フロアのDJ感覚を生かしたウォルター・ギボンズの先駆的なリミックス
ブルックリン出身のDJのウォルター・ギボンズは、サルソウル・レコードの第1弾12インチ・シングル、ダブル・エクスポージャーの「10 Percent」のリミキサーに抜擢されたとき、22歳だった。しかし、1954年生まれの彼は既に筋金入りのキャリアを持っていた。このアイリッシュ系のゲイの青年は10代からダンス・レコードのコレクトに励み、1972年には恋人のリッチ・フローレスとともにメルティング・ポット・サウンドというアセテート盤のプレス・レーベルを始めた。これはオーダーに応えて、わずかな枚数のアセテート盤をプレスするビジネスだった。DJがオープン・リール・テープに録音した自分だけのエディットやリミックスを持ち込み、それをプレスしてもらうのだ。ジャマイカのレゲエ・シーンで発達した同様のシステムにちなんで、現代ではこうした盤をダブ・プレートとも呼ぶが、メルティング・ポット・サウンドはニューヨーク周辺でいち早く、そのビジネスを始めたレーベルだった。
レコード・ショップの店員でもあったギボンズは、1975年にはニューヨークのチェルシーにあったアフター・アワーズ・クラブ、ギャラクシー21のDJとなった。アフター・アワーズ・クラブというのは他のクラブの閉店後に人を集めるクラブで、ギャラクシー21の開店時間は午前4時だったという。
メルティング・ポット・サウンドでの活動を通じて、DJによるリミックスの可能性に気づいていたギボンズは、リアルタイムで2枚の同じレコードを使い、ドラム・ブレイクを作ったり、インストゥルメンタル・パートを拡大したりするテクニックを磨き上げた。スピーカーのクロスオーバー・ネットワークをオン/オフして、ベースを抜いたり、ボーカルを抜いたりすることもあったという。Wikipediaのウォルター・ギボンズの項には“ダブ・レゲエのプロダクション・テクニックをダンス・ミュージックに取り入れた最初のアメリカ人の一人”という記述がある。
ギボンズをサルソウルに紹介したのは、トム・モールトンだったようだ。ギボンズが音を抜くことに意識だったことを示す音源には、ロリータ・ハラウェイ「Hit And Run」のエクステンド・バージョンがある。「Hit And Run」はハラウェイの1977年のデビュー・アルバム『Loleatta』の冒頭に収められている曲だが、ディスコで熱狂を引き起こしたのはギボンズが手掛けた10分を超えるエクステンド・バージョンだった。そこでは、曲はほとんど原型を留めていない。サウンドはドラムとラテン・パーカッション主体で、メロディや歌詞、ホーンのリフレインなどは大半が取り除かれている。だが、ハラウェイの声にはスポットが当てられ、シャウトやスキャット、アドリブ的なボーカル・パフォーマンスが宙を舞う。ハラウェイの声は1990年代以後のハウス・ミュージックの中でもしばしばサンプリングされるが、その流れに先鞭をつけたのが、ギボンズによるこの「Hit And Run」のリミックスだった。
DJとしてのギボンズは極めてテクニカルで、後のヒップホップのDJがやるようなことをすべて先取りしていたとも言われる。1976年、ギャラクシー21にオーナーの気まぐれで雇い入れられたフランス人がいた。前年にニューヨークにやってきたフランソワ・ケヴォーキアンだ。ケヴォーキアンはジャズ・ドラマーで、トニー・ウィリアムズに師事していた。だが、ギャラクシー21で彼が得た仕事は、ギボンズのDJに合わせて、ドラムをたたき続けるというものだった。ギボンズのぶつけてくる獰猛なドラム・ブレイクにケヴォーキアンは必死で食らいついていく日々だったという。この経験を経て、ケヴォーキアンはドラマーからDJへと転身。ラリー・レヴァンやダニー・クリヴィットらと並んで、ニューヨークを代表するDJとなる。
ケヴォーキアンに限らず、ギボンズはその後のDJたちに大きな影響を与えたが、彼自身のキャリアは長続きしなかった。1977年にギャラクシー21を辞めたギボンズは、キリスト教に傾倒し、DJ活動からは遠ざかっていく。リミキサーとしての仕事も減っていき、ラリー・レヴァン、ジム・バージェスなど、他のリミキサーが台頭する中で、1979年にはサルソウル・レコードとも縁が切れてしまった。
メジャーや世界に波及したディスコ・サウンドがドナ・サマーのユーロ・ディスコに至るまで
ディスコ・ブームはサルソウル以外にも多くのレーベルにチャンスを与えた。1972年にフロリダ州マイアミで設立されたTKレコードは、1974年にジョージ・マックレー「Rock Your Baby」を全米No.1ヒットにして、マイアミ・ディスコの一大拠点となった。1976年にはニューヨークでプレリュード・レコード、ウェスト・エンド・レコードが設立され、サルソウルとともに後のハウス・ミュージックへと連なる数々のダンス・シングルを生み出した。だが、巨大化し、大衆化したブームの終焉は遠くないところにあった。
1977年はディスコ・ブームがコマーシャルな意味でのピークに到達した年だった。同年暮れに公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラック・アルバムがその記念碑としてそびえ立っている。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を企画したのは、エリック・クラプトンやビー・ジーズが所属するRSOレコードのロバート・スティッグウッドだった。スティッグウッドはニューヨークのディスコをめぐる雑誌記事を元にして映画を企画。テレビ俳優だったジョン・トラボルタを主演に抜擢し、ビー・ジーズに映画用のオリジナル曲の提供を求めた。
低予算にもかかわらずヒット映画の仲間入りをした『サタデー・ナイト・フィーバー』は、劇場での観客動員以上にそのサウンドトラック・アルバムで、誰も予想しなかったスケールの成功をつかんだ。シングル・カットされたビー・ジーズ「How Deep Is Your Love」「Stayin' Alive」「Night Fever」が全米No.1ヒットに。ビー・ジーズが書き下ろし、イヴォンヌ・エリマンが歌った「If I Can't Have You」も全米No.1になった。アルバムは1978年の1月から7月まで24週間も全米チャートの首位をキープし、世界各地でも大ヒット。トータル・セールスは4千万枚を超え、レコード産業始まって以来の記録を打ち立てた。1978年のグラミー賞では『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックが最優秀アルバムに輝き、ビー・ジーズはベスト・ポップ・ボーカル・パフォーマンスほか、3部門を制した。
1975年のアルバム『メイン・コース』以後、ディスコ・サウンドに積極的に取り組んできたビー・ジーズが、『サタデー・ナイト・フィーバー』に楽曲提供することはごく自然な流れだった。ビー・ジーズの楽曲はそれ以前にダンス・フロアでも受け入れられていた。しかし、その成功が音楽業界に与えた影響は絶大で、アメリカでもイギリスでも、ベテランのビッグ・アーティストがこぞって、ディスコ路線の新曲に挑むという現象が生まれた。それはメジャー・レーベルが続々とディスコに手を染めることを意味した。
DJとインディペンデント・レーベルが築き上げてきた世界が、あっと言う間にセレブリティの玩具化していく。そんな風潮に乗って、メディアの話題を集めたのが、1977年にニューヨークでオープンしたディスコ、スタジオ54だった。そこでは主役はDJでもダンサーでもなく、集まる映画スターやロック・スターの顔ぶれが、スタジオ54の評判を形作った。一方で、ディスコ・ミュージックの生産拠点はニューヨークやフィラデルフィアやマイアミに限らず、世界中に広がり、とりわけ、ドイツやイタリアで生産されるユーロ・ディスコがゲームチェンジャーになろうとしていた。ドナ・サマーが1977年にヒットさせた「I Feel Love」がその決定打となった。
ドナ・サマーは米ボストン出身だが、1968年、20歳のときにドイツに渡り、ミュージカル出演などのキャリアを積んだ後、ヨーロッパでデビューしたシンガーだった。1974年にオランダのグルーヴィー・レコードから発表された『Lady of the Night』というデビュー・アルバムは、彼女がピート・ベロッテとジョルジオ・モロダーから成るプロデューサー・チームと組んだ最初の作品だ。ベロッテはイギリス人、モロダーはイタリア人。しかし、3人はドイツのミュンヘンを拠点に、レコーディングを行った。スペクター・サウンド風のタイトル曲に始まる『Lady of the Night』はまだディスコの色はないポップ・アルバムだが、1975年に発表したシングル「Love To Love You Baby」はフィラデルフィア・サウンドの影響を感じさせるトラックにサマーのエロティックなボーカルを乗せた一曲だった。16分を超える長さのアルバム・バージョンは、トム・モールトンなどが作るエクステンド・ミックスを意識したものに思われる。
ヨーロッパで小ヒットしたこの「Love To Love You Baby」は、アメリカではロサンゼルスのカサブランカ・レコードからリリースされた。カサブランカはカメオ・パークウェイやブッダ・レコードのA&Rを務めたニール・ボガードが1973年に設立した新しいレーベルだったが、最初に契約したキッスで大成功。続いて売り出したドナ・サマーでも、ミュンヘン録音の無名の新人の1曲を全米チャートの2位まで昇る大ヒットにした。以後、サマー、ベロッテ、モロダーはディスコに狙いを定めた曲を量産するようになり、カサブランカからのアルバム・リリースを重ねた。とはいえ、1976年のアルバム『Four Seasons Of Love』の頃までは、それはフィラデルフィア・サウンドの影響を強く感じさせるものだった。
しかし、1977年の「I Feel Love」はアメリカで生まれ得ないミュンヘン・ディスコ・サウンドの独自性を強烈に打ち出した1曲になった。シンセ・ベースのシーケンスに駆動されたそれは、まさしくエレクトロ・ディスコの先駆けだった。そのリリース時、ベルリンに滞在して、デヴィッド・ボウイのアルバム『ヒーローズ』を制作していたブライアン・イーノは、ボウイにこう言ったと伝えられる。
「この曲は今後15年ほどのクラブ・ミュージックのサウンドを一変させるよ」
ディスコ・ブームの凋落と並行してラップ・レコードが登場
イーノをも興奮させた「I Feel Love」の衝撃は絶大で、それは多くのロック・アーティストにも影響を与えた。だが、ユーロ・ディスコがそんな先鋭性を放つようになった一方で、ブームに乗って粗製乱造されたアメリカン・ディスコは1980年代を前に急な凋落を見せる。『サタデー・ナイト・フィーバー』旋風の1年後には、その反動でディスコを唾棄すべき軽薄な文化として見下す風潮も高まっていた。保守的な人々はその不道徳性を糾弾。一方で、パンクやニューウェイブに熱狂するようになったロック・ファンも反ディスコを掲げるという挟み撃ち状態が生まれた。メジャー・レーベルはそこであっさりと撤退した。インディペンデント・レーベルは苦境に陥り、1979年にはウェスト・エンド・レコードが閉鎖。1981年にはTKレコードも閉鎖された。サルソウル・レコードはその時期を乗り切ったものの、1984年に活動停止している。
とはいえ、ディスコ・ブームが経済的に崩壊しても、DJがいなくなったわけでもなく、ダンサーがいなくなったわけでもなかった。ディスコ・ミュージックの革命性はアンダーグラウンドな場所で次の世代へと引き継がれ、よりハードコアに研ぎ済まれていくことになる。
サルソウル・レコードの設立のきっかけを作ったジョー・バターンは、1979年に同レーベルから「Rap-O Clap-O」というシングルを発表した。シェリル・リンの「Got To Be Real」のベースラインを借用した4つ打ちのディスコ・サウンドの上でバターンがラップするこの曲は、同年に発表されたシュガーヒル・ギャング「Rapper’s Delight」と並び、最初期のラップ・レコードに数えられている。
シック「Good Times」のベース・ラインを借用したシュガーヒル・ギャング「Rapper’s Delight」は、1979年に設立されたシュガーヒル・レコードの最初のリリースだった。シュガーヒルの創設者はシルヴィア・ロビンソン。彼女は1950年代からのキャリアを持つR&Bシンガーだったが、1966年に夫のジョー・ロビンソンとともに、ニュー・ジャージーでオール・プラチナム・レコードを設立。一時期はソウル・ミュージックの裏方に回ったものの、1973年に発表したシングル「Pillow Talk」で全米チャートの3位を獲得する大復活を遂げた。「Pillow Talk」は初期のディスコ・ヒットの一つでもあり、エロティックな喘ぎ声を取り混ぜたシルヴィアのボーカルは、ドナ・サマーの「Love To Love You Baby」に先行するものだったとも評される。ディスコの終焉とヒップホップの出現は同時期だっただけでなく、人脈的にもあちこちでクロスしていた。
1970年代のディスコを通じて、DJという存在の重要性が認識されたこと、DJがその創造性を大きく拡大したことは、レコーディング・アートというものの在り方に決定的な変化を与えたと言ってもいい。ミュージシャンはレコーディングを通じて、完成度の高い音楽作品を作り上げようとする。だが、レコード盤としてプレスされ、完成形として固定されたはずの音楽を、DJは自在に再構成して、新たな価値を創造していく。そういう関係性の中で、1980年代にはヒップホップやハウス・ミュージックの興隆が起こる。だが、こうした大きな流れがどこからやってきたかを考えるときには、もう一つ、たどらねばならない重要な音楽史がある。それはジャマイカにおける極めて特殊なレコーディング・ミュージックの歴史である。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima