ジャマイカン・ダンス・ミュージックとレコード製造の起源
ジャマイカにおける音楽録音の歴史はメントとともに始まったが、後のレゲエに連なるジャマイカン・ダンス・ミュージックの原点となるのは、1950年代半ばに始まるジャマイカンR&Bの録音だった。その先駆けは1954年にスタンリー・モッタが録音したアーサー“バニー”ロビンソン&ノエル“スカリー”シムズ(バニー&スカリー)の「Till The End Of Time」と「Give Me Another Chance」の2曲だったとされる。
バニー&スカリーはキングストン出身の若いボーカル・デュオで、1953年に当時のジャマイカで人気があった『ヴェア・ジョンズ・オポチュニティ・ノック・タレント・ショー』というラジオ番組に出演して注目され、録音の機会をつかんだとされる。1935年生まれのスカリーは、後にジャマイカのレゲエ・シーンを代表するパーカッション奏者としても名を上げた。アグロヴェイターズ、アップセッターズ、レヴォリューショナリーズ、ルーツ・ラディクスなどの名リズム・セクションに参加し、何千曲もの録音を残したスカリーの演奏を聴いたことがないレゲエ・ファンはいないと言ってもいい。また、バニー&スカリーも2010年代になるまで、長く活動を続けた。
スティーヴ・バロウ&ピーター・ドルトンの『ラフ・ガイド・トゥ・レゲエ』では、バニー&スカリーの「Till The End Of Time」は一般には販売されず、少し遅れて、バニー&スカリーはケン・クーリのもとで「Silent Dreams」という曲を録音。これは一般向けにもリリースされたと記されている。
1954年にはケン・クーリはキング・ストリートのタイムズ・バラエティ・ストア内のスタジオにレコードのプレス機を設置。ジャマイカ国内でのSPレコード生産を可能にした。1957年にはキングストンの湾岸の工業地帯、マーカス・ガーヴェイ・ドライブにスタジオとプレス工場を建設。同時期にフェデラル・レコードもスタートさせた。
ケン・クーリは投資を重ねて、2つの軸を持つビジネスに進んでいた。一つはマーキュリー、キャピトルなどのアメリカのレコード会社のジャマイカでの配給権を獲得し、ジャマイカ盤をプレスして、販売すること。もう一つはスタジオでジャマイカ音楽のレコーディングを行うことだった。
ジャマイカ初の本格的な商用スタジオとなったフェデラル・スタジオは、クーリのフェデラレル・レコード傘下のレーベルだけでなく、1950年代後半に産声を上げたジャマイカの他のレーベルの制作拠点ともなった。クレメント“コクソン”ドッドが1957年に最初のプロデュース作品となるアルトン・エリス&エディ・パーキンスの「Muriel」をレコーディングしたのも、クーリのフェデラル・スタジオだった。
モッタのMRSスタジオは伝統的なメントの録音が主体だったが、フェデラル・スタジオではジャマイカ流のジャズやR&B、さらにはそこから発展するスカのレコーディングが積極的に行われた。ギタリストのアーネスト・ラングリンをはじめとする優秀なミュージシャンがスタジオには集結するようになった。
1962年には16歳のボブ・マーリーがレスリー・コングのビヴァリー・レーベルからリリースされる最初のソロ・レコード 『Judge Not / Do You Still Love Me』をフェデラル・スタジオで録音している。
フェデラル・スタジオのエンジニア、グレーム・グッドールの端正なサウンド
この時期のケン・クーリに協力したレコーディング・エンジニアとして知られるのはオーストラリア出身のグレーム・グッドールだ。1932年生まれのグッドールはイギリスでエンジニアとしての訓練を受けた後、1954年にジャマイカに渡って、ジャマイカ初のFMラジオ局となるRJR(Radio Jamaica Rediffusion)の立ち上げに参加した。クーリがフェデラル・スタジオを建設する以前は、RJRのスタジオがジャマイカで最も近代的なスタジオだったようだ。クーリはレコーディングやプレスの機材を輸入するにあたって、グッドールにアドバイスを求めた。クーリとの関係から、グッドールも音楽録音に深入りしていく。
1958年にはグッドールはローレル・エイトキンの「Boogie In My Bones」のエンジニアリングを手掛けた。これはクリス・ブラックウェルがプロデュースした最初のジャマイカR&Bのレコードだった。ブラックウェルと意気投合したグッドールは、1959年にはブラックウェルとともにアイランド・レコードを設立。このブラックウェルとの関係は短期間しか続かなかったが、1961年にクーリがマーカス・ガーヴェイ・ドライブのフェデラル・スタジオをリニューアルすると、グッドールはそのチーフ・エンジニアに就任した。このフェデラル・スタジオは1981年にリタ・マーリーに売却され、タフ・ゴング・スタジオと名を変えて、現在まで営業を続けている。
グッドールは1965年までフェデラル・スタジオで働きつつ、ジャマイカの他のスタジオやエンジニアにも教育的な影響を与えたとされる。当時のフェデラレル・スタジオでのグッドールの仕事を知るには、『Kentone Ska from Federal Records: Skalvouvia 1963-1965』『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』といったコンピレーションが好適だ。グッドールの作り出すサウンドは端正で、ジャマイカンR&B〜スカ的な曲でもアコースティックな感触が強い。グッドールは1965年にイギリスに移り、その後はドクター・バード、リオ、ピラミッドといったレーベルを興して、ジャマイカ音楽のイギリスでのプロモートに努めた。
路上にスピーカーを並べるサウンド・システムの誕生
クーリやグッドールの奮闘により、1950年代半ばから1960年代の初めにかけて、ジャマイカのレコーディング・ビジネスはようやく、その形を整えていった。だが、ジャマイカン・ミュージックの特殊な歴史を知るには、それ以前から存在していた別のレコード文化にも目を向けなければいけない。それはサウンド・システムと呼ばれる路上ディスコだ。
ジャマイカでサウンド・システムが誕生したのは第2次大戦後、1940年代の後半だったとされる。自国のレコード産業が立ち上がるより先に、輸入レコードをプレイして、人々を踊らせる路上ディスコが熱気を帯びた。それがジャマイカの音楽文化の特異性だった。ディスコ・ブームが世界を席巻するのは1970年代だが、ジャマイカでは1950年代にはサウンド・システムという名のディスコが大人気を博していたのだ。
もちろん、ジャマイカにもミュージシャンの生演奏で踊る文化がなかったわけではない。だが、アメリカ風のビッグバンド・ジャズなどを演奏するミュージシャンたちはホテルなどで観光客向けの仕事をすることが多く、ジャマイカの一般大衆がその演奏に触れる機会は稀だった。楽団を擁する大衆向けのダンスホールが主催されることもあったようだが、コストがかかり過ぎて、経営は難しかったという。
一方で、1940年代の後半には、ジャマイカではアメリカのリズム&ブルースの人気が高まっていた。それはマイアミやニューオーリンズのラジオ局の電波に乗って、ジャマイカまで届いていた。とりわけ、人気が高かったのは小編成のジャンプ・ブルースだった。ルイ・ジョーダン、ジョー・リギンス、ワイノニー・ハリス、エイモス・ウィルバーン、スマイリー・ルイス、ビッグ・ジェイ・マクニーリーなどなど。こうしたリズム&ブルースのレコードを路上に設置した大音響のサウンド・システムで再生するところから、ジャマイカのサウンド・システム文化は始まった。
デヴィッド・カッツの『ソリッド・ファウンデーション』には、1940年代後半に立ち上がった最初のサウンド・システムはワルドロンという名だったというシンガーのデリック・モーガンの証言がある。だが、1940年代末に始まったトム・ウォン主宰のトム・ザ・グレート・セバスチャンがキングストンの街を制覇した。1950年代の初頭にはキングストンのダウンタウンの各地域でサウンド・システムが立ち上がったが、トム・ザ・グレート・セバスチャンの人気が最も高かったとモーガンは語っている。
サウンド・システムから登場したジャマイカ音楽史上の重要人物たち
サウンド・システムに必要だったのは大音響のオーディオ・システム、そして、アメリカで発売された新しいリズム&ブルースのレコードをいち早く手に入れることだった。初期のジャマイカのサウンド・システムでかかっていた曲を知る資料としては、イギリスのファンタスティック・ヴォヤージ・レーベルがリリースした『JUMP BLUES JAMAICA WAY-Jamaican Sound System Classics 1945-1960』や『It's Jamaica Jump Blues Time! Jamaican Sound System Classics 1941-1962』というコンピレーションがある。どちらもアップテンポのシャッフル・ビートの曲が好まれたことがよく分かる選曲だ。ただし、トム・ザ・グレート・セバスチャンの選曲は幅広く、メント、カリプソ、メレンゲ、キューバ音楽などもかけていたという。
それに対して、ゲットーの若者に向けたハードコアなリズム&ブルース主体のサウンド・システムを始めたのがデューク・リードだった。1915年生まれのデューク・リードはもともとは警察官だったが、1950年代の初めに退職し、妻の実家の酒屋、トレジャー・アイルを手伝っていた。店の宣伝のために、RJRで『トレジャー・アイル・タイム』というジャズやリズム&ブルースをかける番組を始めたのをきっかけに、リードは音楽ビジネスに参入。1953年にトロージャンの名でサウンド・システムを開始する。リードの人気はすぐにトム・ザ・グレート・セバスチャンを上回った。
元警察官のリードは常に拳銃を携帯する男だった。リードのサウンド・システムには荒っぽい若者たちが集まり、用心棒のように振る舞った。キングストンのサウンド・システムは競争の激化とともに、暴力的な色合いを強めていった。他のサウンド・システムに殴り込みかけるような縄張り争いも日常茶飯事となった。これを嫌って、トム・ザ・グレート・セバスチャンのトム・ウォンはキングストンのダウンタウンから撤退。アップタウンの中流層・富裕層を相手にするサウンド・システムに転じた。
一方、ダウンタウンでは先述のクレメント“コクソン”ドッドのサウンド・システム、サー・コクソンが台頭し、デューク・リードの最大のライバルとなった。ドッドは1932年生まれで、両親はキングストンで酒屋兼レストランを経営していた。ドッドはその店の前で1954年にサウンド・システムを開始。渡米を繰り返して、レアなリズム&ブルースのレコードを入手することで、人気をつかんでいく。ドッドは複数のサウンド・システムを持ち、最大時はキングストン市内で5つのサウンド・システムを回していたという。そして、そこにドッドが雇い入れた中から、ジャマイカ音楽史上の重要人物が何人も登場することになった。
本名をセシル・ブスタメンテ・キャンベルというプリンス・バスターは元ボクサーで、その腕っ節を見込まれて、コクソンの用心棒となった。しかし、音楽の才も持ち合わせていたバスターは1959年に独立して、自身のサウンド・システムとレコード店、さらにはレーベルを立ち上げ、初期のスカの曲を数多く制作した。スカの流行は細身のスーツに身を包んだルード・ボーイと呼ばれるダンサーたちのムーブメントにもなったが、自身でも「They Got To Go」「Hard Man Fi Dead」「Don't Throw Stones」など数多くのヒットを放ったバスターは、ルード・ボーイたちの最大のヒーローとなった。
ジャマイカ音楽史における最重要プロデューサー/エンジニアと言ってもいいリー・ペリーも、1950年代にはコクソンで働いていた。小柄のペリーはバスターに守ってもらっていたという逸話もある。また、レコード・リリースは数少なく、知名度は高くないものの、ジャマイカで最初のディージェイだったと目されるカウント・マチューキも、コクソンの一員だった。
ここで言うディージェイとは、レコードをプレイするDJではなく、MCあるいはラッパーに近い存在だ。ジャマイカではレコードをプレイするのはセレクター。マイクを握り、レコードに合わせてしゃべる者がジャマイカではディージェイと呼ばれる。本名をウィンストン・クーパーというカウント・マチューキは1929年生まれで、もともとはトム・ザ・グレート・セバスチャンの一員だったが、コクソンに移った後、アメリカのラジオDJをまねて、曲紹介的なしゃべりをトーク・オーバーするスタイルを編み出した。
その後、ジャマイカにおけるディージェイはやはりコクソンに在籍したU-ロイなどによって磨き上げられ、それがアメリカのヒップホップにおけるラップにも影響を与えることになる。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima