〝最高の真空管マイクを作る〟というテーマで開発された一台です
歴史に名を刻むレコーディング用マイクの逸品、ソニー C-800G。本機は、音楽を取り巻く環境のデジタル化が進む1992年に発売された。時代に逆行するかのように開発された真空管コンデンサー・マイクだが、その豊かなサウンドで世界中の音楽クリエイターの耳を捉え、主にボーカル・レコーディングにおいて数々の名作誕生に貢献。現在も、部材の環境対応を経た現行型番C-800G/9Xとして変わらぬコンセプトで製造が続けられており、真空管と冷却機構を外付けしたアイコニックな二体構造のボディが国内外のレコーディング・スタジオで存在感を放っている。C-800Gはいかにして生まれ、育っていったのか。そして、なぜ愛され続けてきたのか。今回、その道のりを知る方々とコンタクトを取ることができたので、詳しく尋ねてみることにした。
真空管の膨大な電子量が、表現力を生む
インタビューに応じてくださったのは、ソニーのマイク開発部門で長年、仕事をしてきた村上佳裕氏と富山康明氏の2人。1983年入社の村上氏と1988年入社の富山氏は、1988年に開発が始まったC-800Gにさまざまな形で関わってきた。まずは、村上氏が当時を振り返る。
「私は入社時、高周波(RF)のエンジニアとして、厚木テクノロジーセンターにできたばかりの情報機器事業本部 音響機器事業部に配属されて、ワイヤレス・マイクの設計課に入りました。有線マイクの課はすぐ隣で、C-800Gの開発が始まったときは横目で見ながら“この時代に真空管を使うのか”と驚いていましたよ。かつてラジオ少年で真空管に慣れ親しんでいた身としては“どんな音がするんだろう”と興味が湧きました。開発中は、C-800Gの前で台本を読む音質評価の作業によく呼ばれ、参加していましたね。その後、2000年に設計統括部長に就任してからは、オーディオ・ビジネスを推進する立場からも、C-800Gの設計/開発における資料作成にあたり、製品のことを深く知っていきました」
一方、富山氏はC-800Gの開発がスタートした直後の入社で、有線マイクの課に配属。C-800Gのチームではなかったものの、新人としてある業務を任された。
「C-800Gの電源ユニットAC-MC800Gの試作です。自分の手掛けた試作品を“明らかに音が良い”と評価してもらったことがありまして、そのときにハンダの量の違いなど、さまざまな要因が音に影響することを学びました。C-800Gに関わった最初の体験ですね」
富山氏は後年、マネージメントの立場に就き、有線マイクと一部ワイヤレス・マイクの設計を取り仕切りながら、C-800Gについては部品調達をはじめとする製品維持の面で関わりを継続してきた。
さて、C-800Gの開発が始まった1988年、ソニーは後にレコーディング・スタジオのスタンダードとなるデジタルMTR、PCM-3348を発表している。また、1982年には最初の民生用CDプレーヤーCDP-101を発売していた。ソニー自身がけん引する形で、音楽のデジタル化が進んでいた時代だ。そこへ真空管マイク、である。
「先ほども言いましたが、正直、最初は“なぜ今、真空管なんだろう?”と思いましたよ。ソニーのコンデンサー・マイクでは、FETを使ったC-38Bが人気を博していて利便性も高かったので。しかし、レコーディングの現場では真空管マイクにも依然、定評があり求められていたんです」と村上氏。続いて富山氏がこう語る。
「真空管だからこその音があるのは間違いないですから。明らかな良さがあるんですよね。厚みがあり、温かく、柔らかい。そして表現力に優れている」 レコーダーやプレーヤーのデジタル化によって音が硬くなる傾向の中、その柔らかさや温かさは必要不可欠だったのかもしれない。
「可視化できるものではないですが」と前置きしつつ2人は真空管内部にイマジネーションを広げる。まずは村上氏。
「真空管をヒーターで熱すると、内部で電子が動きます。圧倒的な、滝のような電子の量になる。だから情報量がものすごく大きいのだと思うんです。そこがFETなどの半導体と違うところなのだろうと考えています」
富山氏も「やはり電子の動きなんでしょうね。電子の粒、その一つ一つの動きが表現力なんだろうなと思います」と、真空管への思いを語る。
C-800Gに採用された真空管は、入手性も高かったNATIONAL ELECTRONICS製の6AU6A。1958年に発売されたソニーの最初の真空管マイクC-37Aに採用されていたNEC製6AU6Lの実績も鑑み、同系統のものが選ばれた。
Product Overview|C-800G/9X
ソニーが1992年に発売した真空管コンデンサー・マイク、C-800Gの現行版。環境対応を経た証として、機種名の末尾に“/9X”のコードが付いている。スピード感があり力強く、それでいて滑らかで伸びのある音を特徴とし、歌から楽器まで、さまざまなソースに対応可能。指向性は単一指向と全指向を切り替えることができる。音の濁りを低減する筐体構造やユニークな真空管冷却機構も魅力で、2016年度グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を獲得している。
カプセルもトランスも“手作業”を導入
C-800Gの音は、スピード感と芯の太さの両立を目指して作られた。スピード感とは、言い換えるなら音の立ち上がりの速さ、入力に対する追従性の良さである。これを実現するためには、剛性の高いボディや振動に強い構造などが求められ、デバイスにおいてはカプセル、真空管、トランスの3つが重要になるという。真空管マイクの仕組みをおさらいしておくと、カプセルが音を電気信号に変換→変換された微弱な信号を真空管アンプで増幅→真空管アンプの高いインピーダンスをトランスで下げてマイク・プリアンプやミキサーなどの外部機器にロスなく出力する、というものだ。
C-800Gのカプセルに使用されているダイアフラムは34mm径のデュアル仕様。素材はPET(ポリエチレンテレフタレート)で、金蒸着を施している。大口径だが、カプセルのインピーダンスを低くしてダイアフラムの音響負荷を軽減し、動きをよくすることでレスポンスを向上させているという。富山氏が語る。
「さらに、細かいことですがビス1本1本の材質や、リングの材質、電極の止め方、表面処理といった部分も音の立ち上がりに影響していると思います。リングは剛性の高いセラミックを使っています」
ダイアフラムのテンションは、強すぎても弱すぎても音を正確に捉えられないため、その絶妙なあんばいを実現すべくC-800Gのテンション調整は手作業で行われている。また、トランスのコイルも一つ一つ手で巻かれている。
「初めはトランス・メーカーから仕入れていたのですが、音質的に満足のいくものを安定供給してもらえなかったため、社内で作りはじめました。コイルも機械巻きでやろうとしていたものの、求める音質が出せず、最終的に手巻きになったのです」
そうして出来上がったトランスを、トランスだけつなぎ替えてテストできる専用のC-800Gに接続し、基準のトランスと音を比較して合格したものだけを使用しているという。C-800Gのクオリティ・コントロールの厳しさを物語るエピソードである。
ご存じだろうか? “あの形”がなす技を
C-800Gはフォルムが独特なことでも知られている。マイク本体から、真空管と冷却機構を外に出した二体構造だ。真空管は使用時に高温になるため、そのままにしておくとノイズやひずみが生じることが分かった。そこで、過去に例を見ない“冷却するということ”にチャレンジした結果、C-800Gは冷却構造を持つユニークなマイクロホンとなった。
真空管の下にはペルチェ素子という電子冷却素子が置かれている。ペルチェ素子は、直流電流を流すと片面が低温になり、もう片面が高温になる特性を持つ。これを生かし、熱伝導剤を介して真空管をペルチェ素子の低温側に密着させ熱を奪う。ペルチェ素子の高温側はヒート・パイプにつながっており、パイプ内の液体が熱を放熱部に運びフィンから放熱する、という仕組みだ。
まさに機能美と言うにふさわしいデザインだが、見慣れた今だからこそ、そう思えるのかもしれない。開発当時は相当にユニークな形に見えただろう。決断も難しかったのではないだろうか。村上氏が振り返る。
「あの頃はデザイン部門が社長の直下にあり、C-800GのデザインにOKの判断を下したのは当時の大賀典雄社長でした。開発の現場にお越しになったときに“変わった形のマイクだな”なんて話をされていました。大賀社長は声楽家でもあったので、関心を持ってご覧になっていました」
一方の富山氏は、こう話す。
「アーティストがC-800Gの前に立つと、真空管と冷却機構がマイク本体の後ろに隠れるんですよね。だから圧迫感を与えることがない。よく考えられたデザインだと思います」
C-800Gには“C-800”なる兄弟機が存在した
ここで、C-800Gにまつわるエピソードで、あまり知られていない話を紹介しよう。まずはC-800Gと同時期に発売されたC-800という真空管マイクについて、富山氏が語る。
「“最高の真空管マイクを作る”というテーマで開発が始まり、音質評価に2年から3年を費やす中で、アーティストやプロデューサー、レコーディング・エンジニアの方々からご意見をいただきながら、幾つかのバージョンを試していたわけです。そのうちの一つが、後にC-800Gとなる増幅型の真空管を積んだボーカル用マイク。そして、既に北米で根強い人気のあったC-37Aをベースに、それを超える真空管マイクを作ることを目標にしたのが後のC-800です。C-37Aは増幅型ではなく、カソード・フォロワーという音圧を重視した方式で、楽器の収録に適していました。C-800もその方式を採用していて、信号を増幅しないためヘッド・マージンを稼ぐことができ、ひずみにくいという特性があります。音質的には素直で伸びやかでした」
そして実はもう1機種、真空管マイクが企画されていたという。
「サブミニチュア管という細い真空管を使ったペンシル型のモデルが検討されていました。真空管自体が入手困難だということもあって商品化には至らず、C-800、C-800G、ペンシル型マイクという三兄弟がそろうのは幻に終わりました」
C-800Gは現在、C-800G/9Xという型番で販売されている。この2つの型番の関係について整理しておこう。
ソニーは2000年前後、製品に使用する材料や部品から環境負荷の高いものをなくそうという動きを始めた。これに対応し、C-800Gも鉛を含んだハンダなどを使わずに製造することとなった。ただ、先の富山氏のコメントからも分かるように、ハンダの量で音の変化が生じるほどなので、材料自体が変わることでの音の変化は避けられない。そこで環境対応を経た製品には新しい型番が付けられることになり、“/9X”が付加されたのだ。また、在庫の管理上、環境対応していないものが出荷されないように識別するため、という理由もあった。“/9X”という文字列は、当時のソニー社内で用いられていた管理コードであり、特に大きな意味はないそうだ。
鉛は真空管にも使われている。ガラスには、鉛を添加して透明度を高める製造方法があり、C-800Gで使用されていた真空管のガラスにも鉛が含まれている。ただ、真空管用のガラスに含まれる鉛については、ヨーロッパの特定有害物質使用制限(RoHS)よりさらに厳しい社内基準やルールに則して市場導入をすることができた。
こうした環境対応をはじめ、同じ材料や部品を使い続けられる保証はなく、変更せざるを得ないケースがある。「ビス1本でも音は変わる」と、村上氏と富山氏が口をそろえるほど、材料や部品の変化は音に影響を及ぼす。村上氏によると、開発陣は「音の質が変わることはあるが、音のカラーは変えてはいけない」という共通認識を持っていたという。スピード感と芯の太さを両立し、前に出てくる音こそがC-800Gのカラーであり、一貫して守り続けられている部分である。
Factory for C-800G
C-800Gは、大分県のソニー・太陽株式会社で製造されている。驚くべきことに、熟練した職人が一台一台、手作業で製造しており、効率的に進めるべく、必要な部品をまとめたテーブルが何枚も用意されている。
録音エンジニアに何回、意見を聞くか
開発初期だけでなく、材料や部品に変更が生じた際にも、試作を繰り返して入念に音質評価を行い“C-800Gのカラー”が保たれているかを確認する。「まずは社内に用意した基準となるリスニング・ルームで試聴します」と富山氏。
「リスニング・ルームの設定も厳しくて、マイク・スタンドを立てる位置がマーキングしてあるのはもちろん、マイク・スタンドのネジも勝手に変えると音が変わるというので専用のものが決まっていたりしました」
続いて村上氏がこう語る。
「リスニング・ルームにはC-800Gの基準機があり、それとひたすら聴き比べる。開発の人間は、電気やメカの専門家であり、音楽に関してはレコーディング・エンジニアのような人たちに比べると素人のようなものですが、毎日聴き比べをしていると細かい違いも分かるようになるんです」
初期のC-800Gの音質評価には、人間の声のほかに、ある道具が利用されていた。明珍火箸だ。明珍火箸とは、平安時代から続く甲冑師の家系、明珍家が製作する火箸。C-800Gの音質評価では、ひもで吊るした鉄製の火箸をぶつけ合うことで音を鳴らし、音源として使っていたのだ。アタックとリリースの具合が絶妙で、この音が奇麗に再現できることも評価の基準としていたという。
社内での音質評価が進むと、次はユーザーとなるレコーディング・エンジニアの意見を聞く。村上氏はこう話す。
「いくら私たちが良くても、最後に使う人たちが良くなければ意味がないので。ただ、なかなかいいよと言ってもらえない……環境対応したときなんかは、恐る恐る伺ったのですが、C-800Gの基本的なところを守りながら時代にマッチした音になっているんじゃないかと言われたときには、みんなで胸をなで下ろしました。結局、良いものを作るには彼らの現場に何回、足を運ぶかなんだと思います」
ちなみに、レコーディング・エンジニアとのコミュニケーションで一番苦労したのは“言葉の壁”だったそうだ。例えば「カーテンに隠れたような音」という表現をされたとき、それがどういう状態を指しているのか、理解するのに時間がかかったという。それでも想像力を働かせ、技術を凝らして突き詰めた結果がC-800Gとなり、世界中のプロフェッショナルから愛されるに至った。
C-800Gは、現行型番のC-800G/9Xとして、変わらぬコンセプトで製造が続けられている。温かく柔らかな真空管特有のサウンドと、打てば響くようなレスポンスの良さを備えた特別な一本は、これからも音楽クリエイターたちの表現を余すところなく捉えていくだろう。
Albums that's used C-800G
本誌の記事アーカイブスから辿ったものを中心に、C-800Gが使われた作品を紹介する。ここに掲載したアルバム以外にも、セリーヌ・ディオンやマライア・キャリー、デスティニーズ・チャイルド、ビヨンセ、マーティン・ギャリックスといった海外のビッグ・ネームからVaundy、EXILE SHOKICHI、syudou、SEKAI NO OWARIといった現代の国内勢まで、数多くのアーティストに採用されてきたことが確認できる。
『THE GREATEST UNKNOWN』
King Gnu
(2023年)
『SONORITE』
山下達郎
(2005年)
『MEDICINE COMPILATION』
細野晴臣
(1993年)
『ソー・ファー・ソー・グッド』
ザ・チェインスモーカーズ
(2022年)
『Slime Language 2』
ヤング・ストーナー・ライフ、ヤング・サグ & ガンナ
(2021年)
『ターンド・トゥ・ブルー』
ナンシー・ウィルソン
(2006年)