1950年代に急激に誕生したジャマイカのポップ・ミュージック産業
アメリカでレコード産業が産声を上げたのは1880年代の終わりだが、20世紀に入る頃には、世界各国で商業レコードの録音が行われるようになった。日本でも1899年には蓄音機専門店、三光堂が最初の商業録音を行っている。円盤レコードの登場以前、蝋管録音の時代のことだ。
ブラジルでも同じ頃にシリンダー・レコーディングが始まり、1902年にはブラジルで最初のレコード会社、カーザ・エジソンが設立された。後のブラジル・オデオンの母体ともなったカーザ・エジソンのカタログは、1902年に歌手シスト・バイーアが吹き込んだ「Isto É Bom」に遡るが、ブラジルは古い音源の保存・復刻が盛んなので、今でも同曲はたやすく聴くことができる。近年ではスペインのサウンド・ミラクル・レコードが2019年に発売した『BRAZIL PRIMITIVO VOL. 1 - RHYTHMS, LEGENDS & STYLES (1899-1963)』というコンピレーションが入手しやすいだろう。
こうした例と見比べると、ジャマイカのレコード産業の歴史ははるかに短い。ジャマイカでレコード制作が開始されたのは1950年代以後のこと。日本やブラジルよりも何と半世紀も遅れていたのだ。
現代では、ジャマイカ音楽は世界中のポップ・ミュージックに強い影響を与えている。ジャマイカで生まれたレゲエ・ミュージックは全世界に熱烈なファンを持つし、レコーディング〜プロダクションの手法においても、ジャマイカ音楽の影響抜きに、現代のポップ・ミュージックは語れないと言っていい。だが、20世紀半ばまでは、ジャマイカはレコーディング・スタジオもレコード会社もないような国だったのだ。
20世紀の後半になって大躍進するジャマイカ音楽は、そんな後進国だったからこその特殊な状況から生み出された。そう言ってもいいかもしれない。そして、その歴史は現在では分厚い研究書を何冊も生み出している。小さな国の音楽と録音の歴史がこんなに詳細に検討されている例は、他にないと思われる。
19世紀から世界に広がった隣国キューバの音楽
ジャマイカはカリブ海に浮かぶ島国だが、その面積は四国よりも小さく、現在でも人口は300万人に足りない。レゲエという音楽ジャンルはそんな小国から生まれ、世界に広がったのだ。しかし、1950年代以前のジャマイカでは、ポピュラー音楽は未発達だった。
対照的に、ジャマイカの160kmほど北に位置するキューバの音楽は、19世紀から世界へと広がっていた。キューバ産のハバネラと呼ばれるリズムは、キューバ滞在経験を持つスペインの作曲家、セバスティアン・イラディエルが1850年代に書いた「ラ・パローマ」という曲とともに、世界中で知られるようになった。ハバネラのシンコペイトしたリズムは、アルゼンチンのタンゴをはじめ、19世紀の終わり頃に生まれた各地のポピュラー音楽にその影響を残している。
ハバネラはキューバ北西部の首都、ハバナ発の音楽だったが、20世紀に入ると、キューバ東部で生み出された民衆音楽、ソンがハバナへと流入。1910年代にはソンの楽団がハバナの夜を華麗に彩るようになる。米国のコロムビアやビクターによって、その録音も1910年代から行われた。
ソンの最初の録音は1917年。後のセクステート・ハバネーロの前身となるクアルテート・オリエンタルの3曲をコロムビア・レコードが録音したとされる。残念ながら、これは文書に記録が残っているだけで、音源は失われているが、1920年代以後のセクステート・ハバネーロやセプテート・ナショナルといったソンの代表的な楽団の録音は、現代でも広く聴かれている。ソンはその後のキューバ音楽の起点となり、ルンバ、マンボ、チャチャチャ、後のサルサなどを含むラテン音楽のさまざまなバリエーションもソンから発展した。そして、キューバだけでない地域的拡がりを獲得していった。
ヨーロッパ伝来のカドリールを元にしたジャマイカ発祥の音楽“メント”
そんなキューバ音楽の豊かな歴史に比べると、ジャマイカの民衆音楽は話題に乏しく、国外に知られる機会すらまれだった。
1494年にクリストファー・コロンブスが2回目の大西洋航海でジャマイカを“発見”した後、1509年にジャマイカはスペイン王国に征服された。先住民だったタイノ族とアラワク族は、残虐な征服者によって、数十年で絶滅させられた。労働力を欲したスペインは1517年から奴隷貿易でアフリカンをジャマイカに連行した。
1655年にイギリスが当時はハマイカと呼ばれていたスペイン領に侵攻。1670年のマドリッド条約で、統治権がスペインからイギリスに移った。以後のジャマイカの歴史はイギリスによる支配・圧政と、奴隷として運び込まれたアフリカンの抵抗の歴史として刻まれている。度重なる叛乱は、1838年に奴隷制が廃止された後も続いた。ジャマイカのポピュラー音楽の立ち上がりが遅かったのは、音楽文化までが長く抑圧された状態にあったからとも考えられる。
19世紀以前のジャマイカのフォーク・ミュージックについては資料が乏しいが、イギリス人が持ち込んだカドリールと呼ばれる、もともとはフランス発祥のダンス音楽の伝統がひとつの軸としてあったとされる。レゲエ研究家のスティーヴン・デイヴィスは1983年に出版したボブ・マーリーの伝記本(邦訳は1986年の晶文社『ボブ・マーリー レゲエの伝説』)の中で、ボブが幼い頃、最初に聴いた音楽は間違いなく、セミプロのミュージシャンだった大叔父のバンドが演奏するカドリールだったはずだと記している。
カドリールは基本的にはヨーロッパ由来の、弦楽器や笛を中心とした器楽音楽だった。そこにアフリカンが維持してきた口承文化やリズム感覚を加えて、生み出されたのがメントと呼ばれる音楽で、19世紀終わり頃から街角で人気を得たとされる。メントはユーモラスな民衆歌で、音楽的にはトリニダード・トバゴのカリプソに近いが、演奏面ではルンバ・ボックスというジャマイカ独自の楽器が使われることがある。これは低音ドラムとベースの役割を果たす巨大なカリンバのような楽器だ。
メントは1曲だけ、世界に広く知られた歌を生み出している。ハリー・ベラフォンテが1956年に録音した「バナナ・ボート」(Day-O)だ。その元となったジャマイカン・フォーク・ソングは、1954年にフォークウェイズからリリースされたルイーズ・ベネットのアルバム『Jamaican Folk Songs』に聴くことができる。ジャマイカ国民にミス・ルーの愛称で親しまれたルイーズ・ベネットは、フォークロアの研究者であり、文学者であり、歌手でもあった。アルバム中の「Day Dah Light」が「バナナ・ボート」の原曲で、ベラフォンテはベネットから直接、その歌を教わったともされる。
メントはジャマイカ音楽の中で、最初にポピュラー音楽化したジャンルでもあった。1950年代にメントのレコード・リリースを始めたレーベルには、イギリスのメロディスク・レコードがある。メロディスクを設立したエミール・E・シャリオットはアメリカ人で、彼はアメリカのジャズ・レコードをイギリスで発売するレーベルとして、1946年にメロディスクをスタートさせた。1950年代にはカリビアンの音楽を積極的にリリース。1951年のルイーズ・ベネット&カリビアン・セレネイダーズの「Linstead Market / Bongo Man」、1952年のバーティー・キングズ&ジャマイカンズの「Sly Mongoose / Imogene」などは最初期のメントのレコーディングに数えられる。
メロディスクは1953年にはトリニダード・トバゴ出身のピアニスト、ルパート・ナースをレーベルのディレクターに起用。以後、カリビアン・ミュージックへの傾斜を強め、ロード・キッチナー、ロード・ビギナーなどトリニダードのカリプソ・スターのレコードも多くリリースした。ナースを音楽監督としたバンドで制作されるロンドン録音のカリプソとメントは、音楽的にほとんど区別がつかないものだった。カリプソは1910年代からアメリカで録音が始まり、1930年代にはアッティラ・ザ・フン、ロアーリング・ライオン、ロード・インヴェイダー、デューク・オブ・アイアンなどが人気者になって、英米でもジャンルとして定着していた。それゆえ、ジャマイカ産のメントもカリプソの中に含められて扱われることが多かった。
ジャマイカ初のレコーディング・スタジオを作ったスタンリー・モッタ
ジャマイカにレコーディング・スタジオが生まれ、そこでメントのレコーディングが開始されるのも、1950年代になってからだった。その先駆者のひとりはスタンリー・ベレスフォード・ブランドン・モッタだ。1915年生まれのモッタはスペイン/ポルトガルにルーツを持つセファルディ系のユダヤ人で、電気製品を扱うビジネスマンだった。
モッタは1951年にキングストンのハノヴァー・ストリートに、ジャマイカで最初のレコーディング・スタジオだったとされるMRS(Motta’s Recording Studio)を開設した。モッタが最初に制作したのはシンガーのロード・フライがダン・ウィリアムズ・オーケストラと録音した「Medley of Jamaican Mento-Calypsos」というSP盤だ。同曲は2004年にイギリスのV2レコードが制作した『Mento Madness - Motta's Jamaican Mento 1951-56』というコンピレーションなどに収録されているが、聴いて驚くのは、初のジャマイカ録音のメントだというのに、ボーカル、リズム楽器、管楽器のミキシング・バランスもこなれているし、全体のサウンド・クオリティも高いことだ。MRSは小さなスタジオで、SP盤用のディスク・レコーダーが1台あるだけだったと想像されるが、モッタにはエンジニアの才覚があったのだろう。
MRSはモッタが主宰するレーベルの名前にもなったが、当時のジャマイカにはまだレコードのプレス工場がなかった。それゆえ、モッタはMRSスタジオで録音したSP盤のディスク・マスターを海外に送って、プレスしてもらう必要があった。在英のジャマイカ人ミュージシャン、バーティー・キングの口利きで、メロディスクのエミル・シャリオットの協力を取り付けて、MRSのレコードはメロディスクと同じ製造ラインでプレスされることになった。
MRSのSP盤のレーベル面に、Made In Englandの文字があるのはそれ故だが、レコーディングはジャマイカで行われていた。SP盤のマスターは割れやすく、輸送中のトラブルにモッタは頭を悩ませる日々だった。1枚しかないマスターが割れて、失われてしまった録音もあったようだ。
ジャマイカでいち早くテープ・レコーダーを導入したケン・クーリ
モッタと並んで、ジャマイカでの商業音楽の始まりに貢献したプロデューサーにはケン・クーリがいる。スティーヴ・バロウ&ピーター・ドルトン著の分厚い歴史書『ラフガイド・トゥ・レゲエ』ではジャマイカのレコーディング・ヒストリーはモッタのMRSの話から始まるが、もう1冊の分厚い歴史書、デイヴィッド・カッツ著の『ソリッド・ファンデーション〜語り継がれるジャマイカ音楽の歴史』では、クーリの「わたしはモッタよりずっと前からレコーディングしてたよ」という証言が紹介され、クーリの軌跡の方に重心が置かれた記述がある。
ケン・クーリは1917年にジャマイカで生まれている。父親はレバノン出身のアラブ系のビジネスマン、母親はキューバ移民の娘だった。一家は家具商を営み、成人したクーリもその仕事に就いたが、1949年、重病を患った父親がマイアミの病院で手術を受けることになった。父親に付き添って、マイアミに飛んだクーリは、そこで思わぬ買い物をする。レンタカーのラジオが壊れ、その修理を待っていたところに、レンタカーのオーナーに電気製品を買ってほしいと頼む男が現れたのだ。
オーナーは男の申し出を断ったが、クーリは興味を引かれ、350ドルでその電気製品を買い取った。それはディスク・レコーダーだった。男は100枚の生ディスクもクーリに手渡した。
ジャマイカに戻ったクーリはそれを使って、手紙の代わりに声のメッセージを吹き込んだアセテート盤を送るビジネスを始めた。これが意外な成功を収めると、音楽好きだったクーリはキングストンのクラブでメントの録音を行うようになった。キングストンにレコーディング・スタジオを建設したのはモッタの方が先だったが、それ以前からクーリはレコーディングを始めていた、というのは、この辺りの経緯を示すものだと思われる。
クーリによれば、レコード化された彼の最初の音楽録音はロード・フリー「Where Did the Little Flea Go?」という曲だった。ロード・フリーは1950年代にアメリカで人気をつかむジャマイカ出身のカリプソニアンだ。クーリは録音した「Where Did the Little Flea Go?」のマスターをイギリスのデッカ・レコードに送り、プレスを依頼した。プレスされたレコードを友人のアレック・デュイーが経営するタイムズ・バラエティ・ストアで売り出したところ、1日で売り切れたという。記録は見当たらないが、たぶん1950年頃の出来事だと思われる。クーリはそれを機にデュイーとともに最初のレーベル、タイムズ・レコードをスタートさせた。英デッカでプレスされるタイムズ・レコードのSP盤も、レーベル面にはMade In Englandとプリントされていた。
家具商よりも音楽の仕事に魅力を感じたクーリは、タイムズ・バラエティ・ストアの一角にレコーディング機材を設置。それを充実させていく。1954年頃にはMagnavoxのテープ・レコーダー、Magnecorder PT6J-AHを導入。ジャマイカでいち早くテープ・レコーディングを始めたのもケン・クーリだった。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima