リードやドッドのサウンド・システムとしのぎを削ったキング・エドワーズ
1950年代後半のキングストンではアメリカのリズム&ブルースをかけるサウンド・システムが熾烈な人気争いを繰り広げた。中でもビッグ・スリーと呼ばれたのが、サー・コクソン・ドッドのダウンビート、アーサー・デューク・リードのトレジャー・アイル、そして、キング・エドワーズのザ・ジャイアントだったとされている。
だが、デューク・リードやコクソン・ドッドに比べると、キング・エドワーズの名を知る人は多くないだろう。キング・エドワーズとはジョージ・エドワーズとヴィンス・エドワーズの兄弟だったことすら、あまり知られていないようだ。エドワーズ兄弟は1955年にキングストンでサウンド・システムを始め、デューク・リードやコクソン・ドッドを凌ぐ人気を誇った時期もあったとされる。だが、彼らはアメリカのリズム&ブルースの熱狂的なファンであり、ジャマイカ独自の音楽を創り出すことには、そこまでの情熱を持っていなかった。活動したのも1960年代半ばまでで、以後のジャマイカ音楽の歴史の中では、その名が語られることも少なかった。
ところが、2023年にアメリカのリッチ・オプレ・ロウによる『Two Kings Jamaica’s King Edwards "The Giant" Sound System: The Era of The King, The Duke, & The Sir』という研究書が世に出た。ジョージ・エドワーズとヴィンス・エドワーズは存命で、同書は2人に直接取材して、1950年代から60年代にかけての彼らの活動の詳細を明らかにした。それは当時のジャマイカのサウンド・システムの姿を知る上でも、多くの新情報を与えてくれるものだった。
最初のサウンド・システムを組み上げたヘッドリー・ジョーンズ
ジョージ・エドワーズは1928年、ヴィンス・エドワーズは1932年の生まれで、2人はジャマイカ北部のセント・マリーで育ち、1940年代の後半にキングストンに移っている。ジャズやリズム&ブルースを好む2人は1950年代になるとトム・ザ・グレート・セバスチャンのサウンド・システムの洗礼を受け、自分たちでもサウンド・システムを持ちたいと考えるようになった。
1954年にヴィンスがアメリカに滞在。フィラデルフィアから100Wのトランジスター・アンプを持ち帰った。兄弟はその米国製アンプでサウンド・システムが始められると考えていたが、残念ながら、それでは望むような低音が得られなかった。そこでエドワーズ兄弟はキングストンのアンプ技術者、デュラント・ジャッキー・イーストウッドに真空管アンプの製作を依頼した。ロウはそのイーストウッドの証言も得て、当時のサウンド・システムのアンプ競争も描き出している。
デュラント・イーストウッドはジャマイカで最初のサウンド・システムを組み上げた伝説的な技術者、ヘッドリー・ジョーンズに師事した一人だった。ジョーンズは第2次世界大戦でイギリス軍に従軍し、レーダー技師として働いた後、故郷のジャマイカに戻って、ラジオの修理業を始めた。ジョーンズのラジオ・ショップはさらにレコードの輸入業を始め、その宣伝のために、店内にオーディオ・セットを設置した。ウーファーにはイギリスから輸入したCELESTIONの18インチ・スピーカーを2発。アンプはジョーンズの自作の真空管アンプだった。
そのジョーンズの店にある日、現れたのがトム・ザ・グレート・セバスチャンのトム・ウォンだった。ウォンはジョーンズにアンプ製作を依頼。それがきっかけで、他のサウンド・システムからも声がかかり、ジョーンズはデューク・リード、ロイ・ジョンソンなどにもアンプを製作することになる。
1917年生まれのヘッドリー・ジョーンズは第2次世界大戦以前にはミュージシャンとして活動していたこともあり、1940年には自身のためにエレクトリック・ギターを製作していた。近年になって、この写真が発掘されて、話題をまいたこともある。というのも、ソリッド・ボディに2発のピックアップを載せたそのデザインは、GIBSON Les Paulによく似ていたからだ。しかし、GIBSONが最初のLes Paulモデルを発表するのは1941年である。
ジャマイカを代表する名ギタリスト、アーネスト・ラングリンが最初に手にしたエレクトリック・ギターもヘッドリー・ジョーンズが製作したものだったと言われる。
ひずみのないサウンドと78回転盤にこだわったキング・エドワーズ
1950年代後半にはそのジョーンズの弟子であるデュラント・イーストウッドとフレッド・スタンフォードが多くのサウンド・システムのためにアンプを製作した。キング・エドワーズはイーストウッドが製作した80Wのアンプでサウンド・システムを始めたが、それではデューク・リードの使っているフレッド・スタンフォードのアンプのような低音が得られなかった。そこでエドワーズ兄弟は若い技術者のバリー・ウィリアムズに次のアンプ制作を依頼。ウィリアムズは16本のKT88真空管を使った巨大なアンプを組み上げた。最終的な音決めはフレッド・スタンフォードが行い、彼らが“ヘラクレス・アンプ”と呼ぶサウンド・システム用のアンプが完成した。
エドワーズ兄弟はCELESTIONの18インチをはじめとするスピーカーの輸入も進め、自身で10個のスピーカー・ボックスを製作。GOODMANやJENSENのホーン・スピーカーも使用し、その再生のためにアンプもマルチアンプ化していった。
ジョージ・エドワーズによれば、彼の理想はひずみのない低音を再生することで、セレクターがボリュームを上げ過ぎて音がひずみ出したら、音量を下げさせるのが常だったという。コクソンやリードよりも後発のキング・エドワーズが人気を博した理由の一つは、その高品質なサウンドゆえだったと思われる。
1950年代の後半になっても、キング・エドワーズは78回転のSP盤に強いこだわりを持っていたともいう。45回転の7インチや33回転の12インチをかけても、ダンサーたちの反応は悪かった。それは出力レベルやイコライゼーションの差に起因すると理解したジョージ・エドワーズは、イーストウッドに45回転用、33回転用のプリアンプ製作を依頼。ターンテーブルも3台を使用し、それぞれ違うプリアンプで増幅して、プレイすることにした。しかし、キング・エドワーズの主力は78回転であり続けた。
レコードに関する情報戦を展開する中キラー・チューンをダブ・プレートとして複製
サウンド・システムは音量や音質でも競い合ったが、何よりも熾烈だったのが、かけるリズム&ブルースのレコードに関する情報戦だった。他のサウンド・システムが持っていないキラー・チューンをかけられることが、何よりもの武器になる。そのため、曲名を読み取られないように、レコードのレーベル面は塗りつぶされたり、切り取られたりするのが常だった。
例えば、コクソン・ドッドはサックス奏者のハロルド・ランドの楽団がサヴォイに残した「San Diego Bounce」という曲をダウンビートのテーマ曲のように使用していたが、その曲名はほとんど誰も知らなかった。キング・エドワーズの場合は「Edwards Shuffle」というテーマ曲があったが、そのオリジナルが何だったかは、エドワーズ兄弟も忘れてしまったという。
コクソン・ドッドとデューク・リードはもともとは友人であり、レコードについて情報交換する仲だったというが、サウンド・システムの人気争いの中で敵対していった。エドワーズ兄弟はドッドやリードが活動するダウンタウンには近づかなかったが、リードとは良好な関係を持っていた。コクソン・ドッドやプリンス・バスターとの関係は良くなかったようだ。
エドワーズ兄弟は1956年にはレコード・ショップを開店。米国からのレコード輸入をする一方で、他のサウンド・システムに向けた特殊なビジネスも始めた。
4つのサウンド・システムを保有するようになったキング・エドワーズは、同じレコードを複数必要とするようになった。かつ、彼らは78回転のSPレコードを好んだ。そこでエドワーズ兄弟はケン・クーリのフェデラル・スタジオに赴き、そこで78回転のアセテート盤をカットしてもらうようになった。「Edwards Shuffle」のようなヘビー・ローテーション曲は何枚もそれをカットして、ストックしておくのだ。一般には市販されない、サウンド・システム用にカットされるアセテート盤。“ダブ・プレート”と呼ばれるものの始まりだ。
エドワーズ兄弟はそのダブ・プレートを他のサウンド・システムにも供給した。米国から輸入された45回転盤が78回転のSP盤にカットし直され、ジャマイカのサウンド・システムではそれがプレイされることも少なくなかったようだ。ジョージ・エドワーズはジャマイカ音楽の録音よりも、このダブ・プレート販売の方が金になったと振り返っている。
アメリカR&Bスタイルの変化とキング・エドワーズのサウンド・システム撤退
1960年代に差し掛かると、アメリカのR&Bシーンは変化して、ジャマイカのサウンド・システムが求めるようなジャンプ・ブルース・タイプの曲の供給は減っていく。それは必然的にサウンド・システムのオーナーをジャマイカ産のリズム&ブルースの録音に向かわせることになった。デューク・リードとコクソン・ドッドはともに1959年にレコード制作に踏み出している。キング・エドワーズも1961年にレーベルを興した。しかし、熱烈なアメリカンR&Bラバーだったキング・エドワーズは、ジャマイカのローカル・ミュージックが持つ巨大な可能性には気づかなかった。
キング・エドワーズは弟のヴィンスがアメリカでレコードを調達し、兄のジョージがサウンド・システムを切り回すという形で運営されていたが、1960年代になるとヴィンスの役割は薄くなっていった。ヴィンスがジャマイカの人民国家党(PNP:People's National Party)に参加して、政治家への道を歩み出すと、ジョージは1964年にはサウンド・システムの活動休止を決断した。サウンド・システムをめぐる暴力事件の多発に嫌気がさしたのも、その一因だったという。
ジョージは1966年までキング・エドワーズ・レーベルで音楽制作を続けた。これもフェデラル・スタジオでの録音が多かったようだ。キング・エドワーズに残されたジャマイカン・ジャズやR&B、そして、スカの録音は『King Edwards Presents Ska-Volution』『Ska Ba Dip : The Essential King Edwards』といったコンピレーションにも聴くことができるし、7インチのリイシュー盤なども制作されている。ミュージシャン的には同時期のコクソンやデューク・リードと重なり、スカタライツ周辺の強者が数多く参加。ジャマイカ音楽の黎明期を感じさせるインストの名演が多いのは、ジョージ・エドワーズの審美眼が反映されているからかもしれない。
サウンド・システムからレーベルへの展開の中で活躍を始めたジャマイカのミュージシャンたち
1950年代のサウンド・システムの繁栄は、ジャマイカのミュージシャンから仕事を奪うものだった。ジャズ系の音楽を演奏できるミュージシャンたちもジャマイカにはいたが、彼らの生演奏の機会はほとんど失われていった。ところが、コクソン・ドッドやデューク・リードやジョージ・エドワーズがレコーディング・ビジネスに参入すると、優秀なスタジオ・ミュージシャンが必要とされる時代がやってきた。
1964年にコクソン・ドッドのスタジオ・ワン・レーベルからリリースされた『Jazz Jamaica From The Workshop』というアルバムがあるが、そのライナーノーツにはジャマイカの第1世代のジャズ・ミュージシャンとして、ジョー・ハリオット、ハロルド・マクネア、ウィルトン・ゲイネア、ディジー・リースといった名前が挙げられている。彼らは1950年代にイギリスもしくはヨーロッパに活動拠点を移し、その後のキャリアを築いた。例えば、サックス奏者のジョー・ハリオットは渡英後、ジャズとインド音楽の融合に取り組み、1966年の『Indo-Jazz Suites』などの名作を残している。
彼らがジャマイカを離れた理由は、活動場所がなかったからに他ならない。それに対して、アルバム『Jazz Jamaica From The Workshop』に参加したジャマイカ・ジャズ第2世代とも言えるミュージシャンたち、トロンボーン奏者のドン・ドラモンドやサックス奏者のトミー・マクック、ローランド・アルフォンソ、ギタリストのアーネスト・ラングリンなどは、ジャマイカンR&Bやスカのバック・ミュージシャンとして、レコーディング・スタジオで忙しく働くようになった。かつてはミュージシャンから仕事を奪ったサウンド・システムのオーナーたちが、ミュージシャンに仕事を与えたからだ。
ベーシストのクルーエット・ジョンソンをリーダーするクルー・J&ブルース・ブラスターズはそうしたミュージシャンたちによるスタジオ・バンドのひとつだった。ブルース・ブラスターズは1959年にコクソン・ドッドが興した最初のレーベル、ワールディスクで多くのセッションを行った。彼ら名義の1959年のシングル『Shufflin Jug』が最初のスカのレコードであるとするという声も強い。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima