後のダブの創始者=キング・タビーのサウンド・システムでも主力となったスカ
ジャマイカの音楽シーンの特殊性は、ジャマイカ独自のポピュラー音楽が躍進を始める以前に、アメリカのリズム&ブルースのレコードをかけて踊る野外ディスコ=サウンド・システムの中で形成されていた。それはライブ・ミュージックではなく、レコーディング・ミュージックで踊る文化だった。ダンサーたちを熱狂させるために、トム・ザ・グレート・セバスチャン、デューク・リード、コクソン・ドッド、キング・エドワーズといったサウンド・システムのオーナーたちは巨大なオーディオ・システムを組み上げ、その音質を競い合った。そして、1960年代以後になると、サウンド・システムのオーナーたちがジャマイカのポピュラー音楽を産業化していった。
ダブプレートという発明品も、サウンド・システムの競争の中で生み出されたものだった。アメリカのレコード産業が33回転の12インチや45回転の7インチの生産に移行しても、サウンド・システムのオーナーたちは78回転のSP盤のサウンドを好んだ。ダンサーたちの反応が違ったからだ。そこで彼らはアメリカのリズム&ブルースを78回転のアセテート盤にカットし直した。サウンド・システム用に1枚だけカットされたスペシャル・ディスク。それをジャマイカ人はダブプレートと呼んだ。そのダブプレートの制作の過程で、ダブ・ミックスという革命的な手法も生み出されるのだが、ただし、それはずっと後のレゲエ時代になってからの話である。
ダブの創始者として名高いサウンド・エンジニア、キング・タビーが音楽と関わるようになったのも、1950年代のサウンド・システムを通じてだった。本名をオズボーン・ラドックというタビーは、1941年にキングストンで生まれた。デューク・リードとコクソン・ドッドの抗争の時代に、タビーは学校で電気技術を学び、小さなラジオ修理店を始めた。タビーの住むキングストンのウォーターハウス地区には、個人が持つ小規模なサウンド・システムがたくさんあったという。タビーはその機材修理を請け負うとともに、自身でもサウンド・システムも持つようになった。とはいえ、1958年、17歳の頃に始めたとされる最初のサウンド・システムは趣味のレベルだったようだ。
2024年に邦訳されたティボー・エレンガント著『キング・タビー ダブの創始者、そしてレゲエの中心にいた男』では、タビー自身のインタビューや当時のタビーを知る友人の話から、タビーのサウンド・システム、ホームタウン・ハイファイが本格始動したのは1964年だと結論づけられている。タビーが組み上げたアンプやスピーカーのサウンドは評価が高かったようだ。
同書に登場するタビーの友人、ストーニーの話は1964年頃のジャマイカのサウンド・システムの姿を知る上でも興味深い。ホームタウン・ハイファイのセレクターでもあったストーニーは、早い時間にウォームアップとしてプレイするのはモータウンやドリフターズ、サム・クックなどのアメリカのR&Bだったが、それからスカ・タイムとなる。俺たちのフェイバリットはスカタライツだったと述べている。ジャマイカ独自のダンス・ミュージック、スカがサウンド・システムの主力になる時代がやってきていたことが分かる。
コクソン・ドッドのスタジオ・ワンとスカ 〜 ウェイリング・ウェイラーズの史実
そのスカの大躍進を支えた最大の功労者はコクソン・ドッドだった。1959年に最初のレーベル、ワールディスクを設立したドッドは、当初はフェデラル・スタジオを借りて、レコーディングを行っていたが、1961年には自身が経営するブレントフォード・ロードの酒屋の中にスタジオを開設。1963年にはそれをスタジオ・ワンと命名するとともに、同名のレーベルも設立した。数えきれないほどのビンテージ・レゲエの名盤を生むことになるスタジオ・ワン・レーベルのスタートだ。
スタジオ・ワンの歴史を体感するには、2002年にソウル・ジャズ・レコードが製作した『Studio One Story』というDVDとCDのセットが最良の資料となるだろう。コクソン・ドッドは2004年に死去するが、この『Studio One Story』は生前のドッドの全面的な協力を得て制作されたもので、ドッド自身がスタジオ・ワンの歴史を語り、キングストンの思い出の場所を歩くシーンなどもある。キング・スティット、ケン・ブース、ホレス・アンディほか、数多くのミュージシャンの証言も交えた4時間にも及ぶDVDの映像は圧巻だ。
ロックンロールの時代がやってきて、ジャマイカ人が好むようなアメリカのリズム&ブルースのレコードが供給されなくなったとき、ドッドはジャマイカのミュージシャンと音楽制作を始めた。当初は自身のサウンド・システム用のダブプレート制作が主眼だった。スタジオを設立したのは、時間を気にせず、レコーディングに集中するためだった。
やがて、ドッドのスタジオでは毎日、朝の10時から夕方の5時くらいまでレコーディングが続けられるようになった。それ以前、ジャマイカのミュージシャンの仕事場はほとんどがホテルだったが、ドッドのスタジオではホテルよりも良いギャラがコンスタントに稼げるようになった。ミュージシャンたちはホテルではカリプソやバラードの曲を演奏していたが、スタジオでは自分たちの創造する新しい音楽に向かうことができた。それがスカだった。
2024年に日本公開された映画『ボブ・マーリー:One Love』の中には、ボブ・マーリーを含むティーンエイジャーのグループ、ウェイリング・ウェイラーズがスタジオ・ワンでドッドのオーディションを受けるシーンがある。グループは最初にジュニア・ブレスウェイトが歌うバラードの「It Hurts to Be Alone」を披露。ドッドにアメリカの音楽の真似じゃダメだ、何年かしたらまた来い、とあしらわれるが、もう一曲、マーリーが歌うアップテンポのスカ・チューン「Simmer Down」を演奏すると、ドッドが戻ってきて、「レコーディングしよう」と告げる。初期のウェイラーズや当時のキングストンの雰囲気が伝わる、映画中でも見どころのワンシーンだ。
ただし、史実は映画とは少し異なっている。ウェイリング・ウェイラーズは1963年に、既にスタジオ・ワンでの録音を経験していた先輩のシンガー、ジョー・ヒグズの紹介で、ドッドのオーディションを受けた。オーディションはスタジオ内ではなく、スタジオの外のマンゴーの木の下で、毎週日曜日に行われていた。ドッドは「It Hurts to Be Alone」を聴いて、最年少のブレスウェイトのハイトーン・ボイスを気に入った。ブレスウェイトが書いた「It Hurts to Be Alone」もスタジオ・ワンで録音され、同曲もキングストンの街をにぎわすヒット曲になった。だが、ブレスウェイトは1964年にウェイリング・ウェイラーズを脱退、渡米したため、その後のウェイラーズの成功物語からは姿を消している。
スタジオ・ワンとスカの中心に居たアーネスト・ラングリン
1964年発表のウェイリング・ウェイラーズ「It Hurts to Be Alone」では、ギタリストのアーネスト・ラングリンが大活躍しているが、彼はドッドのスタジオに集まるミュージシャンの中心となった一人だった。ラングリンは1931年生まれで、1940年代からビッグ・バンドに参加し、海外ツアーの経験も持っていた。バハマのナッソーで演奏していたラングリンをレス・ポールが偶然、見かけて、その流麗なギター・プレイに驚嘆したという逸話も残っている。
前号で触れた、スカを最初に演奏したグループと目されるクルー・J&ブルース・ブラスターズのギタリストもラングリンだった。実質的にはグループを率いていたのもラングリンだったが、ジャズ・プレイヤーとして高級ホテルを仕事場としていた彼は、R&Bやスカの録音に自身の名前を使いたくなかったため、ベース奏者のクルーエット・ジョンソンをリーダーのグループに見せかけていたということだ。
スカという音楽の名称は、ジョンソンがギタリストに“スキャスキャというリズムをくれ”と言ったところから始まったという説があるが、ラングリンはこれを否定し、最初のスカは1959年にドッドがフェデラル・スタジオで録音したセオフィラス・ベックフォードの「Easy Snappin」だと明言している。同曲はベックフォードがピアノを弾きながら歌っていて、スカに特徴的な裏打ちのビートはギターではなく、ピアノが出している。
ラングリンはデューク・リードのセッションでも働き、1961年にプロデューサーのレスリー・コングが設立したビヴァリーズ・レーベルでも、数多くのセッションを率いた。実はプリンス・バスターのスカ・ヒットにも貢献していたのだが、ドッドやリードに気兼ねしてか、匿名でベーシストとして参加していた。
スカが併せ持つラスタの伝統文化とゲットーの暴力性
ジャマイカ独自の音楽スタイルであるスカの大流行の背景には、1962年8月6日にジャマイカが英連邦からの独立を果たしたこともあった。ドッドのスタジオで働くミュージシャンたちが、スカタライツの名でグループを結成したのも、独立後の高揚感と社会意識の高まりに押された部分があったように思われる。スカタライツは多くのシンガーやコーラス・グループのレコーディングをバックアップするだけでなく、1964年から19
65年にかけては彼ら自身の名義で、数多くのインスト曲を録音した。
スカタライツの管楽器奏者であるトロンボーン奏者のドン・ドラモンドやサックス奏者のトミー・マクック、レスター・スターリング、トランペット奏者のジョニー・ムーアらはキングストンの東端にあるアルファ・コテージ・スクールの音楽プログラムの卒業生だった。スティーヴン・デイヴィスは『ボブ・マーリー レゲエの伝説』の中で、スカを生み出したミュージシャンたちについて興味深い指摘をしている。スカタライツに加わったミュージシャンの多くはキングストンの東端の出身だったのに対して、ボブ・マーリーなどのシンガーたちはキングストンの西側の出身だったということだ。
ドン・ドラモンドらを輩出したアルファ・コテージ・スクールからさらに東に進むと、市街から丘陵地帯に入っていく。ワレイカ・ヒルズと呼ばれるその丘は、カウント・オジーというラスタのミュージシャンが率いるコミューンがあったことで知られる。
アルファ・コテージ・スクール出身で、渡英後に成功したトロンボーン奏者、リコ・ロドリゲスが1977年に発表したソロ・アルバム『Man From Wareika』はこのワレイカ・ヒルズの思い出を託したレゲエ・インストゥルメンタル作品だった。ドン・ドラモンドの弟子だったロドリゲスは1950年代の終わり頃、しばしばドラモンドとともに、カウント・オジーのラスタ・コミューンを訪れ、ラスタのナイヤビンギ音楽に触れたという。ナイヤビンギ音楽の催眠的なリズムやゆったりとしたメロディは、ロドリゲスの音楽に強い影響を与えているが、同様にスカタライツの音楽の背景にも、ラスタの伝統文化があったことは間違いない。
一方、キングストンの西側にはボブ・マーリーが暮らしていたトレンチ・タウンのようなゲットーが広がる。独立後のジャマイカは社会が不安定化し、農村から都市のゲットーに流入した若者たちがルード・ボーイと呼ばれる暴力的な集団を形成していた。ジミー・クリフが主演した1972年の映画『ハーダー・ゼイ・カム』はルード・ボーイの時代のキングストンを舞台に、ギャングの暴力抗争の中から人気シンガーが現れる物語を描いている。ボブ・マーリーを含むウェイリング・ウェイラーズの面々はまさしく、そんな1960年代初頭のキングストンのゲットーから現れた新世代のヒーローだった。
スティーヴン・デイヴィスはスカではこうしたキングストンの2つの性格が象徴的に結びついたと指摘している。前者は粘り強く、後者は喧嘩っ早い。スカという音楽が野卑で暴力的な側面と、気高い精神性の側面の両方を持ち合わせているように感じられるのも、そのせいかもしれない。
スカの元になったのは、アメリカのリズム&ブルースだったが、スカタライツのスカになると、リズム面でもオリジナルな感覚が強くなる。端的にいうと、シャッフルのハネ感が消失していくのだ。コクソン・ドッドはリズム&ブルースの模倣が次第にジャマイカ独特のものになっていったと語っているが、シャッフル・ビートの裏拍の強調感だけを残し、リズムとしてはハネをなくしていったのが、ジャマイカのスカの独自性だったと言っていいだろう。
ハネ感が消失していった理由のひとつは、スカタライツのミュージシャンたちはラテン音楽の感覚も強く持っていたからだと思われる。キューバと200km程度しか離れていないジャマイカは、もともとラテン音楽圏と言ってもいい。スカタライツのサックス奏者、ローランド・アルフォンソなどはキューバ生まれだったりもする。スカタライツのレパートリーには「Peanuts Vender」のようなキューバン・ラテンの曲も含まれていた。あるいは、ピーター・トッシュの「Shame & Scandal」のようにトリニダッドのカリプソをカバーしたスカのヒット曲もある。こうしたラテン系のアクセントを持つ曲を演奏するときには、リズム&ブルースのきついハネを持ったシャッフル・ビートは使えない。そこでスカタライツは裏拍を強調しながら、ハネ感はほとんどない独自のリズムを生み出していった。R&Bとラテンを強引に接合したそのリズムは楽器間の微妙なポリリズムの上に成り立つものだったが、そんなミクスチャーの背景にもラスタのナイヤビンギ音楽が影響を与えていた、というのが僕の見立てだ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima