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ロック・ステディ〜レゲエとワンループ&低音【Vol.132】音楽と録音の歴史ものがたり

ロック・ステディから生まれたレゲエという言葉と音楽

 ロック・ステディの誕生は実質的にはレゲエの時代の始まりだったと言ってもいい。現代から見れば、ロック・ステディはレゲエの一種と考えても、全く差し支えないものだ。

 “レゲエ”という言葉が最初に使われた曲は、トゥーツ&メイタルズの1968年の「Do The Reggay」だったとされている。メイタルズのトゥーツ・ヒバートは1966年にマリファナの不法所持で懲役刑を受けたが、1968年に出獄すると、自らの囚人番号をネタにした「54-46 Was My Number」でカムバック。続いて、「Do The Reggay」でレゲエという新しい言葉を歌い込んだ。レゲエはもともとジャマイカのスラングでボロを意味する言葉で、日常的な普段着の音楽というような意味合いをトゥーツは込めていたようだ。

『The Best Of The Maytals』
The Maytals
(2016年/Trojan/Sanctuary)
「Do The Reggay」「54-46 Was My Number」などを収録したメイタルズのベスト盤。CDでは2枚組で計40曲を収録

 しかし、トゥーツが同曲を発表する以前から、レコーディングの現場ではレゲエという言葉が音楽のスタイルを指す用語として使われていたようだ。プロデューサーのバニー・リーと近しいシンガーのデリック・モーガンは、ロック・ステディという名称が気に入らなかったので、彼やリーの周辺ではギターのカッティングを模した“レゲ”という言葉が使っていたと語っている。

 バニー・リーについては、2012年にイギリスのレゲエ研究家、ノエル・ホークスとジャー・ロイドによる『Reggae Going International 1967 To 1976: The Bunny 'Striker' Lee Story』という書籍が出ている。リー自身の口からレゲエ創世記のジャマイカの音楽業界のことが語られる一冊だ。リーはスカの時代にはデューク・リードやレスリー・コングのためにレコードのセールスマンとして働いていたが、ロック・ステディの流行期の1967年にそれまでの経験や人脈を生かして、レコード・プロデュースの道に進んだ。

『Reggae Going International 1967 To 1976: The Bunny 'Striker' Lee Story』 Noel Hawks & Jah Floyd (2012年/Jamaican Recordings Publishing)

Reggae Going International 1967 To 1976: The Bunny 'Striker' Lee Story
Noel Hawks & Jah Floyd
(2012年/Jamaican Recordings Publishing)
1941年キングストンに生まれ、1960年代からヒットを手掛けたバニー・リーの評伝。リーのプロデュースによる22曲を収めたCDが付属する

 リーはスカからロック・ステディへの移行を主導し、ジャマイカの音楽シーンを変えたミュージシャンは、ギタリストのリン・テイトだったと断言している。テイトはトリニダード・トバゴ出身で、1962年のジャマイカの独立記念行事のためにスティール・パンのバンドの一員として、ジャマイカを訪れた。しかし、マネージャーにギャラを持ち逃げされて、トリニダードに帰国することができなくなり、バイロン・リーを頼って、ジャマイカで仕事を始めた。バイロン・リーは当初、テイトをオルガン奏者として使ったが、すぐに彼はギタリストとして頭角を現した。

 スカの時期にもテイトはスカタライツのメンバーなどとセッションを行っているが、その影響力が大きくなったのは1966年にピアニストのグラッドストーン・アンダーソンらとリン・テイト&ジェッツを結成してからだった。1966年にフェデラル傘下に生まれたメリトーン・レコードで、リン・テイト&ザ・ジェッツはハウス・バンドとして働いた。同年に同レーベルからリリースされたホープトン・ルイス「Take It Easy」がスカをスローダウンさせたロック・ステディの始まりだとテイト自身は語っている。ケン・クーリの息子のリチャード・クーリが制作し、リン・テイト&ジェッツが全面的にバックアップしたホープトン・ルイスの1967年のアルバム『Take It Easy with the Rock Steady Beat』は初期ロック・ステディを語るときには欠かせない名盤だ。

『Rock Steady Greatest Hits』
Lynn Taitt & The Jets
(2016年/Dub Store Records)
ロック・ステディ〜レゲエ草創期を支えたギタリスト、リン・テイト(1934〜2009年)がザ・ジェッツと残した音源をまとめたコンピレーション

ロック・ステディ〜レゲエの最重要楽器はシンコペートしたエレキベース

 ロック・ステディの流行とともに、キングストンのスタジオ・ミュージシャンの勢力図も変化した。リン・テイトと深い関わりを持つグラッドストーン・アンダーソンもロック・ステディ期に大活躍したミュージシャンだ。デューク・リードのスタジオ・バンドだったトミー・マクック&スーパーソニックスでも重要な働きをしたアンダーソンは、コクソン・ドッドやレスリー・コング、先述のバニー・リーなどのセッションでも引っ張りだことなる。多くの場合、リン・テイトもそこに呼ばれたが、パトワ(ジャマイカ英語)が苦手なテイトのために、アンダーソンは通訳の役目も負ったという。しかし、テイトは1968年にジャマイカを離れ、カナダへと移住。彼のジャマイカ音源への貢献はそこで途切れてしまう。

グラッドストーン・アンダーソン(1934〜2015年)は、スカ〜ロック・ステディ〜レゲエとジャマイカ音楽界で長年にわたって活躍した鍵盤奏者。映画『ラフン・タフ ~永遠のリディムの創造者たち~』(2006年)でもフィーチャーされた

グラッドストーン・アンダーソン(1934〜2015年)は、スカ〜ロック・ステディ〜レゲエとジャマイカ音楽界で長年にわたって活躍した鍵盤奏者。映画『ラフン・タフ ~永遠のリディムの創造者たち~』(2006年)でもフィーチャーされた
https://www.reggae-vibes.com/articles/obituary/2015/12/gladstone-anderson-the-go-to-session-player/

 スカタライツの最年少メンバーだったオルガン奏者のジャッキー・ミトゥーもロック・ステディ期にその存在感を増した。スカの時代はホーン・セクションがバンドの中心となっていたが、スモール・コンボでの演奏が多くなったロック・ステディでは、オルガンが重要な楽器になったのだ。1967年以後、ミトゥーがスタジオ・ワンに残したソロ・アルバムは、ロック・ステディ期のジャマイカのインスト作品を代表するものになった。

『Jackie Mittoo in London』Jackie Mittoo(1967年/Coxsone/Studio One)

『Jackie Mittoo in London』
Jackie Mittoo
(1967年/Coxsone/Studio One)
ミトゥーのオルガンのリードを軸に、抑制の効いたビート、ミュートのかかったギターとベースが軽やかなロック・ステディ・インスト作。プロコル・ハルム「青い影」、ビー・ジーズ「マサチューセッツ」など当時のヒット曲もカバー

 しかし、その後のレゲエ・ヒストリーを踏まえて考えるならば、ロック・ステディ以後、ジャマイカ音楽で最も重要な楽器となったのはベースだった。スカの録音ではアコースティック・ベースが使われることが多かったが、ロック・ステディではエレクトリック・ベースの使用が標準となった。ホープトン・ルイスの「Take It Easy」では、シンコペートしたギター・リフとそのオクターブ下のベース・ラインが最初に提示され、ベースは曲中でもずっとそれをキープする。このベースもリン・テイトが演奏したものと思われる。彼が「Take It Easy」をロック・ステディの最初の録音としたのは、このベース・ラインを主体とした曲構造ゆえだろう。

『Take It Easy With The Rock Steady Beat』
Hopeton Lewis
(1967年/Merritone)
リード曲「Take It Easy」はゆったりとしたリズムにクリアなルイスのボーカルが乗る、初期ロック・ステディの代表曲

 同じく、ロック・ステディの最初の一曲とされることが多いアルトン・エリスの「Girl I’ve Got A Date」も、ギター・リフとオクターブ下のベース・ラインが最初に提示され、ベースがシンコペートしたリフをキープする曲構造を持っている。演奏はトミー・マクック&スーパーソニックス。ベーシストはジャッキー・ジャクソン。ジャクソンはモータウンのジェームズ・ジェマーソンに強い影響を受けたエレクトリック・ベース奏者で、この頃はまだ10代だった。しかし、彼が「Girl I’ve Got A Date」で弾いたベース・ラインはその後、アメリカのソウル・ミュージックにも影響を与えることになる。ステイプル・シンガーズが1972年に放ったヒット曲「I’ll Take You There」はマッスル・ショールズ録音だが、デヴィッド・フッドが弾いたそのベース・リフは明らかに「Girl I’ve Got A Date」の影響下にある。

ジャッキー・ジャクソン(1947年〜)が自身のベース・ラインについて語るYouTube動画(2023年)
『Be Altitude: Respect Yourself』
The Staple Singers
(1972年/Stax)
「I'll Take You There」を収録。同曲のアレンジについては、ハリー・J・オールスターズ「The Liquidator」(1967年)の影響とされているが、「Girl I’ve Got A Date」(1965年)のヒットの方が早いため、ジャッキー・ジャクソンの弾いたベース・ラインがジャマイカで広まったと考えるのが自然だろう

ワンループで構成された「Real Rock」のリディム

 ロック・ステディ以後、ベース・ラインを軸に展開するようになったジャマイカ音楽では、最初から最後までベースが同じリフを繰り返すだけの曲が増えていく。象徴的な一曲は1967年にスタジオ・ワンで録音されたサウンド・ディメンジョン「Real Rock」だ。サウンド・ディメンジョンはスタジオ・ワンのハウス・バンド、ソウル・ヴェンダーズの変名。この「Real Rock」はジャッキー・ミトゥーのオルガンとヴィン・ゴードンのトロンボーンをフィーチャーしたインスト作品だが、ボリス・ガーディナーの弾くベース・ラインは最後まで微動だにしないワンループだ。

▲サウンド・ディメンジョン『Real Rock』シングルのレーベル。ジャッキー・ミトゥーが刻むオルガンの上で、ヴィン・ゴードン(tb)がメロディを奏でる

サウンド・ディメンジョン『Real Rock』シングルのレーベル。ジャッキー・ミトゥーが刻むオルガンの上で、ヴィン・ゴードン(tb)がメロディを奏でる
https://www.discogs.com/ja/master/254474-Sound-Dimension-Real-Rock

ヴィン・ゴードン(1949年〜)。スカタライツを経て、スタジオ・ワンでセッション・プレイヤーとして活躍し、ボブ・マーリーの作品にも参加。1980年代にはUKに渡りアスワドのサポートも務めた

ヴィン・ゴードン(1949年〜)。スカタライツを経て、スタジオ・ワンでセッション・プレイヤーとして活躍し、ボブ・マーリーの作品にも参加。1980年代にはUKに渡りアスワドのサポートも務めた
https://www.facebook.com/vin.gordon/

ボリス・ガーディナー(1943年〜)はシンガーとしても活躍。後年「Elizabethan Reggay」(1969年)、「I Wanna Wake Up with You」(1986年)といったヒットも放つ。「Every Nigger Is a Star」がケンドリック・ラマー『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』にサンプリングされたことでも知られる

ボリス・ガーディナー(1943年〜)はシンガーとしても活躍。後年「Elizabethan Reggay」(1969年)、「I Wanna Wake Up with You」(1986年)といったヒットも放つ。「Every Nigger Is a Star」がケンドリック・ラマー『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』にサンプリングされたことでも知られる
https://www.musicunitesjamaica.com/boris-gardiner.html

 この「Real Rock」のリズム・パターンはその後のレゲエ・ヒストリーの中で数多くのヒット曲を生み出し、ジャマイカ人が“リディム”と呼ぶヒット・リズムの代表格となった。スタジオ・ワンが最初に「Real Rock」リディムを再利用したのは1977年のウィリー・ウィリアムス「Armagideon Time」だと思われるが、これは1979年にはクラッシュにカバーされ、ロック・ファンの興味も引きつけた。1979年にミシガン&スマイリーが発表した「Nice Up The Dance」は、2人のディージェイの掛け合いによるラバダブ(Rub-A-Dub)スタイルが人気を呼び、ダンス・ホール・レゲエのブームを引き寄せた。

『Armagideon Time』
Willie Williams
(1982年/Studio One)
「Armagideon Time」は「Real Rock」のトラックにボーカルを乗せた楽曲で、反響を受けて2ndアルバムにタイトル曲として収録。ジム・ジャームッシュ監督の映画『ゴースト・ドッグ』(1999年)にも採用された
『Hits Back』
The Clash
(2013年/Sony UK)
1982年のライブのセット・リストを元に、スタジオ録音音源を収録したベスト。「Armagideon Time」はシングル「ロンドン・コーリング」(1979年)のB面が初出

『Rub-A-Dub Style』Michigan & Smiley(1979年/Studio One)

『Rub-A-Dub Style』
Michigan & Smiley
(1979年/Studio One)
「Nice Up The Dance」は「Real Rock」にパーカッションや電子音を乗せ、その上でパパ・ミシガンとジェネラル・スマイリーの掛け合いが展開

 他レーベルでもデニス・ブラウン「Stop The Fussing & Fighting」、ジュニア・マーヴィン「Cool Out Sun」、ジョニー・オズボーン「Lend Me Your Choppe」など、「Real Rock」リディムに乗せたレゲエ・ヒットが次々に作られた後、1980年代後半のデジタル化したダンス・ホール・レゲエのブームの中でも、「Real Rock」リディムはさらに人気爆発した。21世紀に入っても、その人気は全く衰えていない。同じリディムが全曲で使用され、シンガーやディージェイが喉を競い合うコンピレーション・アルバムの構成をワンウェイと呼ぶが、「Real Rock」リディムを使用したワンウェイのアルバムも数多くあるので、その使用例はもはや数えることすら難しい。

現代のヒップホップやR&Bに連なるヘビーな低音を生み出した鍵

 ロック・ステディ期のジャマイカ音楽とアメリカ音楽の関係はとても面白い。アメリカでは1967年にはジェームス・ブラウンが「Cold Sweat」を発表している。「Cold Sweat」はマイルス・デイヴィスの「So What」にインスパイアされ、JBがブルース進行から脱したファンク・ミュージックへと進んだ一曲だった。しかし、「Cold Sweat」にはまだ途中でコードが展開するパートがある。JBが完全に最初から最後までワン・リフのファンク・チューンを生み出すのは1968年の「I Can’t Stand Myself When You Touch Me」以後だ。ワンループのリズム・トラックで勝負するダンス・ミュージックの展開は、ジャマイカの方が一歩先んじていたと言ってもいいだろう。

『I Can't Stand Myself When You Touch Me』
James Brown
(1968年/Motown)
「I Can't Stand Myself When You Touch Me」のヒットを受けてシングル曲を中心に編成したアルバム。表題曲の生演奏によるループ感が強力出

 エレクトリック・ベースのリフを軸にしたロック・ステディ以後のジャマイカ音楽は、ヘビーな低音への志向性を研ぎ澄ませていく。1970年代以後、ジャマイカのレゲエが世界中で人気を拡大した理由のひとつに、低音重視の音響快楽があったのは間違いない。現代のヒップホップやR&Bのボトムエンドの作りも、明らかにジャマイカのレゲエのそれの延長線上に作られている。

 2022年に出版されたレイ・ヒッチンスの『Vibe Merchants: The Sound Creators of Jamaican Popular Music』は、ジャマイカのポピュラー音楽の音響的な特殊性を論じた一冊だ。ヒッチンスは英国出身で、1970年代にはニューポートというポップ・ロック・バンドで活動した経歴を持つが、1981年にジャマイカに移住。ウェスト・インディーズ大学で文化研究する傍ら、ギタリストとしてレゲエのレコーディングに参加もしている。

『Vibe Merchants: The Sound Creators of Jamaican Popular Music』Ray Hitchins(2014年/Routledge/Ashgate)

Vibe Merchants: The Sound Creators of Jamaican Popular Music
Ray Hitchins
(2014年/Routledge/Ashgate)
UKとジャマイカの両方でミュージシャンとして活動してきた著者が、ジャマイカにおけるポピュラー音楽の誕生と発展をエンジニア、スタジオ、ミュージシャンなどの視点から論じた一冊

レイ・ヒッチンス。1970年代末にニューポートというバンドでデビュー後、1981年にジャマイカに渡り、ギタリストや音楽ライターとして活動。ジャマイカ音楽の発展におけるエンジニアの役割についての研究でリーズ大学で民俗学の博士号を取得し、2012年よりジャマイカのウェスト・インディー大学で教鞭を執る

レイ・ヒッチンス。1970年代末にニューポートというバンドでデビュー後、1981年にジャマイカに渡り、ギタリストや音楽ライターとして活動。ジャマイカ音楽の発展におけるエンジニアの役割についての研究でリーズ大学で民俗学の博士号を取得し、2012年よりジャマイカのウェスト・インディー大学で教鞭を執る
https://www.mona.uwi.edu/humed/ics/dr-ray-hitchins

 『Vibe Merchants』でヒッチンスは他の世界では例を見ないジャマイカのポピュラー音楽における低音の強調に着目し、ミュージシャンやプロデューサーに比べて過小評価されがちなオーディオ・エンジニアの働きを解析した。

 ヒッチンスによれば、ジャマイカのオーディオ・エンジニアは早くから独自のレコーディング・テクニックを凝らしていた。グレアム・グッドールはRJRスタジオで仕事していた時代に、キックの収録のためにマイクロフォンを自作している。RJRスタジオにはRCA 44BXリボン・マイクもELECTRO-VOICE 666のようなダイナミック・マイクもあったが、どちらもキックの低音の収録には不十分だと考えたグッドールは、カー・ラジオ用のスピーカーをマイクロフォンに改造し、キック・ドラムの前に立てていたそうだ。

ELECTRO-VOICEの単一指向性ダイナミック・マイク、666。XLRコネクターの1番ピンへの結線を変えることで出力インピーダンスを切り替えることができた

ELECTRO-VOICEの単一指向性ダイナミック・マイク、666。XLRコネクターの1番ピンへの結線を変えることで出力インピーダンスを切り替えることができた

 グッドールはエレキギターの録音ではトランスを挟んで、マイクを使わないダイレクト・レコーディングを行っていたという。モータウンよりも早くDIによるエレクトリック・ギター録音を行っていたと言ってもいいだろう。スカの録音が始まった当初から、ジャマイカのレコード・プロダクションは機材的にも技術的にも高いレベルにあったことをヒッチンスは強調する。

 ジャマイカのポピュラー音楽がベース・ライン中心の構造になるのは1960年代後半以後だったが、低音への欲求はそれ以前からジャマイカ民衆の中に存在していたともハッチンスは論じる。

 フェデラル・スタジオのケン・クーリは1960年代の初めにはFAIRCHILD 660コンプレッサーとPULTEC EQP-1Aイコライザーを購入していた。1961年にフェデラルのエンジニアとなったグッドールはこれらを使って、マスタリング〜カッティングのサービスを始めたが、RIAAの基準に準拠し、北米やイギリスの市場向けのマスタリングを行っても、コクソン・ドッドのようなクライアントを満足させることはできなかった。

 そこでグッドールがコクソンのサウンド・システムに足を運んだというエピソードが『Vibe Merchants』ではグッドール自身によって語られている。ボーカルの明瞭さはそれほど重要ではない。人々はダンスのためにサウンド・システムにやってくるのであり、彼らを強力にドライブするリズムを求めている。そう悟ったグッドールはその日から、マスタリングの方向性を変えたという。

 さらにヒッチンスはジャマイカのラジオ事情についての誤解も正している。スカの誕生以前、ジャマイカの人々はマイアミから届くラジオでアメリカのリズム&ブルースを聴いていたという話が、レゲエ・ヒストリーの中で多く語られてきた。しかし、マイアミからの電波は届いていても、貧しいジャマイカの一般民衆はほとんどラジオを持っていなかった。ジャマイカでラジオが普及するのは1960年代以後、小型のトランジスター・ラジオが登場してから。それ以前の真空管ラジオは当時のジャマイカの電源環境が110V/40Hzだったため、改造を施さないと、動作が不安定で使い物にならなかったのだそうだ。

 つまり、1950年代のジャマイカの民衆はラジオを通じて、アメリカのリズム&ブルースに親しんでいたのではなかった。しかし、彼らは18インチ・ウーファーの巨大なスピーカー・システムで再生されるリズム&ブルースには親しんでいた。それはアメリカ本国ではほとんど誰も体験していないサウンドだった。

 先頃、邦訳された『アイランダー クリス・ブラックウェル自伝』の中で、ブラックウェルもこう証言している。サウンド・システムの骨まで震わせるような音響は、ザ・フーやレッド・ツェッペリンが登場するまで、ジャマイカ以外の場所では誰も体験していなかったと。

『アイランダー クリス・ブラックウェル自伝』クリス・ブラックウェル著、吉成伸幸訳(2024年/アルテスパブリッシング)

アイランダー クリス・ブラックウェル自伝
クリス・ブラックウェル著、吉成伸幸訳
(2024年/アルテスパブリッシング)
第128回で取り上げたアイランド・レコードの創始者、クリス・ブラックウェルの自伝(原著は2022年/Nine Eight Books)。自身の生涯と同様、ジャマイカとUKの音楽シーンを行き来する

 

高橋健太郎

高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash

Photo:Takashi Yashima

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