立花ハジメ、初のベスト『hajimeht』を語る 〜選曲にコーネリアス/高木完、マスタリングに砂原良徳を迎えた本作の歩み

盟友・高木完と語る
キャリア初となるオールタイム・ベスト・アルバムのエレメント

1979年にプラスチックスのギタリストとしてデビューし、バンド解散後の1982年にはアルファ/YEN レーベルよりアルバム『H』でソロ・デビューを果たした立花ハジメ(写真左)。以来40年以上にわたって音楽だけでなくアートの分野でも活躍を続ける彼の、初のオールタイム・ベスト・アルバム『hajimeht(ハジメ・エイチ・ティー)』が1月にリリースされた。総合監修をかねてより立花との関わりが深い高木完(写真右)が務め、高木と小山田圭吾(コーネリアス)、立花が選曲を担当。マスタリングは砂原良徳が手掛け、現代の音楽シーンにおいても全く引けを取らないみずみずしい音像で名曲の数々が収録されている。今回は立花と高木に同席していただきインタビューを実施。各時代で革新的なアプローチを続けてきた、希代のアーティストの歩みを感じ取ってもらいたい。

レコード会社の垣根を超えた収録曲

──そもそも、お二人の出会いは?

高木 僕はプラスチックスの大ファンで、ほとんど追っかけでしたから(笑)。英国ROUGH TRADEから『Copy/Robot』(1979年)でデビューする前からライブを見てます。一緒に活動するようになったのは随分と後で、タイニー・パンクス時代になってから。

立花 会ったのは(高木)完ちゃんよりも(藤原)ヒロシが先だったと思うんですよ。それで2人がタイニー・パンクスをやっていて。当時の完ちゃんは真っ黒のロン毛で、2人ともすごくかわいいんですよ(笑)。かわいいと言うか、カッコいい。日本人がラップをやると“ん?”って感じだったけど、完ちゃんとヒロシは本当にカッコよくて、それで一緒に遊んでもらいたいなって(笑)。

高木 そこから、タイミングが合えば一緒にいろいろとやらせてもらっていて。例えば“立花ハジメとLow Powers(以下、Low Powers)”だったり。

立花 そうそう。Low Powersのライブでいつも1曲目に演奏する「Sleeper」という曲は、完ちゃんの曲なんです。

高木 『Artman』(1997年)という僕のアルバムに、「あんなかるいのにな」という別のタイトルで入ってる曲で、サブタイトルが「Sleeper」だったんです。それをハジメさんが“カバーしたい”と言ってくれて。“えっ、これを?”みたいな感じで(笑)。

──そんなお2人に小山田圭吾さんを加えた3人で今回、選曲をされたそうですね

高木 3人はしょっちゅう会っているし、小山田君はプラスチックスのファンで、日本の古いニューウェーブも好きだから。僕がハジメさんに昔の話をいろいろ聞かせてもらったりすると、目をキラキラさせて聞いているから“一緒にやろうよ”って。それで最初は、小山田選曲盤、高木完選曲盤の2枚にしようという案もあったんだけど、2人が選んだ曲がほぼ同じだったんですよ。そこにハジメさんの要望を入れて、結果的にすごくいいベスト盤になったと思います。

立花 2人の選曲は全然納得で、そこに“これだけは入れたいな”という曲を幾つかリクエストしたんです。カバー曲の権利関係もレーベルが頑張ってクリアしてくれて。

高木 そもそもレコード会社を超えてここまで入ったハジメさんのオールタイム・ベストは初めてでしょう? これでようやく“立花ハジメ”というアーティストが分かってもらえるものが作れたと思っています。

音楽というデザインにこだわりたい

──では各作品を振り返っていただきたいのですが、初のソロ作品『H』(1982年)と次作『Hm〜ハーマイナー』(1983年)で、ハジメさんはサックスを吹くようになりました。そのきっかけを教えてください。

立花 それまではプラスチックスで、海外で活動したいということでイギリスやアメリカでもツアーをやって。1981年にニューヨークでライブをやったときは、メキシコとかいろんなところからバンドが来ていて、すごく刺激になったし友達もできてたんです。その中に、サンフランシスコから来ていたピンク・セクションというバンドがいて、メンバーに“SRL(Survival Research Laboratories)”という前衛アート集団のマフュー(マット・ヘッカート)がいたんです。それでサンフランシスコに遊びに行ってSRLの仕事場に泊まらせてもらい、いろんな音楽を聴かせてもらったら、彼の周辺の人たちがやっていたのがクラブ・フット・オーケストラ。それはもう、プラスチックスがやっていたような音楽とは全く違う、ジャズともクラシックとも違う音楽だったんです。僕は後に“ノンカテ(ノン・カテゴリー)”と言いはじめますが、そういう音楽があることを知って。ちょうどプラスチックスの活動がひと段落したときで、これまた偶然としか言いようがないんですけど、たまたまロスでいい感じのサックスを見つけて。アメセル(AMERICAN SELMER)の“Mark VI”なんですけど、当時は何の知識もないし、サックスなんか吹いたことなかった。けれども、それを買って、自分なりにできればいいなと見よう見まねで吹きはじめて、半年ぐらいで作ったのが『H』なんです。

高木 ハジメさん、やっぱり人とは違うトライを始めたなと思って、僕はレコードが出る前にライブを見に行ったんですよ。そうしたら、ベスト盤の発売記念ライブにも参加していただく矢口(博康)さんもいて、もう『H』に入ってるような曲を演奏していて。

立花 誰と一緒にやればいいのかも分からなくて、矢口君とか、沢村(満)さん、あとロビン・トンプソンとかと一緒に。

高木 ドラムが鈴木さえ子ちゃんで。

立花 どんべい(現・永田純)とかも集まってくれて、そのままライブをやりつつ、『H』をレコーディングして、クーリーズ・クリークっていうレストランでぼちぼちライブをやって。あとはピテカンですね。

──1982年、原宿にオープンした日本初のクラブ“ピテカントロプス・エレクトス”ですね。

高木 その頃、プラスチックスのメンバーって、ハジメさんと、あとMELONの2人(中西敏夫、佐藤チカ)に分かれるじゃないですか。トシ(中西)ちゃんとチカさんは、ピテカンができてからはだんだんとミュート・ビートや東京ブラボーのメンバーと一緒にやるようになって。ハジメさんは、YMOというか、YENチームみたいな。溝はないけど、何となく僕はMELON・ピテカン側にいて。

立花 うん、溝とかはなかったけど、中西やチカはピテカンがホームグラウンドだったじゃない? 僕はライブをやるときくらいしか行く機会がなくて。(高橋)幸宏ツアーが毎年のようにあったしね。

高木 幸宏さんと一緒に“キャーッ!”て言われてた(笑)。

立花 幸宏もYMOをやりつつ、自分の初ソロ・ツアーを1982年にやって。昔、僕のデザインの師匠が“WORKSHOP MU!!”っていうデザイン集団をやっていて狭山のアメリカ村に住んでいたんですよ。そこにサディスティック・ミカ・バンドが1stアルバムのジャケット撮影に来て。おがくずを集めて砂浜に見立てたり、そこにバヤリースオレンジを置いたりしたのが、見習い中だった“青の時代”の僕。そこにトノバン(加藤和彦)やミカさん、幸宏が来て。僕は普通にロン毛でTシャツ、ジーパンだった時代に、幸宏はカシミアのセーターにアールデコのブローチをして短髪で。それが初めて会ったとき。そのときは話さなかったけど、プラスチックスを始めてから幸宏と仲良くなって、家に遊びに行って一緒にツアーのことを考えてました。それは『tIME aND pLACE』っていう幸宏のライブ盤にもなっています。幸宏のツアーは本当に楽しかったし、ありがたかったですね。それが1982年とか、1983年。そんな流れで『H』と『Hm』を作って、じゃあ次はどうしようかと考えて作ったのが『テッキー君とキップルちゃん(MR.TECHIE & MISS KIPPLE)』(1984年)。

高木 その頃にサンプリングとかFAIRLIGHT Fairlight CMIが出てきて。ピテカン系はダンス・ミュージック寄りになっていったんです。

──ハジメさんも『太陽さん(TAIYO・SUN)』(1985年)では全面的にFairlight CMIを使われていて。

立花 そうですね。『H』『Hm』もそうなんですけど、常に何か新しいことをやりたいなという気持ちで、手探りながら『テッキー君とキップルちゃん』の「REPLICANT J.B.」はE-MU Emulatorで作ったんです。そうしたらFairlight CMIが出てきて、それで作ったのが『太陽さん』。このときのツアーには、映像用のFairlightというエフェクターがあって、リアルタイムで映像にエフェクトをつけながら、作った曲を流しつつ、アルプス1号、2号、3号(立花氏オリジナルの創作楽器)をたたいたり、ダンス養成ギブスを着けて歌ったりしていました。機械がこれだけ頑張るのだったら、人間も負けないくらい、ダンス養成ギブスを着けて、歌って、踊って頑張るぞ、と。

──『太陽さん』の制作段階で、そういうライブ・パフォーマンスもイメージしていた?

立花 そうですね。時代的にあの頃は、映像を流してライブをやるみたいなことが、ある種、定番化しはじめたというか。有名なところだとローリー・アンダーソンとか。

高木 Corneliusがそういうライブを始めたときは“おおっ!”と思いましたもんね。あと、僕は当時全く知らなかったんだけど、ハジメさんはその頃から、先ほども話に出たSRL的なことをやっていて。

立花 『テッキー君とキップルちゃん』ジャケットの火炎放射器、あれはもうSRLですよ。

高木 やることがものすごく早いですよね。ノイズ・インダストリアル・ライブも、みんなが騒ぐ前にもう全部やっていて。視点や発想が違うんですよ。そこがすごい。

立花 強いて言えば、アートにはこだわらないけれども、音楽というデザインにはこだわりたいという気持ちがあって。映像も、その頃に僕がやっていたのは、結構な数のモニターを積み上げて、映像用のFairlightで生の映像にエフェクトをかけて。自分で言うのも何ですけど、あれだけの台数のモニターを積み上げるって大変だし、ほかにやってた人はあまりいなかった。ナム・ジュン・パイクは、またちょっと違うしね。

高木 あれはインスタレーション・アートですけど、ハジメさんはそこにロック・ショー的な要素を持ってくるのがすごい。

立花 ロック、パンク、ニューウェーブな感じがないと、全然新しい感じにならないからね。

立花ハジメ、高木完

Photo:Hiroki Obara

良い言葉を並べても良い歌詞にならない

──次作『BEAUTY & HAPPY』(1987年)は一転して歌モノになりました。

立花 『太陽さん』にも「MODERN THINGS」が入ってますけど、アルバムとしては歌モノという感じではなくて。『太陽さん』のツアー後に、「BEAUTY」と「MODERN THINGS」のアコースティック・バージョンを12インチ・シングルで出したんです。手塚治虫先生が描いてくれたスピカとヒョウタンツギを散りばめたレリーフ・ジャケットなんですけど。

──12インチ片面シングルで、B面はアートワーク仕様になっていて。

立花 レコードの溝の代わりに、手塚先生の絵を彫ったという。すごく気に入って、これははやるだろうなって思っていたら、誰もやらなくて(笑)。

高木 僕は『太陽さん』の「MODERN THINGS」をすごく聴いて、もうDJでよくかけてましたよ。

立花 ただ『太陽さん』でやりたかったのはハードコア・テクノで、じゃあ次は歌詞を書いて本当に歌モノを作ってみようと思ったのが『BEAUTY & HAPPY』。でもやっぱり、歌詞を書くのは大変ですね。いろんな本を読んで、気に入った文章や単語を集めて、それをまとめて。その作業自体は誰でもできるけど、それを曲の歌詞にするって全然別の作業で。良い言葉を並べても、良い歌詞にはならないですから。

──1988年にプラスチックス再結成があって、1991年には『BAMBI』が制作されます。

高木 ちょっと時間が開くんだね。

立花 なぜかと言うと、1986年にAPPLE Macintosh Plus、1987年にMacintosh IIが出るんですよ。出力もできないMacPaint(初期Mac OS)の時代から、出力もできるしPostScriptだしということで、Macで一体何ができるんだろう、僕だったら何が作れるんだろうと、しばらくMacにハマって。だから1991年頃までほとんど音楽をやっていないんですよ。それくらい僕にとってMacはエポックメイキングな機材です。ただ音楽とはあまり関係なくて(笑)。デザインはMacなんですけど、音楽は機材より、その時々に興味が向くものに取り組んできたという感じです。それでこの時期は朝から晩までMacをいじって、ADOBE Illustratorでどうやって曲線を引くんだろうというところから始めて、そこでたどり着いたのがタイポグラフィ。アルファベット26文字を、実用的ではないんだけれども、いろんなバリエーションでデザインして作ったんです。

──そのタイポグラフィで、1991年には第35回ADC最高賞受賞、1992年に初個展を開催。その同年に『BAMBI』を作るわけですね。

立花 タイポグラフィで作った『APE CALL FROM TOKYO』いうポスターがADC最高賞を受賞して、Macがひと段落したので“さて、音楽はどうなってるのかな?”って周りを見渡して。タイニー・パンクスには時々混ぜてもらったりしてたんだけど、その周りはどうなってるんだろうと思って。中西はその頃、TYCOON TO$H & TERMINATOR TROOPSもひと段落してたのかな?

高木 そうですね。みんなダンス・ミュージック、ブレイクビーツとか、そっちのほうにいっていて。レコード屋でレアグルーヴを買って、サンプリング・ネタを探したり。そういう中でハジメさんが『BAMBI』を作ったきっかけって、あまり知らないかも。

立花 “どうしようかな?”と思っていたときに、テイ(・トウワ)君が一緒にやってくれることになって。彼がDeee-Liteに入る前だったと思う。それでニューヨークに行って、テイ君と一緒にインドのタミル・ミュージックとか、いろんな音楽を聴いて。タミル・ミュージックって典型的なインド音階の音楽とはまた違っていて、それをやったわけではないけど、「Bambi」に入っている“チャッププチャッチャッ”っていうのはタミル・ミュージックからのサンプリングなんです。

幸広さんのドラムをドンと前に

──そこから6年後に『Low Power』(1997年)をリリースすると、今度は5弦変則チューニングのギターを手にバンド・サウンドに回帰した『Low Powers』(同)、その後には新バンド“THE CHILL”を結成して『THE CHILL』(2007年)を制作します。この流れは?

立花 変則チューニングは、プラスチックスがB-52'sと一緒にアメリカ・ツアーしていたときにリッキー・ウィルソンが教えてくれたんです。小山田君には伝承してありますけど、あれを弾けるのはこの世で僕だけ。当時、あれはリッキーのものだという意識が強かったんですけど、せっかく教えてくれて僕しか弾けないのに、使わないのは逆に彼に悪いなと思って。そこで、これまたMacが登場したときと同じなんですが、この変則チューニングで一体どんな音楽ができるのかなと思って作ったのが『Low Powers』。それをもうちょっとハードにやろうと思って『THE CHILL』を作りました。

──2013年制作の『Monaco』は、USBメモリーでのリリースという画期的な試みでした。 

立花 世の中、もうCDでもないし、そもそも“アルバムを作る意味があるのか?”という時代で。でも、何かできることがあるんじゃないかと考えて作ったのが『Monaco』、要するにUSBメモリー(でのリリース)でした。TシャツにUSBメモリーで“僕のアルバムです”と言うこともできたんだけど、僕はUSBメモリーと樹脂製のパッケージにして。曲は、大沢(伸一)君やヒロシ、Delawareのサマタマサト君とかに参加してもらって。

高木 僕も一緒にやりましたよ。

立花 デジタルな曲もあれば、Mioちゃんがオーボエを吹いてくれたアコースティックな曲まで入っているのが『Monaco』です。

──それら歴代の作品から厳選された楽曲にプラスして、高木さんと小山田さんによる「MA TICARICA(2025 Remix)」も必聴ですね。

高木 小山田君はCorneliusの欧米ツアーがあったんだけど、2人ともAPPLE Logic Proユーザーだったのでデータのやり取りで作って。オリジナルのマルチが見つかった曲の中から「MA TICARICA」を選んだのは小山田君のリクエストです。まず僕がマルチをちょっといじって、あとキーを合わせたサンプルをいっぱい入れて小山田君に送って。そうしたら、幾つかのパートにサンプルを入れて厚みのある音にしてくれて、幸宏さんがたたいているドラムをもっと前面に出そう、と。オリジナルはちょっと引っ込んでいたから。

立花 『H』と『Hm』のプロデューサーは幸宏なんですよ。でも幸宏は本当に僕の好きなようにやらせてくれて。それで「MA TICARICA」のときに幸宏にたたいてもらいたくて、話をしたらたたいてくれたんです。

高木 最初は、フィルとかにもっとブレイクビーツとかを入れてたんだけど、それは入れどころを変えて、基本的には幸宏さんのドラムをドンと前に出しました。僕はあのテンポ感が好きなんです。自分が今、DJでかける曲とも一緒に混ぜやすい。(BPMが)70ぐらいで、140でも取れる、ちょうどロックとダンス・ミュージックが混ざった感じで。

「MA TICARICA(2025 Remix)」Plug-ins

「MA TICARICA(2025 Remix)」の制作で使用されたプラグインの一部。今回のリミックスにあたって、さまざまな音色が追加されている。L/Rに分かれて鳴っているビープ音にはNATIVE INSTRUMENTS Monarkを使用

SWAM Trumpets

2:22辺りからは原曲のトランペットにSWAM Trumpetsが重なり、独特な倍音感のあるトランペットが生み出されている

DREAMTONICS Vocoflex

曲のタイトルでもある“MA TICARICA~”というフレーズには、音声モーフィング・プラグインのDREAMTONICS Vocoflexが活用されているようで、機械的なボーカルに新たな彩りが加わった

──そしてマスタリングは、もうこの時代の作品と言えばおなじみの砂原良徳さん。

高木 そこはもう、絶対に彼だよねって意見が一致して。2025年に聴くにはすごくいい感じの音だと思ってます。今回、あらためてハジメさんの最初期の作品から聴き直して、ハジメさんは最初からラウンジ・ミュージックみたく変わった音楽をやっていたんだな、と。それが分かってすごく面白かった。今でこそ普通に感じる“ノンカテ”を40年以上前からやっていたことも再認識したし、『テッキー君とキップルちゃん』も、やっぱり面白い。有名な曲ばかりでなく、当時はそこまで印象に残っていなかった曲も、今あらためて聴くと“こんな曲があったのか”って驚きもあって。そういう曲が満遍なく網羅された、楽しいベスト盤になっていると思います。

立花 あと曲もそうなんですけど、ぜひジャケットを見てもらいたい。すごくいいでしょ?それに「MA TICARICA(2025 Remix)」のMVも。映像も、全くオリジナルと同じ感じでMVをAIでリミックスしたんです。これもぜひ見てほしいですね。

砂原良徳に聞く『hajimeht』のマスタリング

砂原良徳

Photo:Hiroki Obara

『hajimeht』のマスタリングを手掛けたのが、プロデューサーで数々の作品でマスタリング・エンジニアとしても活躍する砂原良徳。ここでは今作のマスタリングについて伺ったE-Mailインタビューの模様を掲載する。

──立花さんの作品をいつ頃から聴きはじめましたか?

砂原 ハジメさんの作品を聴くようになったのは『H』がリリースされた1982年です。私は中学生になったばかりで、その後さかのぼってプラスチックスを聴きました。

──砂原さんが考える、立花ハジメ作品の魅力とは?

砂原 音楽理論のセオリーに依存しないところが魅力です。同時にオリジナル楽器やビデオ、デザインなどとセットであることも重要なことだと思います。これなら自分にもできるかもしれないと思わせてくれたのもハジメさんの作品でした。

──今作のオファーを受けた際、サウンドのイメージはありましたか?

砂原 基本的には現代のリスニング環境や、テクノロジーにアジャストする方向で調整しています。完さんとは何度かやりとりをして、バージョンの差し替えなどを行いました。

──砂原さんは往年の作品をマスタリングする機会も多いかと思います。そういった作品と、現在の新譜としてリリースされる作品のマスタリングを行う際とで、作業内容や取り組み方などに違いはありますか?

砂原 基本的には同じですが、古いものになると現代の音質や音像と異なることが多いので、その部分を中心に調整していくことになります。近年ではリマスターが何度か行われている作品もあります。その際には以前のリマスターとは違ったアプローチをとっていくことになります。

──時代によって音楽性や音像もさまざまですが、統一感を持たせるための工夫は?

砂原 特別な工夫はありませんが、何度もさまざまな環境でチェックを行い違和感のない流れを目指して作業を行いました。自分がよく使う表現ですが、すべての楽曲を一本の串に刺すようなイメージです。

──新たな機材を用いるなど、近年で作業環境に変化はありましたか?

砂原 特に変化はありません。作業を繰り返していく中で自分自身が変化していきますが、それが最も重要であり、プロセスや仕上がりに影響していると考えています。

──時間がかかった作業などはありますか?

砂原 時代による音質の差をなじませるためには、それなりの時間がかかります。アルファの音源は基本的にポテンシャルが高く、伸びしろが大きいので、作業自体はとても楽しいです。

──今作を現代のリスナーにはどのように聴いてもらいたいですか?

砂原 私からリスナーに望むことは特にありませんが、これを機にハジメさんの音が好きになってくれる人がいればとてもうれしいと思っています。

Release

完全生産限定盤 MHCL-31034〜6

通常盤 MHCL-31037〜8

『hajimeht』
立花ハジメ

(ソニー)

Musician:立花ハジメ(g、sax、vo)、高橋幸宏(ds、k)、細野晴臣(b、marimba)、坂本龍一(ds、p)、鈴木さえ子(ds、k)、ロビン・トンプソン(sax、bcl)、永田純(b)、上野耕路(Emulator)、沢村満(sax)、矢口博康(sax)、近藤達郎(kb)、藤井丈司(prog)、飯尾芳史(prog)、塚田嗣人(g)、小倉博和(g)、白井良明(g)、美尾洋乃(vl)、角谷仁宣(syn、prog)、大野由美子(b、mellotron、Emu-II、cho)、Yoshiki(ds、cho)、Eriko(vo)、他
Producer:高木完、小山田圭吾、立花ハジメ
Engineer:寺田康彦、小池光夫、飯尾芳史、赤川新一、松田直、他 
Studio: LDK Studio、Alfa 'A' Studio、TAMCO Studio、SEDIC、Onkio Haus、Studio Somewhere、Stu
dio Devo、Victor Studio、Amuse StudioSmile、Garage、IRc2 Studio、一口坂スタジオ、モウリアートワークススタジオ、他

 

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