報酬になってしまいました。海外ギグでは、ホテルは取ってもらえることが多いけどフライトまでは出してもらえないことが多いので、円安の影響で外貨のフィーが相対的に上がっているのも恩恵になっているかもしれません。幸い自分のフィーも、初めてベルリンでプレイしたころから比べると良くなっているので、今のところ日本に住みながらの海外ギグは生計を立てる上で成立できています。最近はアジアのシーンも成長して良いエレクトロニック・ミュージックを聴きたい、という人たちが多く集まるようになってきたから、それに付随してフィーも上げられているんじゃないかな」

 Gonnoは現在、ヨーロッパでのブッキングを自ら管理しつつ、アジアのほうは香港のエージェントに任せている。

 「自分でやり取りするのはやはりとても時間を取られるし、そもそも交渉したりするのがとても苦手なので。2016年ごろに、SNS経由でアプローチされて入ったヨーロッパのエージェンシーが最初に入ったところですね。2015年にEndless Flight (mulemusiqのサブレーベル) からアルバムを出して海外でも話題になったり、さっき話したPanorama Barでの初めてのギグがあったり、そういったところに興味が湧いたのかなと推測します。今の香港のエージェンシーにも向こうから声をかけていただいて入ることにしました」

 本人いわく“いちローカルDJ”から世界を股にかけるプロフェッショナルへと進化したGonno。「いろいろ話しましたが、1つ1つのギグを成功させることが大前提です。それがあってこそ声をかけてもらえると思います。プロモーションに熱心になって知名度が上がっても、一時はいろんな場所でDJできるかもしれないけど、長いスタンスで活動するには、とにかく自分のアートフォームに誠実であり続け、たとえ売れなくても自分のアートフォームに誠実な音楽を自分の手で作って、与えられた機会1つ1つでフロアを沸かせて、音楽そのもので話題を作り、音楽を媒介としていろんな人と自然に出会っていくのが一番リアルだと思う」と語る通り、DJプレイや作品の練磨はアーティストの基本であり、プロとして名を馳せていくためにもなくてはならないものだろう。

(Re)treat Festival

2024年10月にベトナムで開催された『(Re)treat Festival』でのプレイ・シーン

Essential Works

WC Heritage

『WC Heritage』
V.A

Gonnoが2024年に始動させたレーベル“Sanka”の第1弾リリース。以前、Gonnoが自身の1stアルバムをリリースしたWC Recordingsの再発コンピレーションで、2枚組のLPとなっている

JIN08

『JIN08』
Gonno

インタビューでも紹介した台北のレーベル、JIN 禁からリリースされたGonnoのレイテスト・シングル。弾むようなボトムと芯のある音色のアルペジオが心地よい「Energy Flash」をはじめ4曲を収録する

コラム:英語のコミュニケーション、どうしてます?

海外の方々とのコミュニケーションには英語を使っています。もともと外国語の専門学校に通っていたので基礎はあったと思うんですが、実用面についてはもう独学に等しいです。2012年にオランダのナイメーヘンという街に呼ばれたとき、共演者のアメリカ人アーティストがジョークを言って周囲を笑わせていて、自分も日本語なら面白いことが言えるのにと悔しかったんですよ(笑)。英語が話せないために現地で疎外感を感じることもよくありました。でもとにかく下手でもいいから積極的に話したり、海外の人たちの言い回しをまねたりするのがいいですよ。別に英語の言い回しや言葉が間違っていてもいいと思います、何度も聞き返せばいいわけですし。自分もそうでしたが、日本人って“ネイティブのように完璧な英語を奇麗に話せないと”と思っている人が多いと思うけど、外国はもともと多言語国家で、英語でのコミュニケーションにすれ違いがあって当たり前というか、寛容であることも多いと感じるので。

関連記事