スカ・ヒットを量産する初期スタジオ・ワンで使われていた機材
コクソン・ドッドが自身のレコーディング・スタジオを設立したことが、ジャマイカ音楽の発展のターニング・ポイントになったことは間違いない。初期のドッドのスタジオの内部については、これまで極めて限られた情報しかなかったが、2024年にイギリスのプレッシャー・サウンド・レーベルがリリースしたスカのコンピレーション・アルバム『Ska Shots』に、多くの関係者証言を含む解説が添えられていた。レゲエ研究家でもあるフルート奏者のディゴリー・ケンリックが執筆したこの解説のおかげで、初期のスタジオ機材などもかなり判明した。
ドッドは1961年にブレントフォード・ロードの酒屋の中にスタジオを開設したが、それがスタジオ・ワンの名のもとに本格稼働したのは1963年の終わり頃だった。スタジオの機材面はアンプ・ビルダーのヘッドリー・ジョーンズが全面的に協力した。ジョーンズは1959年頃からギタリストとしてドッドのレコーディング・セッションに参加していたという。
スタジオ・ワンの最初のエンジニアとなったのはドッドの従兄弟のシド・バックナーで、彼はフェデラル・スタジオが放出したモノラルのAMPEX 350レコーダーをスタジオ・ワンに運び入れた。ミキサーはそのモノラル・レコーダーに合わせて、ジョーンズが製作した。数チャンネルのマイク入力があるものだったとジョーンズ自身が語っている。モニター・システムなどもジョーンズが製作し、息子二人とともにスタジオへ設置したという。ジョーンズはスプリング・リバーブも製作したが、エコー・マシンはドッドがイギリスからMAESTRO Echoplexを買って帰ってくるまではなかったそうだ。
ジョーンズは1964年4月のウェイリング・ウェイラーズの「It Hurts to Be Alone」のセッションにも居合わせたという。だが、ドッドから機材の製作費が支払われないのに嫌気がさして、1965年にはキングストンを離れて、モンテゴベイに移住し、以後、スタジオとの関わりはなくなった。
シド・バックナー以外に、初期のスタジオ・ワンで働いたエンジニアにはキース・スティッキー・パークもいた。パークはラジオ局のRJRで働いていたが、暇があれば、スタジオ・ワンのレコーディングを手伝っていたという。パークはスカタライツのレコーディングにRCA 44BXやNEUMANNの真空管マイクを使用したことを記憶している。ジョーンズの製作したミキサーは、1965年頃にレコーダーが2trになったのに合わせて、市販のミキサーに交換されたようだ。しかし、スカタライツの録音はほとんどがモノラル時代のスタジオ・ワンで行われている。
スタジオ・ワンに対抗したデューク・リードのトレジャー・アイル・スタジオ
スタジオ・ワンを建設したコクソン・ドッドは、レコード制作においてはライバルのデューク・リードよりも優位に立った。スカの黄金時代を築いたのは間違いなくドッドのスタジオ・ワン・レーベルであり、リードはレコード制作の積極性においては、プリンス・バスターや1962年にビヴァリーズ・レーベルを興したレスリー・コングにも遅れを取った。
1959年にコクソンの下から独立して、サウンド・システムを始めたプリンス・バスターは、米国に旅行してリズム&ブルースのレコードを買い集めてくる資金を持たなかったため、ジャマイカ録音のレコードを量産する道に進んだ。バスターはイギリスのメロディスクが1960年に設立したサブレーベル、ブルー・ビートと結びつき、数多くのヒット曲を同レーベルに提供して、スカがジャマイカの外側に広がっていく機運も作り出した。
リードははるかに資金力もあったが、ライバルのサウンド・システムが持っていない曲を所有するための手段として、レコード制作に取り組んだものの、1960年代の初め頃にはまだ、その商業的可能性を十分に認識していなかったようだ。リードがレコード制作に本腰を入れて、重要なスカ・ヒットを放つようになるのは1962年以後のことだ。
デューク・リード制作のスカ時代の大ヒット曲にはストレンジャー・コール「Rough and Tough」(1962年)やジャスティン・ハインズ「Carry Go Bring Back Home」(1963年)がある。前者は当時のキングストンのルード・ボーイ旋風を象徴する一曲、後者はラスタのメッセージが込められた最初のヒット曲のひとつだと言われる。しかし、当時はまだリードはスタジオを所有しておらず、ジャスティン・ハインズの同曲もレコーディングはフェデラル・スタジオで行われている。
デューク・リードがキングストンのボンド・ストリートに所有する酒屋の階上にトレジャー・アイル・スタジオを設立したのは1964年だった。巻き返しを図るべく、リードはスタジオに2trレコーダーを導入。スタジオ・ワンに先んじて、2tr録音を可能にした。それはダブの成立に不可欠なマルチトラック化の第一歩でもあった。
トレジャー・アイル・スタジオの最初のエンジニアはバイロン・スミスだった。スミスはRJRのエンジニアとして働きつつ、フェデラル・スタジオのグレーム・グッドールの下で録音のノウハウを学んだ後、トレジャー・アイルに迎え入れられた。トレジャー・アイルの内装は木造で、コンクリート造のスタジオ・ワンとは対照的だったという。シンガーのアルトン・エリスは、スタジオ・ワンにはないくつろげる雰囲気だったと語っている。機材面についてはほとんど資料が得られないが、1967年頃のコントロール・ルームの写真にはPULTECのEQや真空管コンプレッサーと思われるアウトボードも写っている。サウンド・システムで競い合ったドッドとリードが、同じようにスタジオの設備においてもライバル心を燃やしたことは想像に難くない。
1966年のロック・ステディ流行 歌ものに求められたテンポ・ダウンの傾向
トレジャー・アイル・スタジオが本格稼働した1965年はジャマイカ音楽の転換期となった。この年の1月2日、スカタライツの中心にいたトロンボーン奏者のドン・ドラモンドの自宅で、彼の恋人だったアニタ・マーフードが刺殺体で発見された。マーフードはマルガリータの名で知られるダンサーで、シンガーでもあった。
ドラモンドは彼女が庭で何者かに刺されたと主張したが、殺人の罪で逮捕された。翌年の裁判でドラモンドは精神障害と認定されて、精神病院に収容され、1969年に35歳の若さでこの世を去った。ドラモンドを失ったスカタライツは1965年の夏には分裂し、この1965年がスカ流行の最後の年となった。翌1966年にはスカに代わって、ロック・ステディが大流行し、ジャマイカの音楽シーンの様相は一変する。
ロック・ステディはスカよりもぐっとテンポを落としたスタイルだった。1966年の夏があまりに暑かったので、ロック・ステディの流行が生まれたとする俗説もある。だが、スカ・ブームの終焉はジャマイカの音楽業界の変化とも深く結びついていた。サウンド・システムのオーナーが独自のダブプレートを制作するところから始まったジャマイカのレコード産業も、この頃にはレコード・セールス自体で収益を上げ、海外でのディストリビューション契約も得るようになっていた。スタジオ・ワンやトレジャー・アイル以外にも、ビヴァリーズ、ランディーズ、トップデックなどのレーベルが始動。バイロン・リー&ザ・ドラゴネアーズのリーダー、バイロン・リーもレコード制作に参入した。
人口200万人にも満たない小さな島国が、レコードを量産するようになったのは優れたシンガーやコーラス・グループの宝庫だったからでもある。コクソン・ドッドやデューク・リードがオーディションを開催すると、いつも100人以上の応募者が列を成したという。だが、問題はシンガーをバックアップするスタジオ・ミュージシャンは限られていたことだった。スカの時代にはスカタライツ周辺のミュージシャンがさまざまなレーベルの仕事を掛け持ちしていた。
スカはジャマイカ版のジャズという側面も持ち、インストゥルメンタルの曲も多く制作された。だが、シンガーにとっては、アップテンポのスカは制約のあるスタイルだった。テンポを落とした曲となると、ハチロク(6/8拍子)のバラードになってしまう。ミディアムテンポの曲があまり見当たらないのが、1960年代前半のジャマイカのポップ・ソングだった。
優れたシンガーやコーラス・グループが次々にデビューし、ジャマイカの音楽シーンが歌もの中心になっていくにつれ、テンポ・ダウンへの欲求が高まるのは必然だっただろう。ドン・ドラモンドに刺殺されたアニタ・マルガリータ・マーフードが1964年にトレジャー・アイルで録音したシングル「Woman Come」なども、バックはスカタライツながら、テンポ・ダウンへの志向がうかがわれる一曲だった。マルガリータはレバノンやシリアにルーツを持つ一方で、カウント・オジーのラスタ・コミューンにも深く関わっていた。「Woman Come」はラスタのナイヤビンギ音楽の色が強い一曲だが、そのテンポ感はロック・ステディにも通じている。
アトランティックとも関係を持った“エレキベース奏者”バイロン・リー
トゥーツ・ヒバートをリード・シンガーにしたメイタルズも、減速への志向性を打ち出したグループだった。スタジオ・ワンから当初はヴァイキングズの名でデビューしたこのコーラス・トリオは、1962年から1963年にかけてスカ・ヒットを連発。それらはスタジオ・ワンからの『Never Grow Old』というアルバムに聴ける。しかし、金銭問題でコクソン・ドッドとは離反し、プリンス・バスターと組んだ後、1964年からはバイロン・リーのもとでレコーディングを続けた。
1965年に発表されたメイタルズのアルバム『Sensational Maytals』はバイロン・リー制作で、フェデラル・スタジオ録音だが、エンジニアにはケン・クーリに加え、トム・ダウドの名もある。この頃、アトランティック・レコードはスカに興味を向け、バイロン・リーやプリンス・バスターの音源を使用した『Jamaica Ska』というコンピレーション・アルバムを1964年にリリースしている。バイロン・リー制作のメイタルズも2曲、そこに収録されているが、その録音に際してはトム・ダウドがジャマイカに赴いて、エンジニアリングに関わったのかもしれない。バイロン・リーは後にアトランティックの援助を得て、キングストンにダイナミック・サウンズ・スタジオを開設する。
『Sensational Maytlas』はスカを基本にはしているが、バックを務めるドラゴネアーズのスカはリズムが緩く、中には「I Know」のようにスカではなく、ミディアムテンポの8ビートのような曲もある。また、バイロン・リーはジャマイカで初めてエレクトリック・ベースを使用したベース奏者でもあった。ロック・ステディではベースはエレクトリックが標準になるが、その辺りでも『Sensational Maytlas』はスカからロック・ステディへの移行期を思わせるアルバムだ。
1966年にはメイタルズとバイロン・リー&ザ・ドラゴネアーズはジャマイカの独立記念のソング・フェスティバルのために「Bam Bam」という曲を制作した。「Bam Bam」はアフロ・ラテン的なパーカッションを使ったミディアムテンポの曲で、フェスティバルで見事優勝するが、その直後、トゥーツ・ヒバートがマリファナの不法所持で逮捕されてしまう。ヒバートは2年間の服役を喰らい、メイタルズはロック・ステディの本格的なブームがやってくる前に、シーンから姿を消してしまった。
ロック・ステディを代表するシンガー、アルトン・エリス
ロック・ステディを代表するシンガーは誰よりもアルトン・エリスだった。ロック・ステディというジャンルの名称も、エリスが1966年に発表したシングル「Rock Steady」に由来している。
エリスはコクソン・ドッドが最初に契約したデュオ、アルトン・エリス&エディ・パーキンスの片割れだったが、やはり金銭問題でドッドから離反。音楽界からも退いて、一時期は印刷会社で働いていた。しかし、音楽の夢を捨てられず、1964年にジョン・ホルトとのデュオ、アルトン&ジョンで復帰。ランディーズに数枚のシングルを残した後、コーラス・トリオのアルトン・エリス&ザ・フレイムスを結成して、トレジャー・アイルの門をたたいた。
アルトン・エリス&ザ・フレイムスはトレジャー・アイルでリズム的にはまだスカに近いものの、歌詞的にはアンチ・ルード・ボーイのメッセージを持つ曲を打ち出した。1965年の「Don’t Trouble People」は文字通り、人に迷惑をかけるなという曲だったし、同年の「Blessing Of Love」では“撃つのはやめろ、殺しあいはたくさんだ、拳銃を置いて、友情を示そう”と歌っている。こうしたエリスのジェントルなキャラクターも、ロック・ステディの時代を呼び寄せるものだった。
1965年の終わりに発表された「Girl I've Got A Date」はブルージーなR&Bタイプの曲だが、そのベース・ラインと3拍目にキックが落ちるワンドロップのドラム・パターンの絡みは、完全にスカから脱した新しいリズムを示すものだった。「Rock Steady」という曲が登場するのは1966年の9月だが、それ以前のアルトン・エリスの曲の中で、ロック・ステディの世界観は熟成されていったと言っていい。デューク・リードはスカではコクソン・ドッドに遅れを取ったが、ロック・ステディの成立はリードのトレジャー・アイル・スタジオが主な舞台となった。常に拳銃を携帯し、すぐにぶっ放す危険な男として知られたリードだが、音楽プロデューサーとしてはジェントルでスウィートなロック・ステディを手掛けて、シーンをけん引したのだ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima