今年35周年を迎えるメディア・インテグレーションが、今後行われるメインイベントのキックオフとして、4月19日(金)にLUSH HUBスペシャル・セミナーイベント『35th 2024 Resonate! Ring of Groove』を開催した。そこで行われた、伝説のエンジニア=ボブ・クリアマウンテン氏と国内で活躍するニラジ・カジャンチ氏によるスペシャル・トークセッションの内容をお届けする。
人生初のスタジオセッションはデューク・エリントン
冒頭では、それぞれがキャリアのスタートについて語りあった。まずはニラジ氏がニューヨークでのフィル・ラモーンとの出会いについて語る。
「僕はニューヨークで生まれたのですが、中学生の頃に音楽プロデューサーのフィル・ラモーンと出会いました。当時、僕が住んでいた家の近くに彼も住んでいたこともあり、高校時代には彼のスタジオで下っ端アシスタントとして働いたんです。その後、彼は僕をヒット・ファクトリーという有名なレコーディングスタジオのマネージャーに紹介してくれました」
ニラジ氏は、そのヒット・ファクトリーで研修生として採用されたと話す。
「いわゆるアシスタントのアシスタントでしたね。しかし、その2週間後にあるエンジニアが不在な状況に直面したんです。そのとき、スタッフから“Euphonix System 5というデジタルミキサーを操作できるか?”と聞かれ、“はい”と答えました。これがきっかけとなり、エレファントマンのセッションでエンジニアとしてデビューすることになったんです。これが僕のキャリアの始まりでした」
これを聞いたクリアマウンテン氏は、「私もニラジさんと似たような始まり方だったんです」と切り出した。
「私はもともとベーシスト/ギタリストとしてバンド活動をしており、当時はニューヨークのレコーディングスタジオでよくデモを録音していたんです。そのときに私はスタジオで働くことに興味を持ち、スタジオのスタッフに自分を雇ってもらえないかと話しました。もちろんその場では断られましたが、その年の夏の終わりにスタジオのランナー(テープの配達をする係)として雇われることになったんです」
そんなある日、クリアマウンテン氏は配達先からスタジオに戻ると、オフィスのスタッフから“スタジオAにすぐに行ってください“と言われたという。
「そのとき私は、きっと何か大きな失敗をしたので仕事をクビにされるのだろうと思っていたのですが、実際はその日からアシスタントエンジニアとして働くことになったんです。そして、その日スタジオAで携わることとなった人生初のセッションは、なんとジャズの大御所デューク・エリントンとのものでした。これが1972年、私が19歳のときの話です」
デヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」レコーディング秘話
レコーディングスタジオでの経験が豊富な2人にとって、試行錯誤や予期せぬ出来事から素晴らしいサウンドが誕生することは珍しくない。この点について、クリアマウンテン氏は次のように述べている。
「ある日、デヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」のレコーディングでナイル・ロジャースがギターを演奏していたんですが、そのフレーズが非常にシンプルだったんです。彼はそれが退屈だと言っており、“何かリバーブやディレイなどを加えて面白くできないか?”と私に尋ねてきたことがありました」
クリアマウンテン氏はその際、ギターにSTUDERのテープマシンを使用してディレイをかけようとしたところ、既にほかの楽器用にセットアップされていたため、リターンの音量が非常に大きくなってしまったと語る。
「私は慌てて調整しようとしたその瞬間、ナイルとデヴィッドが飛び上がって“そのまま!”と叫んだのです。彼らにとってそのサウンドが完ぺきだたようで、結果的にはそれがレコードに収録されました。これこそがまさに完ぺきなアクシデントであり、1980年代の大ヒット曲「レッツ・ダンス」の裏にあるスタジオマジックの一例です。そのサウンドは今、私が監修したプラグイン、Apogee CLEARMOUNTAIN'S DOMAINのプリセットとして収録されています」
これを聞いたニラジ氏は、さらに最近のスタジオエピソードを話してくれた。
「先日、日本のサックスレジェンド、渡辺貞夫さんのレコーディングを担当した際の話です。渡辺さんが広い部屋での演奏を希望されていましたが、サウンド的な理由からレコーディングブースでの演奏を提案したんですよ。そしてプレイバック中、真横に座った渡辺さんにしばらく無言でじっと見つめられてめちゃくちゃ緊張したものの、彼からグッドサインをもらえたので安心しました(笑)。この経験は、15年間の日本でのキャリアの中でも特に印象深い出来事として心に残っています」
日米におけるイマーシブオーディオの浸透率
トークセッションの後半では、ニラジ氏がクリアマウンテン氏にアメリカにおけるステレオ/イマーシブオーディオ・ミックスの需要バランスについて質問。するとクリアマウンテン氏は以下のように回答した。
「イマーシブオーディオのミックスが年々増加しています。現在はステレオとイマーシブオーディオのミックス依頼を同時に受けるのが一般的です。また、主要なレコード会社は両フォーマットでの納品を要求するため、私は基本的にステレオとDolby Atmosミックスの作業をほぼ同時に行っています。ちなみにオーディオインターフェースは、Apogee Symphony I/O Mk2です」
これに対し、ニラジ氏はこのように返答した。
「日本では、イマーシブオーディオの普及についてはまだ十分でないように思います。アメリカでは、5年くらい前からボブさんをはじめ、クリス・ロード=アルジ、アンドリュー・シェプスなどの著名エンジニアがスタジオをDolby Atmos対応にアップグレードしました。自分は日本もこの動向に追随すると思ったので、2022年末に自分のスタジオもDolby Atmos対応にアップグレードしたんです」
ニラジ氏は、日本の現状ではステレオミックスとDolby Atmosミックスでは異なるアプローチが必要だと考えており、後者の作業時間は約3倍にもなるという。
「ボブさんのように両フォーマットを同時にミックスできるようになれば、作業時間はあまり増えないでしょう。僕はステレオミックスを行った後、ステムを作ってDolby Atmosミックスをするというスタイルです。しかし、日本でも両方のフォーマットを同時に納品するように求められるようになれば、僕もボブさんのやり方を取り入れたいと思いますね」
Dolby Atmosミックスにおけるアドバイス
続いて、ニラジ氏が「ステムを受け取ってDolby Atmosミックスをすることがありますか?」かと質問すると、クリアマウンテン氏はこう回答した。
「実際にそういうことはあります。最近ブライアン・アダムスの楽曲で、ほかの方が作成したステムを使ったDolby Atmosミックスを行うケースがありました。これらのステムはエフェクト成分が入っていなかったため、自由度の高いDolby Atmosミックスが可能でしたね。しかし、通常のステムにはエフェクト成分が含まれているため、ミックスの自由度が制限されるでしょう。可能であれば2ミックスを行ったエンジニアと連絡を取り、エフェクト成分と分けたデータを依頼することをお勧めします」
さらにニラジ氏が「iPhoneでApple Musicを再生すると、デフォルトでDolby Atmosミックスが再生されるようになっています。しかし、多くのリスナーはステレオミックスに馴染みがあると思うのですが、これについてどう思われますか?」という質問を投げかける。すると、クリアマウンテン氏は次のように述べた。
「そうなんです。だから私は、普段からオリジナルの音源、つまりステレオミックスに近づけたDolby Atmosミックスを心掛けているんですよ。あるいは、それ以上に良くしようと努力しています。一例として、ボブ・マーリー「イズ・ディス・ラヴ」のステレオミックスはとても良いのですが、幾つかの楽器がもっと聴こえたら……と思ったので、私が手掛けたDolby Atmosミックス版ではその部分を主に調整したんです」
ニラジ氏は「ステレオミックスとは異なるアプローチで表現されていて素晴らしかったです」と試聴した感想を述べ、こう尋ねた。
「これまで僕は、さまざまな再生環境を考慮してハードセンターを極力使用しないミックスを心掛けてきましたが、最近ボブさんのDolby Atmosミックスを研究して気づいたのは、ボブさんがセンタースピーカーに多くの楽器を配置しているということです。特にキック/ベース/スネア/ボーカルなどがセンターから出力されることが多く、なぜボブさんはそんなにセンタースピーカーにこだわるのでしょうか?」
クリアマウンテン氏はこのように解説する。
「Dolby Atmosミックスは映画のミックスと似ており、センタースピーカーの使い方がポイントなんです。これはリスナーが部屋のどこにいてもバランスの良い音を体験できるようにするためで、スウィートスポットから外れても音のバランスを保つことができます。センタースピーカーを効果的に利用することで、どの位置からでも音楽が中央に定位され、映画のような一貫性のあるオーディオ体験を提供できるのです」
トークセッションの最後は、質疑応答の時間。来場者からはさまざまな質問がクリアマウンテン氏に投げかけられたが、特に印象的だったのは「Dolby Atmosミックスにおける、彼なりの定位や“オブジェクト”の使い方の基準は?」という質問だ。これに対し、クリアマウンテン氏はこう回答した。
「ステレオミックスと似ていて、ドラムやボーカルといった主要パートは基本的に静的であるべきです。しかし、ディレイなどのエフェクト、イントロにおけるギターリフ、特定のシンセなどは遊び心を持って動かすことで、リスナーの興味を引きつけたり、没入感を与えたりすることができるでしょう」
今回、クリアマウンテン氏とニラジ氏という2人の著名エンジニアが、キャリアのスタートからスタジオでの試行錯誤、そしてイマーシブオーディオへの取り組みに至るまで、その貴重な経験と知見を惜しみなく共有してくれた。今回のスペシャル・トークセッションが、参加者にとって刺激的かつ有意義な時間となったことは間違いないだろう。