ロック・ステディ期のジャマイカ音楽に米ソウル・ミュージックがもたらした影響
ロック・ステディの流行期にジャマイカ音楽はリズムやサウンドだけでなく、その和声感やムードも大きく変化させた。それはアメリカのソウル・ミュージックの新しい動向に、敏感な反応を示したものでもあった。
サウンド・システムに集うジャマイカの民衆は、なぜかデトロイト産のモータウン・サウンドはあまり歓迎しなかった。モータウンの新しいソウル・ミュージックがアメリカの音楽界を席巻しても、ジャマイカのサウンド・システムでは1950年代に流行したジャンプ・ブルース的なR&Bが好まれ続けた。モータウン以後のアメリカのR&Bの変質が、ジャンプ・ブルースの影響下に生まれたジャマイカ流のR&Bとも言えるスカの創成につながったとも言える。
だが、1960年代半ば以後にシカゴやフィラデルフィアで産声を上げた新しいソウル・ミュージックは、ロック・ステディ期のジャマイカ音楽に強い影響を与えた。メジャー7thコードを多用するシカゴ・ソウルやフィリー・ソウルのスウィートな和声感をジャマイカのミュージシャンは素早くロック・ステディに応用したのだ。
この流れを象徴したのもミスター・ロック・ステディ、アルトン・エリスだった。デューク・リードのもとで「Rock Steady」ほかのヒット曲を放ったエリスは、1967年にジャッキー・ミトゥー率いるソウル・ヴェンダーズとともにイギリスをツアーし、帰国後はミトゥーらとコクソン・ドッドのスタジオ・ワンで録音を重ねた。アンチ・ルード・ボーイのメッセージを歌い込んでいたエリスはキングストンの街ではルード・ボーイに付け狙われていた。それ故、スタジオ・ワンに移った後のエリスは社会的なメッセージよりも、スウィートなラブ・ソングを歌うことに注力した。
シンプルなコードの繰り返しによるロック・ステディのマナー
1967年にヒットした「I'm Still In Love With You」はそんなエリスのラブ・ソングを代表するが、そこに同時代のシカゴ・ソウルの影響があったのは間違いないだろう。同年にエリスはビリー・スチュアート「Sitting In The Park」をカバーしている。ビリー・スチュアートはシカゴのチェス・レーベルに所属していたR&Bシンガーで、1965年に「Sitting In The Park」をヒットさせたが、それはブルースの色が強いチェス・レーベルの中では異色の甘美なR&Bチューンだった。メジャー7thコードを使った同曲は、1970年代以後のソウル・ミュージックの先駆的なニュアンスも持っていた。
「Sitting In The Park」はビリー・スチュアートの最大のヒット曲だが、全米チャートでは最高24位で、そこまでポピュラーな曲とは言えない。だが、ジャマイカでは同曲はアルトン・エリスがカバーした後、多くのシンガーによって歌い継がれた。そのスウィートネスがジャマイカ民衆の心情にマッチしたからかもしれない。3つのコードを繰り返す「Sitting In The Park」のコード進行をさらに簡素化したような2コードの繰り返しによるスウィートな楽曲が、ロック・ステディ以後のジャマイカでは数多く生み出された。アルトン・エリスの「I'm Still In Love With You」然り。ギターで2つのコードが押さえられれば、誰でもソングライターになれる。これも現代まで続くジャマイカ音楽シーンの特異性の一つとなった。
チカーノ・ソウルとロック・ステディとの接点
アルトン・エリスは1960年代後半のフィリー・ソウルの興隆にもいち早く反応。1967年のデルフォニックスの大ヒット曲、「La-La Means I Love You」もロック・ステディ化して、カバーしている。同曲を書いたフィラデルフィアの名ソングライター、トム・ベルは、実はジャマイカ出身だった。シカゴ・ソウルやフィリー・ソウルの影響下に生まれたスウィートなロック・ステディは、1970年代にUKレゲエのシーンで生み出されるラバーズ・ロックの原型ともなっている。アルトン・エリスが“ゴッドファーザー・オブ・ラバーズ・ロック”と呼ばれることもあるのはこのためだ。
1981年にはフレディ・マクレガーが『Lovers Rock (Showcase Jamaica Style)』というアルバムの中で「Sitting In The Park」をカバーしている。これも同曲がロック・ステディ〜ラバーズ・ロックのルーツにあることを物語るかのようだ。面白いことに、同曲はアメリカではチカーノ(メキシコ系アメリカ人)に好まれた。1960年代にはテキサス出身のチカーノのグループ、サニー&ザ・サンライナーズがカバー。1980年代にはチカーノが好むR&Bを集めたコンピレーション・シリーズの『East Side Story』にビリー・スチュワートのオリジナルが収録され、人気が再燃したとされる。近年のアメリカではチカーノ・ソウルを標榜する若いアーティストたちが勢いを得ているが、現代のそんな流れのキーパーソン、ジョーイ・キニョーネスなどはロック・ステディにも強いシンパシーを示している。1960年代からジャマイカのロック・ステディとアメリカのチカーノ・ソウルには、同質のスウィートネスが宿っていたからだろう。
レゲエの誕生を告げる一曲は?〜ワンドロップと付点のオルガン
レゲエの時代のスタートは一般には1968年からとされるが、3拍目にキック・ドラムが落ちるワンドロップのリズムはロック・ステディから引き継がれたもので、それを少しスピードアップさせたのがレゲエという認識があったくらいに思われる。その言葉が将来、巨大な音楽ジャンルを形成するとは誰も思っていなかったに違いない。
プロデューサーのバニー・リーはロック・ステディとレゲエの違いはオルガン・シャッフルにあると語っている。ドラムスのワンドロップは共通するが、ギターが2拍目、4拍目を刻むのに加えて、オルガンが細かい付点のリズムを入れるようになったのがレゲエ以降のスタイルだというのがリーの持論だ。その最初の一曲として、リーはレスター・スターリング&ストレンジャー・コール「Bangarang」を挙げている。これは1968年にデューク・リードのスタジオで、リーが制作した曲だ。同曲でオルガンを弾いたのはロイド・チャーマーズ。ベースはアストン・ファミリーマン・バレットで、ドラムスはカールトン・バレットだった。このリズム・セクションはその後、リー・ペリーのアップセッターズを経て、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズに参加する。
しかし、ファースト・レゲエ・ソングにはほかにも数多くの候補がある。プロデューサーのナイニー・ザ・オブザーバーは、1968年に彼が制作したエリック・モンティ・モリス「Say What You're Saying」がそれだと主張する。同年にジョー・ギブスが制作したパイオニアーズの「Long Shot」を推す人もいる。リー・ペリーが同年に発表した「People Funny Boy」がレゲエの誕生を告げる一曲だとする人もいる。
テンポ・ディレイの先駆者シルヴァン・モリス
どれが最初だったかはともかくとして、1968年のジャマイカのスタジオ・シーンでは、こうした新しいプロデューサーやエンジニアが大きな活躍を始めた。それが新しい時代の到来を物語っていた。そして、そこから数年のうちに、ジャマイカのレゲエ・ミュージックは世界のどこにも無い独自のシステムを発展させることになる。
1968年からキングストンのスタジオ・シーンで大活躍を始めた才能としては、エンジニアのシルヴァン・モリスにも触れないわけにはいかない。1949年にキングストンで生まれたモリスは12歳の頃から真空管アンプを自作し、15歳の頃にはラジオ修理などの仕事を始めていた。1966年にはエドワード・シーガが経営していたウェスト・インディーズ・レコード・リミテッド(WIRL)のスタジオで働くようになり、グレアム・グッドールからレコード・エンジニアリングの手ほどきを受けた。当時のWIRLスタジオにはスタジオ・ワンを離れたリー・ペリーもいた。
1967年にモリスはデューク・リードのスタジオに移り、エンジニアのバイロン・スミスをサポートしたが、3カ月ほどでさらにスタジオ・ワンに移籍。コクソン・ドッドの従兄弟のシド・バックナーに替わり、19歳にしてスタジオ・ワンのメイン・エンジニアとなった。以後、1972年頃にスタジオ・ワンを離れるまで、スタジオ・ワンのレゲエ録音のほとんどを手掛けた。
若きモリスはいつもコントロール・ルームで踊りながら録音を行っていたという。モリスによれば、彼が参加した頃にはスタジオ・ワンの機材はかなり傷んでいた。マイクなどはドッドが落として、壊れかけているものが多かったという。レコーダーは2trしかなく、2台の2trのピンポンでオーバーダビングをしていた。この時期のスタジオ・ワンのサウンドがハイ落ちした丸い音なのは、そのせいもありそうだ。だが、スタジオ・ワンのビンテージ・レゲエの幽玄とも言える独特の雰囲気は、モリスが凝らした残響処理に負うところも大きかった。
モリスがやってきたときには、スタジオ・ワンにはヘッドリー・ジョーンズが製作したスプリング・リバーブがあるのみだったが、モリスはテープ・レコーダーの再生ヘッドの出力を録音ヘッドに戻すことで、サウンドにエコーを加えた。コーラス・グループの録音などでは、モリスはこのエコー処理をボーカル・トラックに多用した。ヘプトーンズの1968年のアルバム『On Top』などは分かりやすい例になりそうだ。前年のアルバム『Heptones』に比べると、ボーカル・トラックにかなり深いエコーがかかっている。また、アグレッシブなドラムのフィル・インが印象的だが、これはドラムの信号をギター・アンプに送り、その前にマイクを立てて、ミックスしたもののようだ。
コクソン・ドッドがイギリスでMAESTRO Echoplexを入手すると、モリスはそれも積極的に使った。Echoplexではディレイ・タイムが可変で、ギターやオルガンに付点音符のエコーを加えて、リズムを作り出すことができた。さらに、ドッドが入手した特別な機材にはARBITERのSoundimensionがあった。これはジミ・ヘンドリックスが愛用したFuzz Faceでも知られるARBITERが作った磁気ディスク式のエコー・マシンで、4つのヘッドで複雑なパターンのディレイを作り出すことができた。ディレイ・タイムを曲のテンポに合わせ、リズムを生み出すことにディレイを使うのは、今日では常識的なテクニックだが、モリスはその先駆者だった。
リー・ペリー「People Funny Boy」がもたらした衝撃
リー・ペリーが自身のアップセッター・レーベルを設立したのも1968年だった。ペリーは1967年にWIRLのスタジオを解雇されたが、新興プロデューサーのジョー・ギブスがそのペリーに声をかけた。1945年にモンテゴ・ベイで生まれたギブズは、1965年にキングストンで電気関係の修理店とレコード店を開設。1967年には店内に2trレコーダーを置いて、レコード制作を始めた。最初に録音したのはロイ・シャーリー「Hold Them」で、リン・テイト&ザ・ジェッツが演奏した同曲は、2つのコードだけで作られた最初期のロック・ステディの一つとして知られる。
ロイ・シャーリーの「Hold Them」が大ヒットして、幸先良いスタートを切ったギブスは、バニー・リーの協力を得て、アマルガメイテッド・レコードを設立。そこにリー・ペリーを引き入れた。先述のパイオニアーズのヒット曲「Long Shot」はその時期のギブスとペリーの仕事だ。しかし、彼らの関係も長くは続かなかった。
ギブスと別れたペリーに手を差し伸べたのもバニー・リーで、リーの口利きでイギリスのパマ・レコードと契約を得たペリーは、1968年にアップセッター・レコードを設立。その第1弾として、自身の名義で「People Funny Boy」を発表した。この「People Funny Boy」はリー・ペリーの初期の代表作であると同時に、レゲエという音楽が孕む狂気を象徴する一曲として記憶される。
「People Funny Boy」は曲としてはパイオニアーズの「Long Shot」の焼き直しと言っていい。メロディはほぼ同じだ。だが、リズム・トラックはぐっとダイナミズムを増し、ノコギリの歯のようなミュート・ギターは攻撃的でもある。歌詞には、ペリーを追い出して成功を独り占めしたジョー・ギブスへの恨みつらみが込められていた。
しかし、何より度肝を抜かれるのは、その冒頭からリズム・トラックに乗る赤ん坊の鳴き声だ。「People Funny Boy」は現実音を使ったミュージック・コンクレート的な音楽作品でもあったのだ。それにジャマイカの大衆は熱狂した。パイオニアーズの「Long Shot」はジャマイカ国内で2万枚のセールスだったが、リー・ペリーの「People Funny Boy」は6万枚のセールスを挙げたという。
1980年代に僕はドイツのホルガー・シューカイにインタビューしたことがある。シューカイは当時、短波ラジオが偶然拾った各地の民俗音楽をサンプリングした「ペルシアン・ラブ」で話題を巻いていた。現実音の使い方にリー・ペリーに通ずるものを感じて、話を向けてみると、シューカイはこう言った。
「リー・ペリーはジャマイカに生まれた私の兄弟だ」
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima